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	<title>日本Webリポート＆ニュース &#187; 文化</title>
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	<description>弱者の味方。みんなで作る、投稿型ニュースサイト</description>
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		<title>震災日誌ｉｎ仙台（１１月）</title>
		<link>http://www.webreport.jp/6964.html</link>
		<comments>http://www.webreport.jp/6964.html#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 15 Dec 2011 02:53:50 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kiyo7</dc:creator>
				<category><![CDATA[くらし]]></category>
		<category><![CDATA[文化]]></category>
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		<category><![CDATA[社会]]></category>
		<category><![CDATA[芸術・文化]]></category>

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		<description><![CDATA[				
				１１月１３日　　復活の演奏会・鎮魂と再生の願いを込めて                               仙台シンフォニエッタの第２７回演奏会。会場は東北大学の萩ホール。私はこのアマチュアオ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				
				<p>１１月１３日　　復活の演奏会・鎮魂と再生の願いを込めて<br /><br />                               <a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/3f2545733f14a9ea1fc27c4e9df08c562.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/3f2545733f14a9ea1fc27c4e9df08c562-300x225.jpg" title="楽団" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-7093" /></a><br /><br />仙台シンフォニエッタの第２７回演奏会。会場は東北大学の萩ホール。私はこのアマチュアオーケストラのコンサートマスターをしている。６月１２日に同じ会場で演奏会を予定していた。しかし、震災でこのホールをはじめ仙台の音楽ホールが、軒並み天井や舞台が落ちるなどの被害を受けた。演奏会は中止。それどころか震災直後は音楽をやる気になれなかった。気を取り直して老人ホームなどでのボランテイア演奏を始めたのが５月中旬。練習会場の市民センターが復旧し、定時の練習を開始したのが７月だった。私たちは鎮魂と地域再生への願いを演奏会のテーマに据えた。プログラムは６月に予定していたものが中心。演奏会は復活したのだ。田所正路団長はプログラム冒頭のあいさつに、東松島市にあった母の実家が津波に襲われたこと。少年時代に親しんだピアノが泥にまみれ、蓄音器やレコードがすべて流されたこと、そして音楽に託す希望を書いた。誰もが深い感慨とともにこの日を迎えた。</p>
				<p><span id="more-6964"></span>今回は弦楽中心のプログラム。冒頭でバッハの「Ｇ線上のアリア」を演奏した。この曲は私たちには特別の意味があった。ボランテイア演奏では、震災の犠牲者への追悼の想いをこめて必ず最初に演奏してきた。今回も、前後の拍手は遠慮してもらった。<br />次いでヘンリー・パーセルの「シャコンヌ・ト短調」同じ低音の上で発展する変奏曲だ。荘重な曲調にやはり鎮魂の想いをこめた。</p>
				<p>　　　　　　　　　<a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/89ab397ce7f92bf0b9522ace5294668f.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/89ab397ce7f92bf0b9522ace5294668f-300x225.jpg" title="コンmasu②" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-6968" /></a><br /><br />　　　　　　          <a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/dd4cc1a38e82aa943cf69c0808ebcc52.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/dd4cc1a38e82aa943cf69c0808ebcc52-300x225.jpg" title="コンマス③" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-6969" /></a><br /><br />ブリクシーの「ヴィオラ協奏曲・ハ長調」なじみの薄い名前だが、モーツアルトより１世代前のチェコの作曲家。当時のプラハの音楽家として最高の地位である、聖ヴィート大聖堂の音楽監督を務めた。当時あまり使われなかったシンコペーションを多用した作曲家とも言われる。<br />第３楽章にはそのシンコペーションの軽快なリズムが随所に顔を出す。ヴィオラ独奏は長年トレーナー役も務めてくれている、仙台フィルの梅田昌子さん。オーケストラ譜は私たちが知る限り、日本は勿論、海外のめぼしい楽譜屋にもなかった。ピアノ伴奏譜と、数少ない音源を頼りに梅田さんが中心になって、弦５部のパート譜を起こした。オーケストラによる演奏は間違いなく日本初演だ。<br />前半の最後はバーバーの「弦楽のためのアダージョ」映画「プラトーン」で一躍有名になったのでご存知の方は多いと思う。ゆったりとしたメロデイが現代人の苦悩を語る。大震災と福島第一原発の事故の前にたじろぐ私たちの姿にも重なる。曲はピアニッシモで終わる。深い余韻を残して。このまま拍手がない方がよかった。<br />第二部はモーツアルトの「デイヴェルテイメント第１７番・ニ長調」６楽章もあり、全曲で５０分。彼の残した４１の交響曲のどれよりも長い大曲だ。貴族の宴会の席で演奏されたいわばＢＧＭ。弦５部とホルン２本で演奏する。<br />貴族たちが杯を重ねる喧騒をものともせずに奏でられる音楽は天才の輝きに満ちている。この曲はモーツアルトがマンハイム・パリ旅行から故郷ザルツブルクに戻った時期に書かれた。この旅行、失意の旅だった。最愛の母が旅先のパリで病死。名声をえようという夢は断たれた。その上、想いを寄せていた女性にはふられた。三重の衝撃は並みの人間なら、人生に絶望するに充分だ。それを、創作のエネルギーに変えてしまう。天才の天才たる所以だ。</p>
				<div><a href="http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/024/459/80/N000/000/000/132369871908613211998_DSC00851.JPG" target="_blank"></a></div>
				<p>　　　　　　　　　<a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/konnmasu4.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/konnmasu4-300x225.jpg" title="konnmasu4" width="300" height="225" class="alignnone size-medium wp-image-6970" /></a><br /><br />白眉は終曲のロンド。長い長い曲の最後に、喜びに満ちた文字通り躍るようなロンド主題が繰り返し歌われる。しかも、ひとつとして同じものと思えない新しい装いで登場する。「こんな風に歌うのも楽しいよね！」天才の声が聞こえるようだ。<br />震災に一時心を折れていた私たち。この曲に勇気付けられた。そこに再生への希望を感じない訳にはいかなかった。（前著「アマチュアオーケストラは楽しい」の筆致に似てきた。やはり音楽は楽しい。）<br />実は、この曲第一ヴァイオリンは時に協奏曲のソロ並みのパッセージを弾かなければならない。正直に言うとアマチュアオーケストラには難しい曲だ。パート練習を重ねて私たちは弾き切った。破たんした箇所がなかった訳ではない。しかし、達成感の方が勝っていた。<br />終演後、知り合いの一人が「鎮魂の第一部、後半の希望というメッセージがはっきり分かった」と話してくれた。復活の演奏会は私たちに、前へ進む新たな力を与えてくれた。<br />次回の演奏会は来年６月１７日。ベートーヴェン「運命」、シューベルト「未完成」という名曲中の名曲を並べる。（了）</p>
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				<p>１１月８日　　鎮魂と地域再生のシンボルの花を咲かせよう～大山桜を植える  </p>
				<p><a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/d9239af68e380f394c9885c4301a0567.jpg"></a><a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/d9239af68e380f394c9885c4301a05671.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/d9239af68e380f394c9885c4301a05671-300x225.jpg" title="山桜" width="300" height="225" class="alignright size-medium wp-image-6985" /></a>東松島市野蒜（のびる）の佐藤善文さん（７７）を再訪。手作りの避難所で住民７０人の命を救った方である。（「震災日誌ｉｎ仙台」１６４ページ）小高い丘の上にある避難所から、高さにして１０メートルほど下がった所にある所有地を新たに整地した。広さ３、３００平方メートルほどの草原が住民が憩える場所、兼避難所に姿を変えた。今回もすべて自費。私設の公園、兼避難所である。<br />公園にふさわしい木々を植えよう。長野県と岩手県の民間団体の人たちが、日本古来の桜である大山桜の苗木１５本を携えてやって来た。苗木は長野市戸隠の「大山桜の会」が育てた８年生のもの。岩手県一関市の僧侶、後藤泰彦（たいげん）さん（５１）が代表を務める「手合わせ桜の会」が仲立ちをした。両会のメンバーは多くの児童が犠牲になった、石巻市の大川小学校にも大山桜を植樹してきたという。この日は近所の人たちも加わり、１０人ほどで植樹作業に取り掛かった。次の写真は左から佐藤さん、後藤さん、里野さん。<br /><br /><a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/a31d92b5be35aadd1f76ab0e0c458445.jpg"></a><a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/a31d92b5be35aadd1f76ab0e0c4584451.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/a31d92b5be35aadd1f76ab0e0c4584451-300x225.jpg" title="紹介" width="300" height="225" class="alignright size-medium wp-image-6986" /></a>深さ８０センチほどの穴を、シャベルとツルハシを使って掘っていく。大きな石に突き当たることもあり作業は結構大変だ。まず腐葉土をたっぷり入れ、苗木を植え込む。大山桜の会代表の里野龍平（さとのりゅうへい）さん（７１）が手を取って、いや足を取って植樹を指導した。丁寧にまわりの土をかぶせ、水をかける。棒をざくざくと突き立てて、水の通りをよくする。里野さんの地下足袋が土を柔らかく踏み固める。「地下足袋は植木職人の手みたいなもの。土の硬い、柔らかいがよく分かる」と言う。最後に苗木が倒れないよう添え木で固定して出来上がりだ。取材だけという訳にいかない。シャベルを取って手伝うがじきに腰が痛くなる。<br /><br /><a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/ce8b2dbabb59330d190a574ed038c9e5.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/ce8b2dbabb59330d190a574ed038c9e5-300x225.jpg" title="剪定" width="300" height="225" class="alignleft" /></a></p>
				<p><a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/61c0894444a89336c31618e4f8c51a45.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/61c0894444a89336c31618e4f8c51a45-225x300.jpg" title="苗" width="225" height="300" /></a></p>
				<p>大山桜はソメイヨシノよりやや遅れて、薄いピンクの花を咲かせる。実生から８年、苗畑で育ててきたので、来年の春には一部花が咲くという。手合わせ桜の会の後藤泰彦師「この地に咲く桜が震災の犠牲者の御霊を慰めるとともに、地域再生のシンボルになってほしい」と話す。被災地に根付く善意が、見ず知らずの地の善意を呼び寄せる。そして花となって咲き人々の心を解きほぐし、和ませる。<br />高台になっている私設公園から見える野蒜の住宅地では、津波で破壊された家を取り壊す重機が動いていた。東松島市の復興計画のアウトラインがようやく固まり、この地区でも原則として居住を禁止する区域と、引き続き居住できる区域の線引きが決まった。しかし、家を取り壊さなければならない住民たちの移転先はまだ決まっていない。咲き誇る大山桜が、再生した野蒜地区の姿を眼にすることができるのは、一体何年先になるのだろうか？（了）</p>
				<p>１１月６日　　再び、被災地支援について</p>
				<p><a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/0938278228068ca19eda0e8c359516d3.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/0938278228068ca19eda0e8c359516d3-300x225.jpg" title="野菜はたけ" width="300" height="225" class="alignright size-medium wp-image-6988" /></a>日曜の午前１０時、名取市の耕谷アグリサービスに足を運ぶ。東北コットンプロジェクトに参加。津波の被害を受けた田んぼで、塩害に強いという綿花栽培をしてきた。今日はボランテイアも参加して綿の摘み取りだという。今にも雨が落ちてきそうな空模様。そろいのヤッケを着た２０人ほどのボランテイアが会社の事務所脇の綿花畑で作業をしていた。最初にこのプロジェクトを発案した、靴下メーカー「タビオ」の工場がある奈良県広陵町の人々だ。前々日、金曜日の夕方バスで出発。一晩かけて仙台着。被災地を回ったあとホテルで一泊。日曜日の今日、綿花の摘み取り作業をして、夕方再びバスで帰途へ。月曜日の朝には奈良に着く。仕事に間に合うという計算だ。ボランテイア・バスは大概こんなスケジュールで来る。熱意と善意には心底頭が下がる。私が遠隔地の住民だったら、果たしてこうした奉仕に参加していただろうか？<br />１０月１６日の項でも紹介したが、綿花は咲いた花がコットンボールという実になる。これが熟してはじける。収穫の適期だ。しかし摘み取りの日だというのに、コットンボールを着けている木はちらほら。遠路やって来たボランテイアの方々も拍子抜けの表情だ。一斉摘み取りは取りやめとなった。無駄足となっては困る。およそ６０センチ、腰の高さほどあろうか、コットンボールの着いていない木。つまり綿花がうまく育たなかった木を引きぬいて、チェーンソーで細かく裁断する作業をやっていた。木を無駄にせずパルプの原料にするのだという。<br />プロジェクトを引き受けた耕谷アグリサービスの佐藤富志雄専務も残念そう。「綿花栽培など知りもしなかったので断言はできない。しかし、やはり栽培の北限を越えていたのだろうか」わずかに育ったコットンボールはアグリサービスの社員がこれから少しずつ摘み取る。ボランテイアの手を借りなくてもこなせる作業量だ。</p>
				<p style="text-align: center;"><a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/c014e740bb9d9a960f9ef62ea7f0391e.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/c014e740bb9d9a960f9ef62ea7f0391e-300x225.jpg" title="ジャンバー" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-6989  aligncenter" /></a>  </p>
				<p style="text-align: center;"><a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/aac34ab6e6597f786a79b744eda009ff.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/aac34ab6e6597f786a79b744eda009ff-300x225.jpg" title="仕分け" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-6991  aligncenter" /></a><a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/6a58c88246effc15c7194a0832eacb69.jpg"></a></p>
				<p><br />アグリサービスは津波の被害にも手をこまねいていた訳ではない。大豆の作付や育苗事業を拡大して減収を最小限の抑える度量をしてきた。法人化して８年。組織力と信用力を培ったたまものだ。被災農業者の中では幸運な条件に恵まれていた。来年は復旧工事が進み、稲作が再開できる水田が増える見込みだ。経営の主力は本来の米作りに戻る。綿花がメインの仕事になりえないのは明らかだ、しかし、プロジェクトを持ちかけてくれた方々の心意気は大事にしたいという。来年は今回作付した４０アールを倍くらいにする予定だ。<br />プロジェクトの参加する企業は時が経つにつれ増えてきた。当初のタビオだけでなく、商社やデパート、航空会社も名前を連ねている。メデイアに報じられたのも手伝ったのだろうか。事務局は東京の企画会社らしい。これまで聞いたことのない社名なので「らしい」としか言いようがない。最初にプロジェクトを取材しようとした時の問い合わせ先はこの会社だった。問い合わせに担当者という男性が携帯電話で答えてきた。引き受け先の農業法人の所在地は教えられない。綿花の収穫日が決まったら連絡するという。連絡はついぞなかった。</p>
				<p style="text-align: center;"> <img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/6a58c88246effc15c7194a0832eacb69-300x225.jpg" title="看板" width="300" height="225" class="aligncenter" /></p>
				<p style="text-align: center;"><a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/5e66810b7f52b7bfbe10ab48b9c876e01.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/5e66810b7f52b7bfbe10ab48b9c876e01-300x225.jpg" title="綿畑" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-6993  aligncenter" /></a></p>
				<p style="text-align: center;"><a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/ca35294d84a5a50a955674f7e7aa8515.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/ca35294d84a5a50a955674f7e7aa8515-300x225.jpg" title="ブル" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-6994  aligncenter" /></a></p>
				<p>このプロジェクトはもう一か所、仙台市の農業法人が作付を引き受けていた。１１月２３日、若林区荒浜の綿花畑を訪ねた。こちらは１・２ヘクタールと広い。東北コットンプロジェクト・綿花栽培圃場という看板も立っている。しかし、５～６０センチほどに伸びた綿花はほとんどが茶色に立ち枯れていた。コットンボールがちらほら見える。はじけるまでに成長したのはほとんどない。プロジェクトではボランテイアの方々の手による収穫祭を予定していたが、取りやめたという。綿花の播種は名取より半月遅い６月１８日だった。台風１５号で冠水する被害が重なった。<br />まわりの水田ではようやく復旧工事が本格化していた。あちこちでブルドーザーが動き回る。流れ込んだ瓦礫などを撤去する。そして塩分を含んだ表土を削り取る。来春には田んぼに水を引き、塩分を取り除く除塩作業が始まる。再来年の米作付再開を目指す。被災した農家の方々が待ち望んでいた工事だ。<br />綿花の栽培、来年はどうするのか気になる。「仙台東部地域綿の花生産組合」の赤坂芳則代表に聞いた。「農地復旧事業が進んでおり、周りの地権者との協議が必要だが、この地区の米作りは来年はまだできない。綿花は今年と同じ規模を考えている」綿花栽培の北限を越えているのでは？「播種を１か月程度早めるなどの工夫が必要だ。何しろ知識、経験ゼロの状態で始めた。１年だけで失敗だったとも言えない」やや歯切れが悪い。<br />プロジェクトに参加した企業の善意は疑いようがない。被災地に手を差し伸べようという想いは貴重である。津波をかぶった水田に綿花の花を咲かせようというのはそもそも夢のある話だった。復興のシンボルとして私たちも期待に胸をふくらませた。残念ながら、今年をみるかぎり栽培の北限を超えることは難しかった。仮に来年播種を早めて順調に生育したとしても、ある程度の規模がなければ採算の取れる事業にはなりえない。メデイアの多くは善意に対する遠慮からかはっきり書かないが、このプロジェクトこの一年をみる限り残念ながら失敗だった。<br />必要なのは被災地の実情に応じた支援である。お互いの顔が見える支援と言い換えてもいい。そして、寄せられた多くの善意を生かすのは、こうしたプロジェクトの場合コーデイネーターの力量であるはずだ。そういえば、私の古巣のＮＨＫは「サキどり」という番組でこのプロジェクトを大々的に取り上げていた。口当たりのいい部分、もしくは番組の方向に好都合な部分を切り取って伝える。これは真実とは決して言えない。無論、他人事ではない。取材に当たる私たちが、いつも自戒しなければならないことだ。（了） </p>
				<p> １１月２日　　仮設住宅は住みよいか？ <br /><br /><a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/609ceafe21a6fb75f27eb537ce8073d02.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/609ceafe21a6fb75f27eb537ce8073d02-300x225.jpg" title="遠望" width="300" height="225" class="alignright size-medium wp-image-7000" /></a>ＪＲ仙台駅から新幹線で東京方面へ４分ほど行って左手。異様な光景が拡がる。平屋の仮設住宅が２３３戸並んでいる。仙台市内で最大の仮設住宅の団地だ。被災した方々が住んでいらっしゃる空間を”異様”と呼ぶのはいかにも申し訳ない。しかし、高層マンションやビル街から、いきなり異質な風景に変わる。<br />一瞬ぎょっとする方は多いと思う。ここは「あすと長町」と名付けられた再開発地区。もとはＪＲの貨物ヤードだった。仙台市はここを副都心と位置付け、公共のホールや民間企業の誘致を図ったが思うように進まない。広大な空き地が仮設住宅の用地になった。<br />すぐ隣は民間の住宅団地。真新しい建て売り住宅が並ぶ。無機質なパネル色のまま建ち並ぶ仮設住宅。色とりどりの建て売り住宅と並ぶと、余計に建物としての異質さが際立ってしまう。一番広いタイプで３９・６平方メートル。普通の住宅の三分の一にもならない。震災までは首都圏などのに比べれば、広めの住まいを構えていた方が多い。これで住みよいと考える方がどうかしている。<br />この日、比較的に住みよいという３階建ての仮設住宅が建設されている女川町に向かった。貨物用のコンテナを積み木細工のように組み合わせたもので、全国で初めての方式だという。場所は役場の仮庁舎に隣接する総合運動公園内の野球場の敷地。すでに完成して入居済みの２階建ての住宅の隣で６棟が建設されていた。建物のすぐ脇には、スコアボードや観客席がそのまま残っている。<br />この方式を採用した大きな理由が用地難。女川町はリアス式の地形で海岸に山がすぐ迫る。仮設住宅を建てる用地がない。１３００戸の住宅のうち、２００戸余りは隣接する石巻市内に建設せざるをえなかった。用地難を解決するため、外国製のコンテナを積み上げる方式を採用した。仮設住宅の印象はない。普通のアパートといってもおかしくない建物だ。完成予定は何と明日、１１月３日。敷地内ではまだブルドーザーや大型のクレーンが音を立てて動き回っている。６日から９日までに入居というスケジュールだ。<br />建物内部を見せてもらった。６坪１ＤＫのタイプから、９坪２ＤＫ、１２坪３Ｋの三つのタイプがあり、全部で１４４戸。台所にシンク、エアコン、冷蔵庫などが備えられている。見慣れた平屋の住宅とは大分印象が違う。造りは見たところしっかりしている。上下の階で居間と寝室の配置が互い違いになっている。生活騒音を配慮した設計だ。仮設と言わず、恒久住宅にしてもおかしくない。気になるコスト。女川町役場によると、平均の単価は１戸当たり６５０万円。平屋建ての住宅とほぼ同じだという。</p>
				<p style="text-align: center;"><a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/1ef3ddeff6b0d1d2f8bdb1fb58087827.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/1ef3ddeff6b0d1d2f8bdb1fb58087827-300x225.jpg" title="外観" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-7001  aligncenter" /></a></p>
				<p style="text-align: center;"><a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/c92e2a629b6aa0a9523323b9f31eafae.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/c92e2a629b6aa0a9523323b9f31eafae-300x225.jpg" title="内観" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-7002  aligncenter" /></a></p>
				<p><br />いかにも「応急」と言うほかない平屋建ての通常の仮設住宅。それに比べれば少しは快適そうな２階、３階建ての住宅。用地難などと言わずに、仮設住宅はせめてこの方式にできなかったものか。ただ、実際に入居してどうだろうか。<br />６日後の１１月８日、再び女川町を訪れた。６日から入居が始まっている。明日（９日）には体育館などの避難所があ閉鎖される。入居期限だ。引っ越しの様子を取材できると思っていた。ところが、１４４戸全てがすでに入居済みだった。町の担当者によると、６日の入居開始と同時に住民たちが一斉に引っ越しを始め、午前中にはあらかた入居が完了したという。<br />一番小さい１ＤＫタイプの部屋で荷物の片付けをしていた今泉千代克さん（７３）に聞いた。一人暮らしをしていたアパートが流された。「避難所で８か月も待たされた。私だけでなく皆さん一刻も早く引っ越したかった」年金暮らし。必要な電器製品はそろっているので不自由ない。避難所ではあまり必要なかった食器がやや足りない。これから買いそろえていくという。<br />知り合いの男性が荷物の片付けを手伝っていた。隣り合った敷地に建てられた平屋の仮設住宅に７月から住んでいるという。平屋に比べると日当たりがいい。隣の棟との間隔を広く取っているためだ。壁も頑丈なので、冬の寒さも大丈夫なのでは。平屋建てでは冬を」前に、壁を二重にして断熱材を入れる工事をしているという。</p>
				<p style="text-align: center;"><a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/37a45536eeebfb923c9373e54cda2711.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/37a45536eeebfb923c9373e54cda2711-300x225.jpg" title="工事" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-7003  aligncenter" /></a></p>
				<p style="text-align: center;"><a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/3a5b6f63eab5319a05336628b08e0314.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/3a5b6f63eab5319a05336628b08e0314-300x225.jpg" title="独居" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-7004  aligncenter" /></a></p>
				<p>平屋建て住宅の方に回ってみた。外壁をはがして断熱材を入れる工事の真っ最中だった。このあと寒い風が室内に吹き込まないよう、玄関口に風除室（ふうじょしつ）を取り付ける。玄関を二重にするもので、北国の防寒対策としてはごく常識的な設備だ。とりわけ、平屋建ての仮設住宅の玄関にはたたきがなく、扉を開けるといきなり床だ。風除室は必須だ。窓のサッシを二重にする他、暖房便座の取り付けも予定されている。</p>
				<p>住宅の建設を急いだのは分かる。しかし、北国に必須の設備抜きで建ててしまった。二度手間をかけるというのは、いかにも泥縄のお役所仕事と言うほかない。ここに住むある女性は「寒さはこれで何とかなるのであしょうが、夏の暑さは耐え難かった。初めからこうしていればよかったのに」と話していた。<br />２ＤＫタイプの部屋に入居した佐藤清志（せいし）（６０）さん夫妻。南向きのリビングには明るい陽の光が差し込んでいた。「早く建った仮設では隣の音が筒抜けと聞いていました。ここは防音はしっかりしている。８か月と長かったが、残りものに福でしょうか」と笑う。とりあえずの生活用品は足りている。お二人とも震災前は地元の水産加工場で働いていた。壊滅した工場はまだどこも再開のめどが立っていない。佐藤さんの失業保険は延長措置もあったが先月、１０月で切れた。奥さんの保険も来月まで。働ける場所を何とかしてもらいたいと話す。<br />住みよいとは決して言えないが、住まいは何とか落ち着いた。この先、被災者の多くに生活再建の苦労が重くのしかかる。（了） </p>
				<p style="text-align: right;">仙台：松館忠<br />ブログ「震災日誌ｉｎ仙台」<br /><a href="http://sakura3411.at.webry.info/">http://sakura3411.at.webry.info/</a></p>
				</div>
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		<title>こんまりちゃん　と　ｍｙ　ｆａｖｏｒｉｔｅ　ｔｈｉｎｇｓ　　[音楽は素晴らしい]</title>
		<link>http://www.webreport.jp/6898.html</link>
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		<pubDate>Sat, 03 Dec 2011 02:06:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kiyo7</dc:creator>
				<category><![CDATA[くらし]]></category>
		<category><![CDATA[文化]]></category>
		<category><![CDATA[社会]]></category>

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		<description><![CDATA[				
				人生がときめく片づけの魔法
				
				作者: 近藤 麻理恵出版社/メーカー: サンマーク出版発売日: 2010/12/27メディア: 単行本（ソフトカバー）
				&#160;
		 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				
				<div><a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/a4fb8425cd19033f465cd47d09504b62.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/a4fb8425cd19033f465cd47d09504b62.jpg" title="本" width="109" height="160" class="alignleft size-full wp-image-6899" /></a>人生がときめく片づけの魔法</div>
				<div>
				<p>作者: 近藤 麻理恵<br />出版社/メーカー: サンマーク出版<br />発売日: 2010/12/27<br />メディア: 単行本（ソフトカバー）</p>
				<p>&nbsp;</p>
				
				<p>&nbsp;</p>
				
				<p>&nbsp;</p>
				
				<p><a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/6b9b430987dc59bf4c16803dc6d54073.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/6b9b430987dc59bf4c16803dc6d54073.jpg" title="ムー十区" width="127" height="160" class="alignleft size-full wp-image-6900" /></a>サウンド・オブ・ミュージック （2枚組） [Blu-ray]</p>
				<p>出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン<br />メディア: Blu-ray</p>
				<p>&nbsp;</p>
				
				<p>最近読んだ本と、見たミュージカルと、２つから感じたことがあるので記事にしました。</p>
				<p>こんまりちゃんは、近藤麻理恵さん（片付けコンサルタント）。<a href="http://ameblo.jp/konmari/">http://ameblo.jp/konmari/</a></p>
				<p>１００万部を突破した「人生がときめく片付けの魔法」の著者です。</p>
				<p>この本は、記述自体、読み物として、私にとっては相当面白い本でかなり楽しめました。</p>
				<p>そして、片付けをする際の基準が、</p>
				<p>家にあふれかえる物たちを、一つ一つ手に取ってみて、</p>
				<p>「ときめき」を感じるかどうか？</p>
				<p>を肌で感じて、「ときめき」を感じるものを家に残す、というもので、とても素敵な、いい考えだ、と思ってしまいました。</p>
				<p>さて、それと通じると思うのが、映画（ミュージカル）サウンドオブミュージックの名曲「ｍｙ　ｆａｖｏｒｉｔｅ　ｔｈｉｎｇｓ（マイフェイバリットシングズ）」（私のお気に入り）。</p>
				<p>私は、学生時代、英語の勉強は割と好きな方でしたが、中でも好きだった単語が「ｆａｖｏｒｉｔｅ」、和訳しても「お気に入りの」って、こんな可愛い単語なかなかないですよねえ。</p>
				<p>最近、劇団四季のサウンドオブミュージック<a href="http://www.shiki.gr.jp/applause/sound/">http://www.shiki.gr.jp/applause/sound/</a> 見に行ってきました。<span id="more-6898"></span> とても元気をもらったのですが、「ｍｙ　ｆａｖｏｒｉｔｅ　ｔｈｉｎｇｓ（マイフェイバリットシングズ）」（私のお気に入り）の歌詞を日本語に直すと、</p>
				<p>バラのしずく　子猫のひげ<br /> ブリキの薬缶　あったかい手袋<br /> 紐で結わえた茶色の包み</p>
				<p>といった感じで、「お気に入り」のものが、どんどん羅列されていくのです。<br /> <br /> そういうものに囲まれていたら、泣きたい気持ちのときでも、私は大丈夫！という歌詞です。</p>
				<p>実に素敵です。</p>
				<p>こんまりちゃんの片付け方法も、家を、「ｍｙ　ｆａｖｏｒｉｔｅ　ｔｈｉｎｇｓ（マイフェイバリットシングズ）」（私のお気に入り）で囲まれた状態にしよう！というコンセプトなのですね。</p>
				<p>現代社会は、複雑怪奇に発展してきています。</p>
				<p>また、人には色んな思惑があって、その人が本心から望んでいないものを「買わなきゃ流行遅れのダサイ人になっちゃうぞ！」と脅しをかけて買わせるような仕掛けも一杯。<br /> そんなものに誰でも少なからず影響を受けているのも事実。</p>
				<p>仕事だって、人付き合いだって、本当に自分に必要なものを見分けて、自分に素直に生きられるということは、実際はなかなか難しい、という人も多いのでしょう。<br /> <br /> <br /> それはそれで仕方ないし、必要な部分もある。</p>
				<p>ですが、ときには、</p>
				<p>自分にとって、本当に心ときめくもの、お気に入り、やりたいことは何か？</p>
				<p>を見つめ直すのは、とてもいいことだと思います。</p>
				<p>さて、この記事を読んで、こんな呑気な弁護士は大丈夫かしら？と思われるのはもっともです。<br /> <br /> でも、私は大まじめに、仕事の上でも、こんまりちゃんの考えや、「ｍｙ　ｆａｖｏｒｉｔｅ　ｔｈｉｎｇｓ（マイフェイバリットシングズ）」の根底に流れる発想、人が自分の好きな在り方でおられて、幸せを感じる、ということを大切にしたいと思っています。</p>
				<p>つまり、私の関わる多くの人が、「ｍｙ　ｆａｖｏｒｉｔｅ　ｔｈｉｎｇｓ（マイフェイバリットシングズ）」（私のお気に入り）に囲まれて、幸せな気持ちで生活していけるお手伝い、が本分だ、と考えているのです。</p>
				<p>小難しい法律の条文や、解釈云々は手段です。その手段の扱いについては、私は職業人として日々研鑽しておかねばならぬわけですが、こういうややこしい、「心ときめかない」部分（普通の感覚ならそうでしょう）は、私に任せて頂いて、できれば、早期に適切に処理してしまって、皆様には、心置きなく、</p>
				<p>心ときめくもの（お気に入りのもの）に囲まれた生活を送って頂きたい、</p>
				<p>というわけです。</p>
				<p>そんなわけで、今年も残すところわずかとなってきましたが、今後とも、皆様、どうぞよろしくお願いします。</p>
				<p style="text-align: right;">神戸：村上英樹　<a href="http://h-m-d.blog.so-net.ne.jp/" target="_self">弁護士村上英樹のブログ</a></p>
				</div>
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		<title>たけちゃんの独り言</title>
		<link>http://www.webreport.jp/6876.html</link>
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		<pubDate>Mon, 21 Nov 2011 05:05:41 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kiyo7</dc:creator>
				<category><![CDATA[くらし]]></category>
		<category><![CDATA[たけちゃんの独り言]]></category>
		<category><![CDATA[健康・福祉]]></category>
		<category><![CDATA[文化]]></category>

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		<description><![CDATA[				
				高級食材◆朝夕はめっきり寒くなり、最低気温も10℃程度に下がる。だが、雨でない日の昼間は２0℃位の温かい陽気は、体が硬くならず体調がよく助かる。この温かい陽気で農家の野菜直売の奥さんは、葉物が育ち過ぎ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				
				<p>高級食材<br /><br />◆朝夕はめっきり寒くなり、最低気温も10℃程度に下がる。だが、雨でない日の昼間は２0℃位の温かい陽気は、体が硬くならず体調がよく助かる。この温かい陽気で農家の野菜直売の奥さんは、葉物が育ち過ぎて、大根も太ももの様に太く売りにくとこぼすそうだ。<br /><br />◆そんな話を、通所デイで話していたら、最近通所利用になった農家の同年男性が、離れた席から近づいて来て「タクワン」論議になった。タクワン用の干大根は、天日で１０日以上干すが、晴天が続く１２月に作業をし、太くなった大根は日数もかかり手間が大変だという。押しの効いた歯ごたえのあるタクアンは、干大根の重量の３倍の重石をかけ、漬物の素、糠、ザラメ、柿の皮などの材料を入れて4斗樽で漬け込み３ヶ月待つ。２０本位だったが、4,5年前に干大根を買って、漬け込みの経験をしたので、お互いの話は弾んだ。市販のタクワンは色々のタイプがある。出来上がりの自家製は段違いの食感と味である。何処の農家もタクワン漬けはするが、手間とコストがかかり、自家と贈答用だけで売り物は作らないという。昔、育ち盛りの頃は粗食の代表は「タクワンポリポリ、お茶漬けサラサラ」で懐かしい。今は高級食材といえる。</p>
				<p style="text-align: right;">立川：たけちゃん</p>
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		<title>「奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたち」（小学館）　[だから，今日より明日（教育）] [編集]</title>
		<link>http://www.webreport.jp/6839.html</link>
		<comments>http://www.webreport.jp/6839.html#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 15 Oct 2011 02:14:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kiyo7</dc:creator>
				<category><![CDATA[教育]]></category>
		<category><![CDATA[文化]]></category>

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		<description><![CDATA[				
				奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたち
				 
				作者: 伊藤 氏貴出版社/メーカー: 小学館発売日: 2010/11/29メディア: 単行本
				兵庫県神戸市の私立灘中学校 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				
				<p><br /><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4093881634/sonet0f-22/ref=nosim" target="_blank"></a><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4093881634/sonet0f-22/ref=nosim" target="_blank">奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたち</a></p>
				<p> <a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/b1a006ce1de22e06745a3797a4d9b065.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/b1a006ce1de22e06745a3797a4d9b065-109x150.jpg" title="奇跡の本" width="109" height="150" class="alignnone size-thumbnail wp-image-6843" /></a></p>
				<p>作者: 伊藤 氏貴<br />出版社/メーカー: 小学館<br />発売日: 2010/11/29<br />メディア: 単行本</p>
				<p>兵庫県神戸市の私立灘中学校、橋本武先生の授業について書かれた本です。</p>
				<p>　中学３年間かけて、横道にそれながら、中勘助「銀の匙」を読むのが、この先生の国語の授業。<br />　教科書は使わず。<br />　戦後の話です。</p>
				<p>　確かに、こんなことが許されるのも、トップ校の特権みたいなものかもしれませんが、教育の場面では、上から「型にはめる」よりも、現場の創意工夫というものが大切、ということを感じさせてくれる本です。</p>
				<p>　なので、学ぶ側（教育を受ける側。生徒、保護者。）も、「型にはまったもの、即効性のあるものを与えてくれるよう」望むのではなく、受け容れる幅を広く、素直な気持ちで学びに臨んでゆければ、先生も生徒も共同して充実した良い時間を過ごせるのだろう、ということになると思います。</p>
				<p>　一言で言えば、色んな面でおおらかさ、って大切だな、と思いました。</p>
				<p style="text-align: right;">神戸：村上英樹　<a href="http://h-m-d.blog.so-net.ne.jp/" target="_self">弁護士村上英樹のブログ</a></p>
				<p> </p>
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		<title>たけちゃんの独り言</title>
		<link>http://www.webreport.jp/6824.html</link>
		<comments>http://www.webreport.jp/6824.html#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 10 Oct 2011 06:36:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kiyo7</dc:creator>
				<category><![CDATA[くらし]]></category>
		<category><![CDATA[たけちゃんの独り言]]></category>
		<category><![CDATA[文化]]></category>
		<category><![CDATA[環境・自然]]></category>

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		<description><![CDATA[				
				空き缶回収
				◆昨日は、京都市で全国初の空き缶回収条例可決（1981）があり、翌年に施行された。ジュース、ビールとお世話になる缶製品の空き缶は、京都市のような観光地では、放置が３０年前から問題 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				
				<p>空き缶回収</p>
				<p>◆昨日は、京都市で全国初の空き缶回収条例可決（1981）があり、翌年に施行された。ジュース、ビールとお世話になる缶製品の空き缶は、京都市のような観光地では、放置が３０年前から問題だったのだろう。昨年の今頃、条例改訂で「京都市の指定した方法で出された空き缶などの資源ごみや粗大ごみを拾うことを禁止」とする事が出され、これに対し野宿者・生活困窮者は、生きる権利を侵害するとして反対闘争が起こりHPもあった。我町も指定場所に缶・瓶を出し市の回収は定着して、持ち出しは禁止は当然と思うが、違う面を知った。</p>
				<p>◆書きたいと思ったのは、今年の初夏の頃と思うが、新聞多摩版で、小金井市在住だった星野哲郎さん（作詞家）の隠れた話である。朝の散歩の時に、手袋、缶挟み、袋を持って、道端、公園に散乱する缶を回収して、毎日記録をつけていた。その数が２０万個を超えたとあった。生涯で４０００曲の詩を書き、数々のヒットをさせた作詞家は、昨年１１月８５才で他界され葬儀では作詞曲の「男はつらいよ」でおくられた。偉大な作詞家の晩年の生活で、こんな社会貢献もあったのかと思ってきた。残念ながら新聞の切り抜きをしなかった。</p>
				<p style="text-align: right;">立川：たけちゃん</p>
]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>橋下徹氏を応援しません！　[だから，今日より明日（教育）] [編集]</title>
		<link>http://www.webreport.jp/6821.html</link>
		<comments>http://www.webreport.jp/6821.html#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 08 Oct 2011 01:32:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kiyo7</dc:creator>
				<category><![CDATA[弱者問題]]></category>
		<category><![CDATA[政治]]></category>
		<category><![CDATA[教育]]></category>
		<category><![CDATA[選挙]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.webreport.jp/?p=6821</guid>
		<description><![CDATA[				
				でも、応援するのですよ、脱原発では。それを実行してくれるというのなら、そのテーマではもう、熱烈応援します。
				　私は、○○さんがするから賛成とか、反対とか、そういう考え方はとりたくありません。 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				
				<p>でも、応援するのですよ、脱原発では。それを実行してくれるというのなら、そのテーマではもう、熱烈応援します。</p>
				<p><br />　私は、○○さんがするから賛成とか、反対とか、そういう考え方はとりたくありません。</p>
				<p>　○○さんが言うのであれ、××さんが言うのであれ、よいものはよいしダメなものはダメだと言いたい。</p>
				<p><br />　このたび応援しません！というのは、</p>
				<p><br />大阪府教育基本条例</p>
				<p><br />のことです。</p>
				<p>　<br />　これはいけないと思います。<span id="more-6821"></span>　いけない理由はたくさんありますが、教育の基本理念を書いた第２条に</p>
				<p>（５） 我が国及び郷土の伝統と文化を深く理解し、愛国心及び郷土を愛する心に溢れるとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する人材を育てること</p>
				<p>という、「愛国心」という部分のほかに、</p>
				<p>（６）　グローバル化が進む中、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に迅速的確に対応できる、世界標準で競争力の高い人材を育てること</p>
				<p>というのまでが入ってきました。</p>
				<p><br />　「愛国心」そのものは良い「心」だと思いますが、法律で強制するようなものではない、そんなことをしたら有害だし、本当の愛国心は育たない、という話は、教育基本法改悪反対のテーマの中でたくさん書きました。</p>
				<p>　今回の主題は次のこと、この条例で出てきた新しい項目、</p>
				<p>「国際競争」「に対応できる」「競争力の高い人材」</p>
				<p>についてです。</p>
				<p>　これでは、教育というのも、ずいぶん貧しいものになる、という危惧を覚えるのです。</p>
				<p>　何でよ？というのは、確かに説明がいると思います。ちょっと長い文になりました。↓</p>
				<p><br />　現実問題として、日本も、日本の経済も、「国際競争」に晒されているので、「国際競争」を無視できない、ということは分かります。<br />　はたまた、「競争」というものが進歩をもたらす側面を持つことも認めます。その進歩が、人の暮らしを豊かにし、困っている人を助けることがあることも認めます。<br />　しかし、それでもなお、「国際競争」というものそのものが持つ、恐ろしさ、怖さ、非人間性（むごさ）というものは大きく、かつ、その「競争」そのものによって、勝者も敗者も常に強迫観念に駆られ、心休まるときはなく、しかも、いよいよ、アメリカや巨大資本でさえも、たとえば、リーマンブラザーズが極めて無責任な金融商品を売ったように、すぐに破綻するような「一時しのぎ」をするのでなければやっていけないような、「自転車操業」に近い状態に陥ることもある現代なのに、そのことを全く無視して、「国際競争」を当然として、それに「人」を合わせていこうとする発想法はおかしいとしかいいようがありません。</p>
				<p>　端的に言って、今までの学校生活でも、学校が楽しくなかったという人の、楽しくなかった理由の大きな１つは、</p>
				<p>学校にいたときの強迫観念が嫌</p>
				<p>というものではないかと思います。</p>
				<p>　自分が望んだわけでもないのに、苦手な勉強で、テストの点数を競争させられて、「点数が悪ければ親に叱られる」とか色々の強迫観念、そんなものに日常晒されることが幸せなわけがありません。<br />　強迫観念のもとで、テスト用の「教科書ワード」は覚えたかも知れませんが、かえって、頭の自由な働きを奪われた人も多かったのではないでしょうか。</p>
				<p>　条例案のいう、「競争力の高い人材」というのは、競争に晒される「強迫観念」について鈍感な人間、とでもいうのでしょうか。</p>
				<p>　いや、成功体験ばかりの人は、「競争を楽しめる人」をイメージしているのでしょう。</p>
				<p>　でも、教育は、どの国民（この場合、府民）にも全てなされるものなのですよ。<br />　だれもが競争を楽しめるわけがありません。「弱者に容赦なくたたみかける」のが競争の本質ですから。</p>
				<p>　例えば、私だったら、数学も英語も得意だったので、「勉強で競争せよ」「テストの点数で競争せよ」と言われても、別に苦はなく、勝ち目もあるので「競争を楽しむ」心境にだってなれたでしょう。</p>
				<p>　でも、そうではなく、「重量挙げで競争せよ」とか、「『脂っこいものを食べる競争』で競争せよ」とか、私の苦手なことで競争を強いられたら、とても「競争を楽しむ」心境になれません。<br />　もしそんな日常なら、「強迫観念」が頭を支配し、きっとおかしくなってしまうことでしょう。<br />　子どものころなら、それが出来ないことで「人格否定」されたように感じてしまいます。<br />　<br />　<br />　<br />　私は、現実的に考えて、</p>
				<p>学校教育で、競争をタブーにすべきだ</p>
				<p>とは思いません。</p>
				<p>　むしろ、</p>
				<p>社会にでたらある程度避けられない競争といかに付き合うか</p>
				<p>競争のメリットデメリットをわかったうえで、競争によって、自分の人間性を破壊されないようにするためには、どうしたらよいか</p>
				<p>というようなテーマについて、人生のヒントを与えるようなことが出来れば、良い教育だと思います。</p>
				<p>　けれども、「維新の会」の条例案は、全く違う発想であることは明らかです。</p>
				<p><br />　「国際競争」時代を生きていることは私も意識しないといけないとは思います。<br />　それと無関係に、お気楽に、マリーアントワネットのように生きていくことは出来ないことは、肝に銘じておくべきでしょう。確かに。</p>
				<p>　しかし、「国際競争」の下に、弱者が、いや、表面的に「勝ち組」に見える人も、人が、本来したいこと、本来ありたいこと、本来大事にしたい幸せを犠牲にせざるを得なくなるようなことには、できるだけ有効な方法で抵抗していきたい、と思います。<br />　<br />　そして、「競争」や目先の経済発展、過剰な便利さよりも、人間本来の幸せを大切にするというスタンスの人が増えれば、巨大なモンスターのようにみえる「国際競争」なるものの恐ろしい面が緩和されてゆくと思います。</p>
				<p>　日本の教育はそういう方向であらねばならない、と思います。<br />　慎み深く、人を思い遣る、というのが日本人の大切にしてきた美徳であり、美しい心である、そういう日本を愛するというのならば、なおさら、そういう方向にならねばならない、と思います。<br />　</p>
				<p style="text-align: right;">神戸：村上英樹　<a href="http://h-m-d.blog.so-net.ne.jp/" target="_self">弁護士村上英樹のブログ</a></p>
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		<title>震災日誌（４）</title>
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		<pubDate>Mon, 19 Sep 2011 07:42:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kiyo7</dc:creator>
				<category><![CDATA[政治]]></category>
		<category><![CDATA[文化]]></category>
		<category><![CDATA[災害]]></category>
		<category><![CDATA[社会]]></category>
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		<description><![CDATA[				
				[地震・津波を正しく恐れる、宮古市田老町]
				［八月一六日］宮古市田老町に足を運んだ。郷里の青森・むつでの墓参りの帰途である。久慈市から国道四五号線を車で南下した。峠を越して海沿いの集落に乗り [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				
				<p><span style="color: #0000ff;">[地震・津波を正しく恐れる、宮古市田老町]</span></p>
				<p>［八月一六日］<br />宮古市田老町に足を運んだ。郷里の青森・むつでの墓参りの帰途である。久慈市から国道四五号線を車で南下した。峠を越して海沿いの集落に乗り入れるごとに、津波で流された住宅地跡が眼に飛び込んでくる。どの地も三月一一日までは人々の暮らしとの場であり、ふるさとの安らぎが満ちていたのだ。人の気配のする建物は、一階だけの被害で済んだのかとほっとする。しかし、周りの家々が徹底的に破壊されている以上、当たり前の暮らしが残っている訳ではない。田老町の手前、峠の国道沿いにある道の駅たろうは多くの客でにぎわっていた。そういえばお盆休みの最終日。帰省の人々のものか、他県ナンバーの車も多い。いつものお盆と変わらない光景だ。国道はやがて田老湾に向かって高度を下げていく。息をのんだ。防潮堤の背後に拡がっていた家々はことごとく流され、土台が残されているだけだった。街がない。<span id="more-6776"></span>防潮堤は高さ一〇メートル、海に向かってＸ字形に築かれ街を守っていた。全長二四三三メートル、建設に四五年を要した。万里の長城と呼ばれた威容に、私も現役記者の当時何度か訪れ感嘆の声をあげた。しかし、津波は一〇メートルの防潮堤をやすやすと乗り越え街を呑み込んだ。流された住宅は一八〇〇棟。防潮堤があるから大丈夫と避難が遅れた人も少なくないという。津波は堤防の倍くらい高かったと話す住民もいる。一七四人が死亡し、一一人が依然として不明である。</p>
				<p>Ｘ字形に配置された四本の堤防のうち、南側の二本と北の内側の合わせて三本は何とか原形を留めている。しかし、街の北東部を守っていた防潮堤は跡かたもなく破壊され、巨大なコンクリート片が転がっていた。堤防に守られていたはずの六階建ての田老観光ホテルは三階まで窓が吹き飛んでいる。白い壁と対照的に一、二階は赤い鉄骨をさらしていた。「猿の惑星」という映画に、自由の女神が砂浜に埋もれた印象的なシーンがあった。津波防災の模範とされた堤防の無残な光景に思わずそれを重ねた。</p>
				<p>もっとも映画は核戦争がもたらした破局だ。核兵器も原発も人間が作り出したもの。とすれば、人間が止めることを決めれば解決の途はある。地震学者の石橋克彦さんによれば、日本列島は地球の表面積の〇、三パーセント足らずだが、全地球で起きる地震の一割が起きている。地震列島は避けることができない私たちの宿命である。今回の震災でこの地震列島に原発を作るべきでないことははっきりした。福島の方々の多大な苦悩を代償に、ようやく原発廃絶への長い道のりが始まろうとしている。放射性廃棄物は地中深く埋設処分するにしても、一〇万年という気の遠くなる時間を要するが。</p>
				<p>地震、津波はプレートの運動がもたらす大自然の営為である。この予知が可能であると信じられたことがあった。首都圏を直撃する東海地震予知のための観測網がかつて整備された。しかし、今回の大震災はそうした予知が幻想にすぎないことを明らかにした。ましてや制御することは、いかに最新の科学の知見をもってしても不可能である。とすれば、私たちに必要なものは何だろうか。</p>
				<p>『木造家屋なら一メートルの津波で半壊、二メートルで全壊するし、人は五〇センチの津波で立っていることが困難になる』（大木聖子「超巨大地震に迫る」ＮＨＫ出版新書）震災後に緊急出版されたこの警告が私たちに新鮮に響く。東北の住民は一九七八年の宮城県沖地震に匹敵する大地震が近い将来起こることを覚悟していた。また、明治と昭和の二度にわたる三陸大津波、五〇年ほど前のチリ地震津波の恐怖の記憶も私たちのＤＮＡにしっかり刻みこまれている。東北の住民にとって震災は「忘れたころにやって来た」のではなく、「忘れないころにやって来た」のだ。しかし、忘れていたことが一つあった。地震・津波を正しく恐れるということを。</p>
				<p>　東日本の地層の分析によって、今回の震災と同程度の巨大地震がほぼ千年ごとに繰り返し起きていたことが新たに分かってきた。地震列島・日本に居を構えた私たちの祖先は列島から逃げ出すことをしなかった。縄文の昔から大自然の営為である地震と付き合い、折り合って暮らしてきたのだ。地震・津波を正しく恐れるという仕方で。それこそが地震列島に暮らす上での英知と言うものだ。勿論、巨大な防潮堤が不要だというのではない。不要なのは大自然も制御できるという思い上がりである。</p>
				<p>　旧田老町役場前に津波防災の町宣言の碑が立つ。そこには『近代的な設備におごることなく、文明とともに移り変わる災害への対処と、地域防災力の向上に努め、積み重ねた英知を次の世代に手渡していきます』とあった。必ずや、この街が再生することを確信させた。津波で流された、赤茶けた住宅跡に直径一〇センチほどの小さなかぼちゃが実を結んでいた。コンビニの一軒も開店していない瓦礫の街に、人々の忍耐と英知を感じさせる風が吹き渡っていた。</p>
				<p><br /><span style="color: #0000ff;">［再び、大震災とメデイア］</span></p>
				<p>［八月二六日］<br />　東京から来訪した元時事通信記者の長沼節夫氏と石巻市で会った。社会部記者当時、四方面警察記者クラブ（新宿署）に同時期に在籍した。いわば同僚である。その後も日韓問題などの取材を通じて交友が続いている。氏は退職後「日本地域紙協議会」の運営に携わっている。地域に根ざしたローカル紙一〇〇社で作る組織である。協議会が運営する地域紙図書館の館長で「島根日日新聞社」の社長でもある菊地幸介氏、法政大学講師のＳ氏も一緒だった。震災で大きな被害を受けながら号外を出したりして、ジャーナリズムの灯を守った宮城、岩手の三紙を激励に訪れた。</p>
				<p>　石巻日日新聞（ひびしんぶん）は前日訪問したという。三月一一日、日日新聞社の社屋の一階を津波が襲った。停電した上、輪転機が海水をかぶってしまった。記者たちは懐中電灯を頼りに、新聞ロール紙に油性ペンで記事を書き、六か所の避難所の壁に張って情報を伝えた。壁新聞は震災の翌日、三月一二日から印刷を再開できるまで六日間続いた。奮闘ぶりを米紙・ワシントンポストが報じた。壁新聞はワシントンにあるニュースの総合博物館「ニュージアム」に永久保存されることとなった。ニュージアムはウェブ・サイトでこう紹介している。「この新聞は人間の知ることへのニーズと、それに応えるジャーナリストの責務の力強い証である」<br /><br />　七月発刊の「６枚の壁新聞」（角川ＳＳＣ新書）は日々新聞苦闘のドキュメントである。<br />　気仙沼市を拠点とする三陸新報に向かう三人に同行することにした。山の手にある三陸新報社は津波の被害を免れた。しかし、停電で輪転機は動かない。自家発電の備えはなかったが、社員が思い付いた。自動車のバッテリーでコピー機が動いた。三月一二日、Ａ四版一枚、手作りの津波特別号を発行した。「沿岸部は壊滅」の見出しで被害状況や市長の市民に向けたメッセージなどを報じた。末尾は「勇気を出してがんばろう」と結んだ。翌一三日もバッテリーを動力に特別号だった。「必死の安否確認続く」の見出しと「みんなでがんばろう」の呼びかけ。津波による大きな被害を受けており、地域社会は通常の宅配ができるような状況にはなかった。数百部の手作りの特別号は、避難所を中心に配って読んでもらった。電気が回復した後も三月一杯はＡ四版、一枚の紙面が続いた。連日掲載した避難者の名簿や、ガス、水道などライフライン情報は市民の不安を和らげるのに貢献した。通常の紙面に戻ったのは四月一日。しかし、ページ数は八から六ページに減らした。<br /><br />　三陸新報社の浅倉眞理社長にお会いする。落ち着いた雰囲気の女性経営者である。現在地の山の手に移転したのは一八年前。たまたま適地があったというだけで、津波被害を避けようと考えた訳ではなかったという。旧社屋のあった中心部は津波被害を受けた。「何が幸いするか分かりませんね」とほほ笑む。電気が止まることはまずない。自家発電装置まで備える必要はない。電力会社支店の幹部はこう助言したという。確かに、私たちにとっても停電は戦後の混乱期の遠い記憶の中にしかなかった。震災はそれが絵空事でないことを思い知らせた。浅倉社長は「これは不明でした。いずれは非常時に備えた投資も考えなければ」と話す。</p>
				<p>震災前二万五〇〇〇部あった発行部数は半減。経営は決して容易ではない。しかし、浅倉社長が口にしたのは地域経済をどう立て直すかということだった。魚市場は何とかかつおなどの水揚げができるまでに回復しつつある。しかし、産業構造でいうとその先に位置する水産加工業は壊滅したままだ。気仙沼の経済の柱が再生する見通しは立たない。すでに内陸部の岩手県に移転した企業もあるという。「私たちも苦しいですが、何とかして地域経済の再生を見守りたい。何年かかるか分かりませんが」地域と人々に寄り添う、ジャーナリズムの原点を示す言葉に胸を熱くした。</p>
				<p>岩手県大船渡市を本拠にする東海新報に向かう三人と、そこで別れた。<br />このところメデイア革命という言葉が盛んに語られる。インターネット社会の誕生がもたらした現象だ。読者の新聞離れが進み、テレビ視聴の態様も多様化する。代わってメデイアの世界で大きな比重を占めて来るのが、ＳＮＳ（ソウシャル・ネットワーキング・サービス）を中心としたオンライン・ジャーナリズムである。これに対して、新聞やネットワーク型のテレビは既存のメデイアとされる。メデイア革命とはオンライン・ジャーナリズムが、衰退する既存のメデイアに取って代わることだという。</p>
				<p>メデイアの先進地・アメリカでは、ここ数年新聞離れが急速に進んだ。そのあおりを受けローカル紙が次々に姿を消していった。二〇〇九年だけで新聞のニュース部門で五九〇〇人が失職したという数字も伝えられる。二〇〇九年二月に廃刊に追い込まれた、中西部コロラド州デンヴァーのロッキー・マウンテン・ニューズはその一つである。ピュリッツアー賞を何度も受賞した名門紙である。インターネット時代での生き残りをかけ、新聞各紙はネットでも閲覧できる電子版に力を入れてきた。同紙も例外ではなかったが、読者数の落ち込みは存続を許さなかった。ロッキー・マウンテン・ニューズは一四九年と三一一日の歴史に終止符を打った。廃刊の日を追った二〇分ほどの優れたドキュメンタリー番組は、皮肉にも同紙の電子版で今も見ることができる。</p>
				<p>代わって登場したオンライン・ジャーナリズム。代表選手とも言えるフェイスブックは一般市民がネット上で自由に情報や意見を交換するいわばＳＮＳによる井戸端会議である。実名登録しているユーザーは実に七億五〇〇〇万人にのぼる。いや、それだけではない。既存メデイアのお家芸だったはずの着実な調査報道を積み重ね、時には特ダネも飛ばすインターネット新聞も枚挙にいとまない。「ハフィントン・ポスト」「プロプブリカ」「デモクラシー・ナウ」などこれまでおよそ縁のなかった名前が並ぶ。既存メデイアの一員であることが確実な私には、眼の回るようなスピードでメデイアは変貌しつつある。</p>
				<p>三陸新報訪問に先立って、日本のオンライン・ジャーナリズムで最先端を走る一人に会う機会をえた。メデイアジャーナリストの津田大介氏（三七）である。会議やシンポジュームに参加し、持ち込んだＰＣで発言を実況で発信し、意見交換する手法を始めたのはこの方だ。津田さんの運営するツイッターサイト（＠ｔｓｕｄａ）はフォロウアーが一八万人にのぼる。</p>
				<p>私とＮＨＫ・同期の記者だった今井義典氏。彼はＮＨＫ副会長の要職を務めた後、立命館大学の客員教授をしている。今井氏と彼の同大学の同僚Ｓ氏、Ｈ氏の三人が被災地の取材に来た。以前からの予定だった。たまたま、今井氏と知り合いの津田氏も日程が合い、八月一八日仙台で落ち合った。彼ら四人の被災地取材に同行したという次第だ。</p>
				<p>まず仙台市若林区荒浜に向かった。私と津田さんは何度目かの取材だ。彼はただちにツイッターサイトにこう発信する。「荒浜へ来た。瓦礫の量が物凄く減っている」現地の写真付きである。津田さんの車に同乗しているアシスタントの青年がノートＰＣのキーをたたいている。さらに南下、山元町へ向かった。常磐線坂元駅。どれが線路か確認できないまでに津波は破壊した。津田さんの発信。「常磐線の線路跡。山元町、まったく線路らしきものが分からないーーー」私はスマートフォンの利用者ではないので読みとれる訳ではない。立命館大のＳ氏が持っているスマホで読み取り、口移しで情報を伝えてくれる。さしずめ実況中継アナウンスである。坂元駅のトイレ跡には一頭の白い犬が住みついていた。首輪がある。人恋しいのだろう。私たちに寄ってくる。津田氏は写真付きで早速発信する。「坂元駅あとには野犬化した飼い犬か。地元の人がエサあげているみたい」フォロウアーからただちに四〇数件のツイートが寄せられる。オンライン・ジャーナリズムの一端を見せてもらった。</p>
				<p>既存メデイアの人間にとっては衝撃的な事実があった。サイトのフォロウアーで近くに住む、二〇歳台の女性にインタビューできた。三月一一日、彼女は勤めていた建築会社から車で帰宅する途中、大津波警報を知った。警報を知らなかった家族に危険を知らせ、かろうじて避難した。自宅は跡かたもなく流され、親戚の家に身を寄せて暮らしている。恐怖の記憶からいまだに自宅があった周辺には近付けないという。警報を知ったのはカーラジオと思い込んでいた。ところが彼女の答は違った。ツイッターサイトだった。普段もラジオは聞かないという。</p>
				<p>翌日取材に行った女川町の「女川さいがいＦＭ」のスタッフからも同じ様なことを聞かされた。震災から五か月余、仮設住宅の入居募集のお知らせや、商店の営業状況など被災者に向け生活情報を放送し続けている。しかし、住民の認知度が依然低いのが悩みだという。理由は若い人を中心にラジオを聞く人が減ったからだ。受信機そのものがない家庭も多いという。</p>
				<p>「安心ラジオ！」災害時の情報伝達」のメデイアはラジオをおいてないと私たちは信じてきた。この考えは改めなければならないだろうか。とすれば、私たちの防災報道のあり方も見直しが必要なのかもしれない。それ以上に、既存のメデイアの衰退の一端を思い知らされた。ネット音痴とは言っていられない時代なのかも知れない。オンライン・ジャーナリズムは私の想像を超えて人々の生活との親和性を深めていた。</p>
				<p>新聞、テレビなど既存のメデイアは生き残れるか。あるいは、既存のメデイアと、オンライン・ジャーナリズムのどちらが「公共空間」と呼べるかなどが議論されている。「新聞は生き残れるか」（中馬清福、岩波新書）「次に来るメデイアは何か」（河内孝、ちくま新書）などがそれである。ここでは、それを論じるつもりはないし、私の能力を超える。<br /><br />三陸新報に戻ろう。幸い日本では、アメリカのような急激な新聞離れは起きていない。ロッキー・マウンテン・ニューズのような悲劇がすぐそこに迫っているとは考えられない。むしろ、震災時の三陸新報をはじめとした各紙の奮闘ぶりは称賛に値する。地域に根ざしたジャーナリズムとしての働きを十分に果たしており、また人々から期待されていることの証左である。確かに震災による部数減など経営面への影響は少なくない。県紙、ブロック紙と呼ばれる発行部数が多い新聞でも同様だ。先日、河北新報の販売担当の役員と話す機会があった。同紙は震災後三万五〇〇〇部減ったという。八パーセント減である。原発事故のダブルパンチを受けた福島民報は六万五〇〇〇部、二二パーセントの減だという。しかし、地域の人々の信頼がある限り、県紙、ローカル紙とも必ずや立ち直ると信じたい。ローカル紙の多くが電子版の充実を図り、インターネット時代への対応の努力を続けているのも心強い。震災時の三陸新報のコピー特別号は同紙の電子版で閲覧できる。</p>
				<p>三陸新報が発行した「３・１１東日本大震災　巨震激流」という本が手元にある。あの日の惨状を伝える写真と、記者たちの証言、それに黒い津波から必死に生き延びた七二人の住民の証言を集めたものだ。地域の人々なら誰でも分かる商店街や繁華街の名前が並び、老舗の酒造店などの変わり果てた姿を記録している。地域に根差し、地域の人々とともに同じ空気を吸っているローカル紙でなくては作れない記録集である。その精神と想いは浅倉社長の筆になる「序」に明らかである。</p>
				<p>『跡形もなく流され、あるいはがれきに埋まった無残な町は、しかし、紛れもなく私たちの町であり、ふるさとである。<br />立ち上がり、いつか復活を果たしたい。心の拠り所のふるさとを再建したい。<br />悲しみに満ちたこの記憶が、次代の防災の一助になれば幸いである。<br />震災で犠牲になられた方々の鎮魂を願いながら。』<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　</p>
				<p>［八月二九日］<br />　東松島市で行われたチャリテイ・コンサートを見に行った。こんな次第である。ＮＨＫ社会部時代の同僚、佐藤悠さんは石巻市出身。故郷の復興を手助けしようと東京在住の同級生と「石巻支援三七会」を作った。これまでも被災地で雅楽の東儀秀樹さん、ヴァイオリンの古澤巌さんのチャリテイ・コンサートを開いてきた。今回は山形在住のソプラノ歌手、松倉とし子さんが出演することになった。中を取り持ったのがやはり社会部時代の先輩で、松倉さんと親交のある中尾庸蔵さんである。先輩、同僚の尽力で実現したコンサート。行かないという選択肢はなかった。</p>
				<p>　ＪＲ松島駅で中尾さんを車の乗せ、会場の東松島市の小野体育館に向かった。被災地を通るルートを選び道々状況を説明するが、返ってくるのは生返事に近い。イベント・プロデューサーの心境にあるのか中尾さんはこれからのコンサートの方が気掛かりのようだった。会場で佐藤悠さんとも合流。</p>
				<p>　隣り合った市役所鳴瀬総合支所を仮校舎にしている、野蒜小学校（のびるしょうがっこう）の子どもたち一六〇人が会場にやってきた。野蒜小学校は津波で校舎を破壊された。避難所に指定されていた体育館には、地区の住民三〇〇人が逃げ込んだ。ところが黒い津波は一階に押し寄せ、人々は二階の観覧席通じる階段に殺到した。逃げ遅れたお年寄りらが亡くなった。取材に対して市の教育委員会は犠牲者数を明確にしなかった。（「震災日誌・番外編」三ページ）</p>
				<p>　会場で木島美智子校長にお会いできた。思い切って聞いてみた。亡くなった人は一六人だという。学校の管理者として心の葛藤があったはず。取材に応えてくれた勇気に感謝した。下校して家庭にいた児童も九人が亡くなった。震災前二一〇人を越していた児童数は、校区外への転出などで一六〇人弱に減った。この子どもたちも心に傷を負っているのだ。<br />　<br />松倉さんの明るい歌声が響いた。「おかあさん」「めだかのがっこう」「ちいさい秋みつけた」などの童謡を歌い継いでいく。学校行事でいえば音楽鑑賞会。腰を下ろして聴く子どもたちの表情も次第に和らいでくる。ＰＡ（拡声装置のオペレーター）は山形から駆けつけた元市役所職員。マネージャー兼ドライバーは「松倉とし子後援会」副会長の元校長先生。松倉さんは時折り持ち込んだ電子ピアノの弾き語りもする。手作り感が何とも暖かい。最後は「手のひらを太陽に」を歌い、子どもたちも即席の振り付けで歌に参加した。コンサートは一時間ほどで幕を閉じた。</p>
				<p>子どもたちを代表して六年の男子児童が立ってお礼のことばを述べた。「生の歌声を聴いて心を休ませることができました。ありがとうございます」とつとつとしていたが実感がこもっていた。口には出さないが、子どもたちは心に様々な傷を抱えているのだ。佐藤悠さんたち「石巻支援三七会」は幼稚園から小中学生を対象に子どもたちの心をいやし、励ます活動を続けるという。正しい。地域社会の再生、復興を担うのは子どもたちだ。彼らが前を向けるよう手助けをすることが求められている。</p>
				<p>対価を期待しない無償の奉仕はどこで見てもすがすがしい。この日東松島市は真夏の暑さだった。しかし、コンサートに関わった皆さん、誰もが爽やかさに輝いていた。私は何の手伝いをした訳ではない。純粋にボランテイアの見物人だった。その私も爽やかさの輪に加えてもらった。感謝である。<br /><br /><span style="color: #0000ff;">［失望を絶望に変えない政治を］</span></p>
				<p>［八月三〇日］<br />　総理大臣が変わった。二〇〇九年九月の政権交代から早くも三人目。震災以来で二人目である。<br />民主党の代表選の結果は、昨日石巻市を取材中の車の中で知った。野田佳彦と言う人、代表選に出た他の候補に比べれば無難な選択なのかなというのが第一印象。正直言って、ひとまず安堵した。</p>
				<p>きょろきょろ視線が定まらない海江田氏。どこを見ているのか最後まで分からなかったが、国民を見ていないことだけは確かな人物だった。世論受けがいいという前原氏。これが理解できない。恩師、高坂正堯（こうさかまさたか）ばりの、筋金入りの権力志向。何を言い出すか分からない危うさは信頼できない。特に日本社会をアメリカに売り渡しかねないＴＰＰ問題では最悪の人選だった。</p>
				<p>さて、野田新総理。誰が選ばれるかは被災地にとっても大事なことだったはずだ。しかし、石巻市では代表選の結果は誰も話題にすらしなかった。私の周辺でも「ああ、そうなの」と誰に決まろうと興味も関心もないと言う人が大半。それもそのはずだ。三月一一日以来、被災地の人々は政治、政治家には、失望と不信の想いをため込む一方だった。震災直後は救援物資や義捐金が被災者の手許に届かない。優秀と言われる日本の官僚機構、役人たちは機能しなかった。菅総理がお盆までは全戸完成と胸を張った仮設住宅は反古に。瓦礫撤去の費用負担システムの改善も遅れに遅れた。ワンストップで復旧・復興にあたる復興庁はいまだにできていない。国民を置き去りにした醜い権力争いにはあきれ顔を決め込むしかなかった。</p>
				<p>野田新総理「どじょうのように泥臭く」だそうだ。前任者の血走った眼差しを見なくて済むのはありがたい。しかし、このどじょう顔、どこかで見た覚えが。そう自民党の面々に多い顔なのだ。もともと政権交代に過度な期待をしたのが間違いだった。とは言っても自民党支配に戻ってもらっては困る。<br />被災地の人々は失望を重ね続けてきた。いま求められるのは失望を絶望に決して変えることのない政治である。<br /><br /><span style="color: #0000ff;">［がれきの原に響く尺八の音］</span></p>
				<p>［九月五日］<br />　みやぎ憲法九条の会のメンバーと津波で壊滅的な被害を受けた名取市閖上（ゆりあげ）地区に向かった。九条の会代表の一人で、旧知の宮城学院女子大学元学長山形孝夫さんの誘いである。東京・昭島市で単立の教会「イエスと歩む会」を主催する牧師の橋本左内さんはじめ、尺八奏者のグループが犠牲者を追悼する演奏をするという。橋本牧師は「キリスト者平和の会」などを通じて、宗教者の立場を越えて平和運動やヤスクニ問題などに取り組んでいることで知られる。今回は、尺八の流派のひとつ「民謡尺八道小路流」（こうじりゅう）の一員として仙台にやって来た。</p>
				<p>　尺八奏者は総勢七人。福島第一原発の設計にも関わった、東芝の元技術者で原発の危険性を訴える活動をしている小倉志郎さんもメンバーの一人だ。案内役を含め一〇数人が四台の車に分乗。私の車には山形さんと、九条の会代表の一人、写真家の後藤東陽さんが乗って仙台駅前のホテルを出発した。</p>
				<p>　高さ一〇メートルほどの小高い丘、日和山（ひよりやま）に着いた。漁に出る人々が波や潮の様子を見る場所だったのだろう。震災前にはこの丘の周りの地域、それに港まで住宅や商店がぎっしり建っていた。宅地化の波で丘は本来の機能が果たせなくなっていた。それが、住宅も商店も全て津波で流された。今は名前の通り日和山からはさえぎるものなく閖上の港や海が見晴らせた。往時を知る人には悲しい光景に違いない。黒い津波は丘の頂も洗った。神社の小さな社も流された。松の木が一本。それに「富主姫神社」「閖上湊神社」と書かれた真新しい標柱が二本立っているだけだ。</p>
				<p>　多くの人々が命を落としたがれきの原に向かって、七人の奏者が尺八の音を響かせた。小路流の基本曲で各地の民謡の節をアレンジしたものだという。「民謡のふるさと東北、東日本がんばろう！」と染め抜いた横断幕が海風にはためく。明るい民謡を歌った曲のはずだが、ひょうひょうと流れる尺八の音は物悲しい。亡くなった知り合いを弔うためだろうか、花を供えに訪れていた家族連れの人たちが耳を傾けた。風にのって流れる尺八の音は、姿を変えてしまった故郷を惜しんで漂う、数知れぬ犠牲者の想いを乗せているように聞こえた。<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br /><span style="color: #0000ff;">［震災から半年、被災地にようやく希望の灯が］　</span></p>
				<p>［九月一一日］<br />　あっという間の六か月だった。半年の節目とはいえ、何かが劇的に変わったわけではない。思えばあの日は小雪が舞い、私たちが遭遇した天変地異の恐怖をいやがうえにもかき立てた。黒い津波に襲われた人々は、凍りつく寒さにも耐えなければならなかった。そして時は廻った。しかし、桜の花の記憶は私たちには薄い。廃墟と化したふるさと。梅雨時になっても水を張れない田んぼ。がれきに埋め尽くされた青い海。例年にない酷暑にも悩まされた。心を折らずに耐えぬいてきた多くの人々に限りない敬意を表したい。</p>
				<p>昨日（九月一〇日）明るく、華やいだ光景に出合った。震災以来初めてのことだ。女川町の蒲鉾メーカー「高政」が新工場と、隣接した店舗をオープンした。内海で養殖のいかだが浮かぶ、万石浦から女川寄りに進んだ高台に同社はある。数十年前に女川町の中心部からこの地に移転。津波の被害を免れた。オープニング・セレモニーには間に合わなかったが、開店祝いの花が並ぶ新しい売り場は買い物客で賑わっていた。笹かまぼこや揚げかまぼこといった主力商品のかたわらには、「がんばろう！女川」と染め抜かれたＴシャツが並ぶ。復興支援グッヅの販売である。店の奥には買い物客が休める休憩コーナーもある。隣接する明るい新工場には見学コースも設けられていた。「何か灯をともさないと、町の復興は遠のくばかり」当初の予定を変更し、震災から半年の節目に合わせてオープンした。</p>
				<p>女川町には度々足を運んできた。震災直後、中心部の市街地はそっくり姿を消し瓦礫の原と化していた。果たしてこの町は再生可能なのだろうかと考え込まされるほどの被害だった。住宅・商店はおろか町役場、消防署、ＪＲ女川駅、魚市場など公共インフラがことごく流された。女川港近くには津波で流された三棟の鉄筋コンクリート造りの大きなビルが横倒しになっていた。建築学の専門家も驚く被害現象だ。町ではこのビルを後世に津波の恐ろしさを伝えるモニュメントとして残したいという。</p>
				<p>五月・六月、瓦礫の撤去が進んだ。反面、作業に従事する自衛員や建設会社の関係者を除けば、人の気配のしない町になっていた。無理もない。人口一万人の町でおよそ一千人が亡くなった。残る九〇〇〇人のうち町に残るのは、その半分以下だという。働き口がないのだ。三分の一ほどの仮設住宅は隣接する石巻市に建設せざるをえなかった。高台の用地が不足しているからだ。多くの町民が町を出て行った。<br />七月、石巻市との境に近い町外れで営業しているコンビニを除けば、商店が一軒もなかった女川町にコンテナ商店街が店開きした。<br />居住用のコンテナハウスを一〇軒並べた。食料品店、果物屋、鮮魚店、衣料品店、電気店が営業を始めた。「町に何とか活気を取り戻したい」商工会メンバーの心意気だった。</p>
				<p>　そして、「高政」の新工場と店舗。「女川に人々を呼び戻したいのです」社長の子息で企画部長の高橋正樹さん（三六）が語る。働き口を確保するのがまず必要なこと。同社ではこれまでの従業員に加え、被災者五十数人を新たに雇用した。また、旧工場の施設と冷凍冷蔵庫を地元の企業に無償提供している。女川町の産業の柱は漁業と、それに連なる水産加工業。一日でも早く操業再開できるよう力になりたいという。<br />　<br />　震災で職を失った人は宮城、岩手、福島の三県で七万人に上る。沿岸部の主産業である水産加工場は壊滅的な被害を受けた。操業を再開できたのはほんの数社だけだ。（九月一一日現在）電気、繊維関係の工場も閉鎖に追い込まれたり、生産縮小の状態が続く。多くの人々が失業保険を受給して暮らしを支えている。受給期間は被災地については一二〇日間延長するという措置が取られた。しかし、雇用の確保もままならないなか、早い人で一〇月には受給期間が切れ始める。「一〇月危機説」といことばをあちこちで耳にするのはこのためである。</p>
				<p>　ハローワークの窓口はどこも職を求める人々がつめかけ混雑している。「折角の努力も焼け石に水では？」やや意地悪い質問をした。「勿論私ども一社ではそうかもしれません。だが、焼け石の水になりたいのです。小さな力でもいつかは石は冷たくなるはず。政治や行政を待っていては何もはじまりません」若手経営者、高橋正樹さんの言葉に迷いはなかった。</p>
				<p>　津波の浸水地域には、震災以来建築制限がかけられている。危険のある地域に無秩序に建造物が建てられるのを防ぐというのが、法律の趣旨である。一方では、一刻も早い事業再開を目指す事業主には足かせとなっていた。女川町では明日（一二日）から、この建築制限が一部解除されることになった。解除される地域は魚市場の周辺と被害が比較的に小さかった市街地に限られる。町役場によると、解除を待っていた五～六人の事業主が工場をどこに建て直すか検討を始めているという。気仙沼市も同じように明日から建築制限を一部解除する。震災から半年。被災地はようやく再生へ向け大きく歩み始めたようだ。被災地に失望の想いを与え続けてきた政治、行政。自立・再生へ動き始めた人々を今こそ後押ししてもらいたい。少なくとも人々の意欲を削ぐ愚を繰り返すことは許されない。</p>
				<p>［九月一二日］<br />　女川港に震災後初めてサンマ船が入港し、水揚げした。人々が待ち望んでいた。女川はサンマの水揚げでは全国で有数の港である。サンマ船の汽笛が響くと町中が活気づいたという。しかし、魚市場の施設は津波で破壊された。果たして今年の秋のシーズンにサンマ船はやって来るのだろうかと誰もが気をもんでいた。</p>
				<p>　機械設備がないため手作業での水揚げだった。水揚げ量も六〇トンで最盛時にはとても及ばない。しかし、サンマ船の汽笛、女川の人々は将来へつながる希望の号砲として聞いたにちがいない。<br />　<br />『追記』<br />　失業保険の受給期間が被災地の一部につき、さらに九〇日間延長されることになったという。（九月一六日の報道）これでとりあえず「一〇月危機」は回避できるのかもしれない。勿論、雇用の創出・確保が引き続き政治、行政の最大の課題の一つであることに変わりはない。被災した企業の操業再開、ましてや新規企業の立地にはまだまだ時間がかかる。それまでの雇用を何とかして確保する努力が必要だ。それなしには、住民の域外への流出に歯止めをかけることはできない。水産加工業を中心に、地元企業の操業再開を積極的に後押しすること。雇用創出基金を使って、つなぎ雇用を生み出すなど政治、行政は創意、工夫を尽くしてもらいたい。“ないものねだり”だと言わずに努力を待ちたい。(続く)</p>
				<p style="text-align: right;">仙台：松館忠樹</p>
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		<title>【久留里城】</title>
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		<pubDate>Sun, 28 Aug 2011 02:11:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kiyo7</dc:creator>
				<category><![CDATA[レジャー]]></category>
		<category><![CDATA[文化]]></category>
		<category><![CDATA[芸術・文化]]></category>

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		<description><![CDATA[				
				　東京に住んで、かれこれ６年。６年住み続けているわけではないが、初めて千葉県を旅行してみた。恐い（優しい？）伴侶と怪獣２匹とともに、お目当てのプールと水族館から帰る途中、「水と城の久留里（くるり）」と [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				
				<p><a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/20110826155347.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/20110826155347-225x300.jpg" title="20110826155347" width="225" height="300" class="alignleft size-medium wp-image-6375" /></a>　東京に住んで、かれこれ６年。６年住み続けているわけではないが、初めて千葉県を旅行してみた。恐い（優しい？）伴侶と怪獣２匹とともに、お目当てのプールと水族館から帰る途中、「水と城の久留里（くるり）」という看板が目に入った。お尻がむずむずした筆者を見た伴侶は、「せっかくだから行ってきたら」と珍しく（？）優しい言葉をかけてくれた。<br /><br />　久留里は、君津市の内陸部にあり、房総半島の中央部にある。歴史通としては、久留里城を拝んでみたいと思い、駐車場に家族３人を残し、本丸へと向かった。<br /><br />　平日の金曜日。名所として知られているわけでもないので、人はまばら。駐車場から本丸までは約６００メートル。メタボな８０キロ（身長は１７０センチそこそこ）が、サンダルでも「何とかなるだろう」と思いながら、本丸を目指した。<span id="more-6374"></span><br /><a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/20110826155236.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/20110826155236-225x300.jpg" title="20110826155236" width="225" height="300" class="alignright size-medium wp-image-6376" /></a>　それでも、６００メートルの坂道は辛い。このあと東京まで運転するという（絶対的）使命を考えると、「帰ろうかな」という思いが頭をよぎった。しかし、もう２度とありえないかもしれないと思い、ずんずんと歩いた。<br />途中の二の丸跡に資料館があり、少し悩みつつも、本丸に行く前に資料館に立ち寄った。無料で、しかも甲冑や刀剣が展示されている資料館。じっくり読み込みたいと後ろ髪を惹かれる思いだったが、伴侶と怪獣のことを考え、さらっと流していざ本丸へ。<br /><br />　本丸を目の前にすると、「意外と新しいな」と少しがっかり。もちろん、本丸自体は、再現されたもの。それでも気を取り直して、本丸に入った。本丸の最上階からの見晴ら。標高がどのくらいかは確認しなかったが、晩夏の田園風景を一望して思ったことは、「日本の故郷だな」。<br /><br />　駐車場に戻る途中、再び二の丸跡（資料館があるところ）をうろつくと、久留里城を本拠としていたとされる里見氏が、１５５４年から翌年にかけて、後北条氏の有力家臣、北条綱成らが率いる２万の軍勢を撃退したと、石碑に記されていた。戦国時代の北条氏は、鎌倉幕府<a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/20110826155040.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/20110826155040-225x300.jpg" title="20110826155040" width="225" height="300" class="alignleft size-medium wp-image-6377" /></a>の執権を務めた北条氏と区別して後北条氏とされ、豊臣秀吉は、この後北条氏を倒すことで、事実上、天下統一を果たした。その後北条氏と関東支配をめぐって争った里見氏、と書けばカッコイイかもしれないが、実際はかろうじて後北条氏に対抗していた里見氏というのが実情だ。それでも、その後北条氏を撃退した古戦場（現在は田んぼ）を臨むと、感慨はひとしおだった。<br /><br />　当時、この所領がどのような位置づけであったかは知る由もない。過疎化が進んでおり、取り残された日本の農村とも言えるようなところだ。このわずか土地を、なぜ有力戦国大名の後北条氏がこだわったのか。１５６４年に、後北条氏は、久留里城を掌中にする。関東支配の一手順だとは思うが、久留里にこだわった何かに思いを巡らせてしまう。<br /><br />　メタボの城歩きに戻ると、二の丸跡には、この久留里を治めた土屋氏の家臣として青年期を過ごしたんとされる新井白石の像も建てられている。この像自体は昭和の後半にできた<a href="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/20110826155718.jpg"><img src="http://www.webreport.jp/wp-content/uploads/20110826155718-300x225.jpg" title="20110826155718" width="300" height="225" class="alignright size-medium wp-image-6378" /></a>もので、はっきり言って「どうでもいい」が、先人に対する地元の思いに触れた気がした。<br /><br />　久留里城の駐車場に到着し、再び戻ってくるまでわずか３０分。それだけの時間で何が判ったというわけでもない。それでも、先人が何を思い、何を成したかったのかを考えたかった。今でこそ、日本の中心から取り残された場所かもしれないが、その土地に生き、その土地にこだわった思いは、東京一極集中の現代日本に投げかけるものがあるはずだ。<br /><br />東京：勘朔</p>
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		<title>大震災と教育</title>
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		<pubDate>Tue, 16 Aug 2011 00:37:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kiyo7</dc:creator>
				<category><![CDATA[教育]]></category>
		<category><![CDATA[災害]]></category>

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		<description><![CDATA[				
				 　教育界では、子どもの理科離れの傾向が強まっているので、これを食い止める工夫が盛んになってきた。理科の知識が必要だと特に最近認識させられたのは、3月11日発生した東日本大震災、津波及び原子力発電所の [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				
				<p> <span style="font-size: x-small;"><strong>　</strong></span><span style="font-size: x-small;">教育界では、子どもの理科離れの傾向が強まっているので、これを食い止める工夫が盛んになってきた。理科の知識が必要だと特に最近認識させられたのは、</span><span style="font-family: Times New Roman, serif;"><span style="font-size: x-small;">3</span></span><span style="font-size: x-small;">月</span><span style="font-family: Times New Roman, serif;"><span style="font-size: x-small;">11</span></span><span style="font-size: x-small;">日発生した東日本大震災、津波及び原子力発電所の事故である。地震では、プレート、マグニチュード、震度などの用語がひんぱんにマスコミに登場するし、原発事故ではベクレル、シーベルトなどの専門用語が、連日、テレビ、新聞に出てくる。こうした用語の意味が、私にはよく分からない。私が子どものころは、学校で教えなかったか、教えたけれども私が覚えてなかったのかもしれない。<span id="more-6343"></span></span><span style="font-size: x-small;">では最近の教育ではどうか。手元にある中学校の学習指導要領</span><span style="font-family: Times New Roman, serif;"><span style="font-size: x-small;">(</span></span><span style="font-size: x-small;">平成</span><span style="font-family: Times New Roman, serif;"><span style="font-size: x-small;">10</span></span><span style="font-size: x-small;">年度版</span><span style="font-family: Times New Roman, serif;"><span style="font-size: x-small;">)</span></span><span style="font-size: x-small;">を開いてみた。地震については｢地震の体験や記録を基に、その揺れの大きさや伝わり方の規則性に気付くとともに、地震の原因を地球内部の働きと関連付けてとらえ、地震に伴う土地の変化の様子を理解すること｣とある。また災害について｢地域において過去に地震、火山、津波、台風、洪水などの災害があった場合には、その災害について調べること｣とある。今回の震災は、不幸な出来事ではあるが、理科教育の上では、貴重な教材となっていることが分かる。また埼玉県では、地震ではないが、昭和</span><span style="font-family: Times New Roman, serif;"><span style="font-size: x-small;">22</span></span><span style="font-size: x-small;">年にキャサリン台風による洪水で大災害を受けた。この災害については、学習指導要領の記述からみると、当然学習の対象となるはずである。</span></p>
				<p><span style="font-size: x-small;">　ところで原子力についてであるが、学習指導要領では｢人間が利用しているエネルギーには水力、火力、原子力など様々なものがあることを知るとともに、エネルギーの有効な利用が大切であることを認識すること｣との記述はあるが、とくに大きく取り上げてはいない。この点について、京都教育大の山下宏文教授は、</span><span style="font-family: Times New Roman, serif;"><span style="font-size: x-small;">5</span></span><span style="font-size: x-small;">月</span><span style="font-family: Times New Roman, serif;"><span style="font-size: x-small;">17</span></span><span style="font-size: x-small;">日付読売新聞で｢これまで小中学校では放射線や原子力についてほとんど教えていないのが実情だ。原発事故後に登場した放射線量の数値やデータの意味を理解できる人が少なかったのも無理はない。誤った知識による風評被害の原因にもなったと思う。中学理科では『放射線の性質と利用』を学ぶことになったが‶触れる〝程度の内容だ。｣と問題点を指摘している。そしてここでも指摘されているが、風評被害のことを考えると、原子力についての正確な知識は、これからの中学生だけでなく、全国的に大人の教育の問題である。成人教育でどう対応していくべきかも問われているのである。</span></p>
				<p style="text-align: right;"><span style="font-size: x-small;">ＮＰＯ埼玉教育支援センター理事　竹内克好　　(元埼玉県教育長　高崎市出身)</span></p>
				<p><span style="font-size: small;">　　　</span></p>
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		<title>たけちゃんの独り言</title>
		<link>http://www.webreport.jp/6286.html</link>
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		<pubDate>Fri, 15 Jul 2011 02:46:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kiyo7</dc:creator>
				<category><![CDATA[くらし]]></category>
		<category><![CDATA[たけちゃんの独り言]]></category>
		<category><![CDATA[文化]]></category>

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		<description><![CDATA[				
				ヤマガラのおみくじ芸
				◆梅雨があけて、猛暑と共にカッコーの鳴き声を聞かない。5月末飛来して今頃迄いたが、北上したのだろう。原発事故の福島あたりに移ると、放射線浴びてどうなのだろうと思う。◆一 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[				
				<p>ヤマガラのおみくじ芸</p>
				<p>◆梅雨があけて、猛暑と共にカッコーの鳴き声を聞かない。5月末飛来して今頃迄いたが、北上したのだろう。原発事故の福島あたりに移ると、放射線浴びてどうなのだろうと思う。<br />◆一家で１鳥の飼育が認められたメジロは来年春から捕獲禁止になるという。これで全ての野鳥は捕獲全面禁止になる。このWEB読んでいたら、思い出はおみくじをひく鳥だった。<br />◆戦後まもない頃、闇市で鳥が、お賽銭もって箱に入れ鳥居をくぐり、鈴を鳴らし、神社の扉の中のおみくじを持ちかえる露店があった。「ヤマガラのおみくじ芸」と言うらしい。小学生の頃、飽きずに見ていたが、懐かしくYouTubeにあった。画面で数十年前を思い出して、飽きずに何回も見た。1年訓練して撮影後は放鳥とあった。呑気にすることがボケ防止とか。　</p>
				<p style="text-align: right;">立川：たけちゃん</p>
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