この記事についてつぶやく少女暴行事件押しつぶす沖縄への圧力
安里英子さんのお話
安里さんのお話によると、今回の事件は若者たちが大勢集まる町の真ん中にあるミュージックタウンで起きており、基地の外には米軍の住宅がたくさん建っていて、加害者もそこに住んでいたそうです。沖縄に住む米軍関係者は4万4,963人。その中の1万7,048人が基地の外に住んでいることを、今回の問題が起きてから防衛省が公表したことを明らかにしながら、外と内側の区別がなくなっている状況の中で起こった事件であるとの認識を示しました。
安里英子さん
米軍兵士は沖縄の人が住めない高級住宅に住んでいる沖縄の民間アパートの家賃は4~6万円ですが、米軍住宅の家賃は26万円ぐらいで、最高額は46万円。米軍は沖縄の人が住めないような高級住宅に住み、気ままな生活ができることから、基地外に住むことを希望する米兵が増えているそうです。そのお金はどこから出ているか。日本の思いやり予算から出ている。つまり、日本が米軍にお金を出し、基地外の高級住宅に住む米兵が起こした事件であることを認識する必要があることを強く訴えました。
今回の事件では、インターネット上での被害者へのバッシングがあったと述べ、なぜついて行ったのか、ついて行った者が悪いといった、被害者に対する非難がものすごい数に及んだことに言及しながら、こういう事件が起こると必ず被害者への誹謗中傷が起こるが、今回もそれが目立ったことを指摘しました。
被害者を追い詰めた「週刊新潮」の心無い記事
被害者に付きまとい、家族のプライバシーを記事として書いた「週刊新潮」は、被害者と一緒にいた友だちにも付きまとったそうです。その結果、被害者だけでなく、まわりの中学生までバッシングにあい、被害が拡大したことによって、学校や町が異様な雰囲気に包まれ、被害者が告訴を取り下げざるをえないような状況に追い込まれてしまった、との認識を示しました。
事件が起きたとき、女性たちはすぐに抗議行動を起こし、記者会見を開いたり、あちこちで集会を開いたそうです。しかし、その後被害者が告訴を取り下げたため、「どう言ったらいいか、ある意味の混乱が生じた」とそのときの状況を述懐しました。「抗議をやめなさい」とか、「被害者を守らなければならない。告訴を取り下げたのに運動が被害者を追い詰める」といった民主団体などからの働きかけや、「少女の立場に立てなかった、守ることができなかった」などとするマスコミ報道があり、どうしたらいいのか悩んだことを明らかにしながら、「なにが事実か。いま起こっていることはなにか。昨夜も遅くまで仲間たちと話し合った」と語りました。
なぜ被害者は告訴を取り下げたのか
告訴を取り下げた理由について安里さんは、「身を守るため」との見方を示しました。このような事件が起こると、すぐに防衛省が駆けつけ、事件をもみつぶすために示談にもっていくことに言及し、闇から闇に葬られ、表に出ているものは氷山の一角であり、実際はその何倍もの事件がもみ消されている、と語りました。
安里さんのお話によると、アメリカの軍隊を置いている国の女性たちのネットワークがあり、2年に1回集って国際会議を行っているそうです。そこでは性暴力や国際条約の法的な問題などが話し合われており、アメリカ政府の報告によると、フィリピン、韓国、日本など、軍隊を置いている国の性暴力は約3,000件あり、06年は申し立てが2,947人で、告訴取り消しが670人となっていて、いったん告訴したあと、途中で取り下げる事例が増えていると語りました。
裁判そのものが2次被害をもたらす可能性がある
その理由として、加害者が軍人の場合、軍隊(からの)圧力や恐怖心があり、その中で被害者が裁判に訴えることは相当の重圧があり、裁判そのものが2次被害をもたらす可能性があることから、中学生がそれに耐えられるのか、としながら、被害者に対する心のケアの制度のない日本では、被害にあっても告訴を取り下げざるを得ない状況にあることも問題があると指摘しました。
今回の場合、学校がポイントとなりますが、新聞に載った関係者のコメントを読むと、「安全教育を徹底して行う」となっており、危ない人にはついていかないという教えは、危ない人について行った被害者が悪いということになってしまうので、ますます生徒を追い詰めていくことになる、と述べ、学校教育が生徒の立場に立っていないことへの懸念を示しました。
米軍に基地がある限りこの問題は解決しない
安里さんは、米軍基地がある限りこの問題は解決しない、と述べ、基地撤去以外に解決の方法はないことを強く訴えました。(基地があることが前提となっている)地位協定見直しではなく、安保条約を直ちに廃棄すべきであり、基地撤去が多くの沖縄の人々の叫びであることを、重ねて強く訴えました。
安里さんは、これまでも米軍の犯罪がうやむやにされ、もみ消されてきたことや、裁判になっても軽い罪で国に帰って終わりといったことを繰り返してきたことに言及し、犯罪者は国際法廷で裁くべきであるとの考えを示しました。今回の事件について沖縄タイムスや琉球新報などが、告訴を取り下げたあともきっちりした論調でこの問題をとらえ、みんなの意見を集約して伝えていたことを高く評価しました。
できることを一つひとつやっていく
今回の事件を日本政府がもみ消したいと思っているのは、この問題が米軍再編に与える影響を恐れているからであるとの認識を示しながら、県民の基地に対する反発は強まっており、3月23日の県民大会では、教科書問題のときのように超党派は難しいが、基地の前での女性たちの3日間の座り込みなど、抗議行動を起こすことを明らかにしました。
安里さんは、「被害者が悪いというのはいったいなんなのか」と厳しく問いかけながら、心無い誹謗中傷に立ち向かうためにも、小さな集会をもち、小さな声がまとまっていくような模索を続けていきたいとし、「沖縄の闘いは模索しながらの闘い」であるとの認識を示しながら、まるで総レイプを受けているような精神状態にある中で、いまできることを1つ1つやっていくことでつながっていきたい、との思いを訴えました。
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この記事についてつぶやくイージス艦「あたご」事故の深層 ~アメリカのイージス艦ネットワークに組み込まれた日本列島~
ただひとつ、私はこのニュースに対し、少し不思議に思う点がある。それは、この事故では、決定的に触れられていない、あるいは意図的に報道されていない、ブラックボックスがあるのではないかということだ。
周知のようにイージス艦の心臓部は、文字通りブラックボックスになっていてアメリカ軍の最高機密になる。昨年の4月に、海上自衛官が、イージス艦の内部情報を外に漏らし、大きな問題となったことがあった。
私は、東京新聞・2月21日夕刊の記事「衛星破壊狙い ミサイル命中 制御不能で米」を見た瞬間に「あれ」と感じた。
◆イージス艦「あたご」の衝突事故とアメリカによる「偵察衛星撃墜」
21日の夕刊は、まず1面にはイージス艦「あたご」と漁船の事故のニュースが大きくあり、2面の下方にやや控えめに、アメリカが太平洋上で、落下の危険のある偵察衛星だか人工衛星を打ち落とした、という上記題名の記事があった。何でも衛星は故障して、徐々に軌道を外れ、ヒドラジンという劇薬が空中に撒かれる事故を防ぐための処置だということだ。
東京新聞のニュースソースは「共同通信」だった。ニュースの正確を期すために、共同の記事を引用する。
【米政府は20日、有毒な燃料を満載したまま軌道上で制御不能になった偵察衛星を大気圏外で破壊するため、北太平洋上のイージス艦から迎撃ミサイル(SM3)を発射、命中させ、破壊に成功した。(中略)
高度な軍事技術であるミサイル防衛システムを応用した衛星破壊の試みは初めて。システムの信頼性、汎用性を内外に示す狙いもあるとの指摘もある。失敗すれば米国の威信が大きく揺らぎかねなかった。ロシアや中国は事前に警戒感を表明しており、宇宙軍事技術の開発をめぐり、新たな国際的緊張を招く恐れもある。
国防総省の事前説明などによると、北太平洋のハワイ沖約1km付近の海上に停泊したイージス艦レイクエリーが、搭載したSM3を発射。上空約240kmを、徐々に高度を下げつつ周回していた偵察衛星「L21」を狙った。米海軍は失敗した場合に直ちに後続のミサイルを発射できるよう別のイージス艦も待機させていた】(USFL.COMより転載)
この人工衛星は、アメリカ海軍のイージス艦が、ハワイ沖からミサイルを発射して、日本時間で2月21日午後0時26分に発射された。見事命中させたというもので、アメリカ軍は、統合参謀本部副議長が直々にブリーフィング(注※)を行って、命中を誇示したという。「スター・ウォーズ」を地でいくようなニュースである。
注※ ペンタゴンのブリーフィング映像
◆「あたご」は「日米イージス艦ネットワーク」の一翼を担っている?!
考えてみるとアメリカは現在イージス艦を70数隻保有しているが、その中でミサイルを打ち落とす能力の高い最精鋭のイージス艦はわずか10数隻だという。その内の5隻が、現在日本海に展開していると見られている。全世界に展開する70数隻のイージス艦は、それぞれが、超高性能レーダーというハイテクの目を持って監視の目を光らせている。しかもそれぞれのイージス艦には迎撃用ミサイルが搭載されている。
このそれぞれのイージスと宇宙にある人工衛星は、有機的に結びついており、日本が保有している5隻のイージス艦もまた、そのアメリカの軍事情報上のひとつのポイントとして、アメリカの世界戦略に組み込まれているということになる。他の国でイージス艦を保有しているのはスペインの4隻、ノルウェーの2隻、韓国が1隻を建造中とのことだ。(ウィキペディア「イージス艦」の項を参考)
さて、JanJan紙上で、ひらのゆきこ記者が、2月24日付記事『「9条世界会議」記者会見 ダクラス・スミスさんら訴え』の中で、小森洋一東大教授談として注目すべき情報を記している。
小森氏の情報によれば、今回事故を起こした「あたご」は、1月21日から1月25日まで、アメリカのハワイ沖で、対空ミサイルの発射実験を行っていたというのである。つまり「あたご」は、その対空ミサイル発射訓練を終えて帰って来たばかりなのだ。
ここから私は次のことを類推できるのではないかと考える。「あたご」の事故の背後には、アメリカの最高機密とも言える「偵察衛星撃墜作戦」で、何らかの任務を担っていたことがあるのではないか。そのために、周辺海域に存在した漁船などについての注意が散漫になっていた可能性はないか。簡単に言ってしまえば、「あたご」は、重大な情報収集任務を担っていて、搭乗員全体にかなりのプレッシャーがかかっていたのではないかとという推測である。
もちろんこの推測は、間違っている可能性もある。ただ、事故の情報が、防衛大臣に、知らされたのは、1時間半後だったこと。また首相には、2時間後だったという。この遅れはどのように解釈しても気の緩みだけとは思えない。また防衛省の事故情報の二転三転もどのように考えても合点がいかない。
◆イージス艦は憲法9条のワクを越えているという疑い
さて、ここで視点を変えて考察してみる。私は、そもそも、イージス艦を日本が配備するという時点で、アメリカの極東軍事戦略の中に組み込まれることを意味していたのではないかと思う。一隻のイージス艦というものは、考えてみれば、コンピューターの中のひとつのチップと想定できる。チップの数が多ければ多いほど、そのシステムは、どんな海上においても柔軟にしかも素早く対応できる。こうなると、イージス艦を導入した地点で、日本という国家は、日本国憲法の平和理念の根幹に当たる憲法9条を踏み越えてしまった可能性が高いのではないだろうか。そのことは、イージス艦導入以前の国会論議でも大問題となっていた。
今回の事故で、事故を起こした当事者の自衛隊側の事故情報についての歯切れの悪さは、アメリカの極東軍事戦略や憲法の問題に由来しているのではないかと思うのである。
◆結論 イージス艦に守られている日本?!
もっと問題なのは、今回の事故を単なる自衛隊が起こした海難事故一点張りの報道しかでき得ない日本のマスコミの視野の狭さではないだろうか。この偵察衛星撃墜のニュースについて、朝日、読売、毎日、日経、産経などの大新聞社は、ほとんど豆粒ほどの扱いしかしていない。大手新聞社のそのあまりの徹底振りは、「報道管制」が敷かれているのではないか、と疑いたくなるほどだ。まさか「大本営発表」の時代とは違うとは思うが、イージス艦事件の背後にある大きな問題について、指摘をするマスコミがあっても良いのではあるまいか。
私たち日本の納税者は、年々厳しくなる緊縮財政の中でも、ほとんどその財政規模が減少しない防衛費が、どのようなことで使われ、真に国民の幸福と安全のために役立っているかという認識を持たなければならないと思う。
もうひとつ、日本国民は、アメリカとの間で「イージス艦ネットワーク」(イージスシステム)に取り込まれることによって、日本列島がアメリカのMD(ミサイル防衛)の傘にすっぽりと入ってしまったことを自覚すべきではなかろうか。
現在日本列島周辺には、日米合わせて10隻近くのイージス艦が展開している。これでは見方によっては、日本は、イージス艦によって守られているという構図にもなる。本当は、ここが今回のニュースの核心ではないかと思う。そしてそれは日本国憲法の平和主義との精神と矛盾するものであると筆者は考える。
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この記事についてつぶやく沖縄戦の資料館を訪れて
先日、沖縄の「ひめゆり平和祈念資料館」 http://www.himeyuri.or.jp/ に行ってきた。
やはり、百聞は一見にしかずで、沖縄戦の話など知っているつもりで全然知らなかったことがわかった。一般住民を巻き込んだ地上戦がいかに悲惨なものであったか、また、「陸軍病院」という名前の病院は、赤十字の旗がはためく堅固な建物かと思いきやただの塹壕でそのなかで薬も何もない中で負傷兵がうめき苦しみ死んでゆく、地獄のような現実を少し知ることが出来た。
10代の若者たちの写真を見るにつけ、この子たちが戦争で亡くなったことを思うと、とてもつらかった。沖縄の人の「語りべ」は当然歳をとっていき、戦争体験を語ることができなくなってくるなか、このような資料館が出来て、戦争実態を知ることができることは本当に貴重なことだと思う。知らなくてはならないことだとおもう。
また、資料館には、修学旅行生も多く訪れていた。修学旅行の中で、このような戦争の実態を学べることはやはり重要なことだと思う。
沖縄の人たちが、戦争のことを後の世代に一生懸命語り継ぎ、このような資料館を作って伝えようとしていること。
その心に触れて、自分には何が出来るか。また自分や次の世代に何を残していけるか。そんなことを色々考えている。
戦争で人の命が奪われることや、戦争の中で、人ひとりひとりが尊重されないようなことをなくしたい。そのためにはどうすればよいか。
少なからずの人が「それには憲法9条を変えさせないことだ」というかもしれない。
でも、私はそれは違うと思う。憲法9条を変えたらいいということではない。「変えない」「変えさせない」にとどまるではなく、憲法9条ができたときの理念を(すぐに完全にとはいわずとも)実現していくことだ、と思う。
憲法9条があろうとなかろうと、ある国に人々が暮らす以上、その国は、戦争で国が滅びないように取り敢えず国民がそこそこ安心できるような何らかの手段を講じているはずだ。
その手段は、大きく分けて二種類。軍事的手段と非軍事的手段。
つまり、沖縄戦のような悲惨な戦争で国民が苦しまないように強大な軍事国家を作るという選択肢もあるし、そうでないやり方もあるということだ。問題はどちらがうまくいくか、それだけだとおもう。
憲法9条は戦争を放棄する・軍備を持たないことを書いている。
だが、国家が国家である以上、国民の平和と安全を守る手段は必要なのだから、憲法のこころは、戦争しない・軍備を持たないという「しない」ことを言って国の手足を縛ってそれでよしとするものではないとおもう。
だとすると、つまり、日本の平和と安全を守る手段としては、非軍事的手段を知恵を絞って有効に活用するしかないということになる。
憲法9条のこころは、私の解釈ではこうだ。
軍事的手段は今まで人類になじみが深く、もっとも思いつきやすいし、飛びつきやすい。だが、その軍事的手段に安易に飛びつかず、非軍事的手段で平和を構築することに知恵をしぼれ、と。たしかに、非軍事的手段で平和を構築し維持することは、人類にまだなじみが薄いが、それを考えて考えて考え抜こうではないか、その道を突き詰めようではないか、と。そういうことだと思う。
だとおもう、というか、最近そう思えてきた。つまり、今までの軍事的手段による安全・安心というやり方から脱却して、新しい発想で、非軍事的手段によって平和を構築して維持して安全・安心を勝ち得ようというやり方を考えていこう、それを実践しよう、という創意工夫・知恵を求める考え方を憲法9条に読み取れるのではないか。
「何もしない」という意味ならば余り感心しないのだが、人類の幸福のための創意工夫・知恵を高めることを憲法9条がうたったのならば、これを失うのは惜しい、と思えてくる。
実際には、憲法9条のもとでも軍事的手段を捨て去ることは出来ず、軍事的手段(自衛隊)も併用しながら何とか平和を維持しようとしているのが日本の現状だ。私は、それはそれで今現在の対応としては仕方ないとおもう。(また自衛隊の合憲違憲の論議はあるが、国際法上の自衛権の考え方で、憲法とギリギリ整合を保つ解釈は、それは一つのバランスであり知恵だとおもう。)
だが、非軍事的手段による平和構築の方法をもっと考えて、実践していくことによって、相対的に、軍事的手段に頼る度合いを減らしてゆくべきだとおもう。
なぜなら、軍事的手段で安心を得る方法は、やっぱり結局軍拡競争をすることになるし、軍事的手段はどこかで「使われてしまう」、すなわち不幸にも戦争が起こってしまう、からだ。現に今でも戦争はなくならない。
それに軍事的手段を過信できない。たとえば「北朝鮮が攻撃してくる可能性があるか?」という論点があって「可能性はない」という人もいるのだが、私は、もちろん現実に可能性は低いがだからといってゼロということもない、と思う。だが重要なことは日本の軍備が今より大きくなれば北朝鮮の攻撃を防げるか?危険はゼロになるか?という点であって、それは否というしかない。「ミサイル一発飛んでくる」という事態になれば、それは軍備の大小くらいでどうにかなる話とは次元が違う。
だから、「憲法9条を変えないこと」そのものが大切なのではなくて、非軍事的手段による平和・安全・安心を確保する手段をもっともっと知恵を絞り考えることなのだとおもう。
憲法9条の論議では、憲法9条の「文字通り」は当面実現できそうにない、ということが難点であるから、憲法9条の理想は認めつつも軍事的手段を完全に否定できないというジレンマがあるから、軍隊に対して「抑制的な」改憲(専守防衛の自衛隊だけを書くような)をしようという考えの人もいる。私は、そういう人の考えとは、重要な部分においてほとんど同じ考えでいる。(ただまあ解釈論でやってこれたのだから、同じルールのままならわざわざ改憲しなくても、と思うのだが。それにわざわざ改憲するときには「(今と)同じルールのまま」の改憲にとどまることなど現実にはあり得ないのが実際だろうし。)
さて、非軍事的手段って?
これが難しい、ように思える。そうだろう。人類は今までどうしても「軍事的手段」に飛びつきがちだったのだから。非軍事的手段を考えるのはそんなに慣れていない。
けれども方向性はいくつもある。
最有力なものは、去年兵庫県弁護士会でシンポhttp://blog.so-net.ne.jp/h-m-d/2007-10-23をやったときに広島の井上正信弁護士の説かれていた「国際的な法の支配の確立」だ。
つまりそれを目指して、国際連盟、国際連合ができたのであって、世界が一貫して目指している平和構築・維持体制はまさにこれだ。
現実には国家同士が寄り合っているし力の差もあるから「法の支配」の実現は容易ではなくて、すぐ「力の支配」になりがちだ。最近起こった大きな戦争もそうだ。
けれども、それをなるべく「力の支配」にさせない工夫はもっと出来るとおもうし、大国の利益だけでなくパワーバランスを重視したあり方になるように国連の改革などもできるはずだとおもう。
そして、法律家が法律家らしいあり方で平和のために何か考え、行動するとすれば、まさにこれだとおもう。
もちろん、最終的に、侵略戦争を行う国が現れたら、それを軍事的な手段をつかってやめさせなければならないこともあるだろうから、「軍事的手段」も完全に放棄できないだろうが、平和システムをとことん知恵を絞って機能させることによってその度合いを最小にすべきだ、ということになるだろうとおもう。
それから、兵庫県弁護士会シンポを振り返ると、学者の奥本京子さん(奥本さんが属されている研究会のHP http://www.wako.ac.jp/~itot/tran/index.html)が紹介してくださった、非暴力による紛争転換、というものも重要なことだとおもう。
戦争になりそうな(なるまえの)紛争に第三者が関わり、徹底的に対話を粘り強く行うことによって、その紛争を解決、というか、別の形に転換して、お互いにとってよりよい状態をつくっていく。
これはドロドロした部分に関わることで決して綺麗ごとの世界ではないだろう。けれど、ドロドロに飛び込む勇気を持って行動して戦争の惨禍が防げたならば大いに価値がある。
「憲法9条を守って、平和を祈る」これだけでいいわけではない。
それぞれの人の職業や、持ち場や、役割は違えど、人類の知恵を高めて、殺しあわずに済む方法をつくっていくことにつながるように、人ひとりひとりが少しずつ努力して積み重なってゆくことが大事だと思う。
しかし、憲法9条の話は、不幸なことに、かなりイデオロギー色の濃いものと受け取られがちになってしまっている。だから抵抗を覚え避けてしまう人も多いようにおもう。本当は、憲法9条と、俗に言う左派右派の思想のあり方とはそんなに論理必然にリンクしないし、別物だとおもうのに。
それに、非軍事的手段をもっともっと工夫して勉強して追及していくことで、軍事的手段に頼る度合いを減らしましょうということそのものは、多くの国民が同意できるだろうしそれに知恵を注いでいこうよ!と思う。
そんななかで、私が考えているのはこうだ。
たとえば、環境・健康・安全という今のひとたち一般に関心の高い分野から、そこを掘り下げてゆくことによって、人ひとりひとりの存在の尊さを認め合って、そのための知恵をしぼれば必然的に戦争を避けることにつながるわけで、そういうことに一生懸命になるのもいいのではないか、と。
そして以前にも書いた(http://blog.so-net.ne.jp/h-m-d/2007-12-13)想像力と人への敬意を大切にしていくような知的営みを大事にしていくこと。そういうのは「教育」というか、子どものころも含めた人間の成長過程をより豊かにしていくことによって創られる面が大きいのだろう。
こういうのが平和を創造する根っこだと思っている。
うまくまとまらないが、ひめゆり平和祈念資料館を訪れたあと、旅の途中、つらつらと考えていたことをそのままに書き起こしてみた。
あるいは浅はかな考えがいっぱいあるかもしれないが、自分の考えをこれからも練って、自分の日々の動きとともに、自分なりに進化させていこう、とおもう。
神戸:村上英樹 弁護士村上英樹のブログ
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この記事についてつぶやく62回目の原爆の日に読む峠三吉の原爆詩
広島に投下された原爆によるきのこ雲(ウィキペディアより)
また今年も広島が原子爆弾の劫火に焼かれた8月6日が廻ってきた。戦後生まれの私たちは、実際にその惨劇がどのようなものだったのか、想像力をもって知っていくしかない。
その時、峠三吉(とうげみつよし:1917-1953)の原爆詩が圧倒的な迫力をもって、私たちの胸に迫ってくる。
中でも女優吉永小百合さんの朗読によって有名な「人間をかえせ」(原爆詩集の序として発表された詩)は、近年英訳(「Give Back Hurman」)され、世界的にも知られるようになった。
ちちをかえせ
ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
この詩を読む時、誰に向かって、「ちち」や「はは」を返せと言っているのか。原爆を投下したアメリカに向かってだろうか。
この詩が作者の浮かんだ時には、もしかするとアメリカ憎しの気持があったかもしれないが、作者は推敲するうちに、もっと大きな人間の心の奥底にある「悪心」というものに向けて、言葉という矢を放ったのではあるまいか。私たち人間の心には、戦争を起こし、殺戮を正当化し、敵と定めたものを暴力で排除する怖ろしい悪魔のごとき意識が眠っている。
峠三吉は、昭和20年(1945)8月6日、爆心地から三キロ離れた翠町で被爆した。辛うじて命を取り留めた彼は、国立広島療養所で、原爆の傷に苦しみながらも、昭和26年(1951)11月、アメリカ大統領トルーマンが、朝鮮戦争においても原爆を使用することを検討しているというニュースを聞き、矢も立てもたまらずに、「八月六日」と題された詩を書き始めた。
あの閃光がわすれえようか
瞬時に街頭の三万は消え
圧しつぶされた暗闇の底で
五万の悲鳴は絶え
渦巻くきいろい煙がうすれると
ビルディングは裂け、橋は崩れ
満員電車はそのまま焦げ
涯しない瓦礫と燃えさしの堆積であった広島
やがてボロ切れのような皮膚を垂れた
両手を胸に
くずれた脳漿(のうしょう)を踏み
焼け焦げた布を腰にまとって泣きながら群れ歩いた裸体の行列
石地蔵のように散乱した練兵場の屍体
つながれて筏へ這いより折り重なった河岸の群も
灼けつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり
夕空をつく火光の中に
下敷きのまま生きた母や弟の町のあたりも
焼けうつり
兵器廠(へいきしょう)の床の糞尿のうえに
のがれ横たわった女学生らの
太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
誰がたれとも分からぬ一群の上に朝日がさせば
すでに動くものもなく
異臭のよどんだなかで金ダライにとぶ蠅の羽音だけ
三十万の全市をしめた
あの静寂が忘れえようか
あのしずけさの中で
帰らなかった妻や子のしろい眼窩(がんか)が
俺たちの心魂をたち割って
込めたねがいを
忘れえようか!
この詩を書き終え、何かに憑かれたようにわずか三ケ月ばかりのの間に、彼は48篇の詩を一気呵成に書き上げてしまった。
峠三吉の妻和子夫人の手記によれば、彼は原爆の真実を押さえ込もうとする勢力の圧力を感じつつも、療養所の守衛の目を盗んで「窓ガラスに歯ミガキ粉を溶いてぬり、夜は新聞紙などをピンで止め」て夜中まで書き続けたということである。
何とも凄まじい執念だが、おそらくどうしても書き記して置かねばならないという強い信念が、彼の創作心を支えていたのだろう。あるいは無念の思いを持って旅立った広島市民の存念が、彼のペンを走らす原動力となったとも考えられる。
そのような思いをして書き上げられた峠三吉の原爆詩のメッセージは、人間の良心を拠り所として、人間が人間を殺戮する戦争という愚かしい行為に対する絶対的な否定の精神だった。もっと言えば、それは「非戦への誓い」であり、「平和への祈り」そのものだった。
峠の原爆詩は、昭和26年(1951)、「原爆詩集」として、孔版刷りされ「ベルリン世界青年平和祭」に、日本代表作品の一つとして送付された。彼の詩は、大反響を呼び起こし、平和を願う人々の6億の署名を集める原動力ともなった。
この詩集のあとがきで峠はこのように短い言葉を記している。
「私はうす暗い広島療養所の一室でこの稿をまとめた。(中略)おそらく此の機会を外したならこの詩集は日のめをみることが出来なくなるであろう‥‥然しともかくこれは私の、いや広島の私たちから全世界の人々、人々の中にどんな場合にでもひそやかにまばたいている生得の瞳への、人間としてふとしたとき自他への思いやりとしてさしのべられざるを得ぬ優しい手の中へのせい一ぱい(精一杯:佐藤注)の贈り物である。どうか此の心を受取って頂きたい」
それからわずか二年後、昭和28年(1953)3月10日、峠三吉は、持病の気管支拡張症と被爆の後遺症に苦しみながら、国立広島療養所で36歳という若さで帰らぬ人となったのである。峠三吉の詩は、広島で罪もなく亡くなった人々の平和への無念の思いの表出とも言えるものだ。私たちは今日、それを「広島の心」と呼ぶ。
◇ ◇ ◇
私たち日本人は、62回目の原爆記念日に当たり、峠三吉の原爆詩の放つ想像力を借りて、「広島で起こった事の深層」を読み解き、教訓としなければならない。
広島で炸裂した原子爆弾は、一瞬にして14万とも言われる市民の命を奪い、これまでに20万人以上の人々が、長い間、原爆の後遺症に苦しみながら亡くなっている。そしてまた被爆後62年目に当たる今日でも、今だ原爆の後遺症に苦しむ人々がいる。
私たち日本人は、原子爆弾の現実を世界に伝え、世界を覆う戦争への脅威を取り払うために、精一杯の努力をしなけらばならない。峠三吉の”Give Back Human”(「人間をかえせ」)を合言葉に!!
<参考文献>
「原爆と峠三吉の詩」(原爆雲の下より すべての声は訴える/編集下関原爆展事務局/取扱長周新聞社)
この記事の初出は日本インターネット新聞(JANJAN)で同社との提携により掲載。
◇ ◇ ◇
【おもな関連記事】
・6たび国を批判:原爆症認定集団訴訟・熊本地裁判決
・映画の森:語りつがれるべき悲劇~「ヒロシマナガサキ」
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この記事についてつぶやく平和運動の旗手 小田実氏逝く 日本の市民平和運動のシンボル
小田実氏の御霊に捧ぐ
いきやうやう小田実なる生涯を駆け抜けたりし人を悲しむ
世田谷園乗寺にて
佐藤弘弥撮影
あのベトナム反戦のヒーロー小田実氏が、7月30日午後、病気(胃癌)との壮絶な戦いを終えて亡くなった。75歳だった。まだまだ本人もやりたいことは山ほどあっただろう。また周囲もやらせてみたいことは星の数ほどもあったに違いない。
小田氏は、2004年に文化人たちが中心となり発足した「9条の会」では、梅原猛氏、大江健三郎氏らと共に呼びかけ人の一人だった。最後まで世界平和を願い、日本と憲法9条の行く末を思い、一極集中と格差拡大の日本を憂いながら、グローバリズムに翻弄される市民が自民党政権へのノーの投票行動(07年7月29日第21回参院選挙)を見届けるようにして静かに亡くなった。
今年の5月、小田氏は、知人友人に向けて、自分が末期癌で長くないことを知らせる手紙を送っていた。
驚いた瀬戸内寂聴氏は、今年の6月5日病床を見舞った。寂聴さんは病床の氏をいたわるようにこう問いかけた。
「小説家として最後まで書いてね……『すばる』7月号にギリシャの『イーリアス』の(翻訳)が掲載されているのね」
すると小田氏は、
「(西洋古典学が出発点の)私も英雄叙事詩を残すようなことはないけれど、(小林)一茶のようにこれが『これがまあ、ついの栖』の心境ですよ……あと2年あればいい……ちゃんとうまいものが食いたい。何でもいいんだよ。その瞬間に思いついたものが食えればね」と、心境を語った。(以上は週刊朝日 6月29日号より引用)
この10年ほど、小田氏は、大学で最初に志したギリシャ哲学やギリシャ神話を再度研究していたようだ。一茶の句を引いて「これがまあついの栖か雪五尺」と現在の心境を漏らしたのは、あらゆる治療をし尽くした上での諦観がひしひしと伝わってくる。
私は、若い頃小田実が”大嫌い”だった。へそ曲がりの私は、金回りの良い友だちがしたり顔で、「小田実の全仕事」(河出書房新社1970年から刊全11巻)という分厚い本をこれ見よがしに小脇に抱えているのが、シャクだった。その友が「小田実はいい」と言えば、私はますますそっぽを向いていた。だから熱中して読みあさったという記憶は一切ない。
別に彼の生き様が嫌いだった訳ではない。というよりは日本人の島国根性など、どこにも見あたらぬ天真爛漫な小田実という人間の突き抜けた生き様に嫉妬を感じていたのかもしれない。
彼のライフスタイルは、著書の題の通り、「何でも見てやろう」(河出書房新社1961刊)ということに尽きている。彼は生涯、素直に、感じるままに、見、聞き、行動をする、といういたってシンプルな生き方をして亡くなった。
私の潜在意識の奥では、「同じ日本人でありながら、なぜあんな風にしなやかに自然に、世界を見、聞き、歩き、権力など一向に気にしないかのように、正しいと思ったことを行動に移せるのだろう」といつもふしぎだった。
小田氏には、誰も簡単に真似のできないクソ度胸がある。何しろ、アメリカのハーバード大学に留学経験がありながら、アメリカ政府を敵に回し、まさにベトナム戦争真っ直中の1965年開高健(1930ー1989)や鶴見俊輔(1922ー)らと、脱走アメリカ兵を支援する組織「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合の略)を結成して、おおっぴらに行動をした。これは勇気という以上に、今考えても無謀なことのように感じてしまう。しかし小田実氏は、持ち前の柔らかで柔軟な運動を展開し、1974年までこの行動を行った。
小田氏が平和運動に力を注ぐ背景には、子どもの頃の大阪での空襲体験だったという。
それにしても、世界中の国際的な政治組織がうごめく中で、小田氏らの行動は、無鉄砲で、非常に危険だったことは確かだ。後にソ連のKGBの公開文書から、べ平連にも資金が入っていたということであるが、それでも、小田実という人物を誰もKGBのスパイなどとは絶対に思わない。それは偏に彼の精神の高潔さと私利私欲を越えた純粋な精神があってのことだ。
要するに、国家でもどのような組織でも、あの小田実の魂を、ねじ曲げ利用することなど出来なかったのである。別の言い方をすれば、小田実氏が、「小田実」という20世紀に現れた新しい日本人の生き様をまっとうできたことは、偏に彼の魂が、純粋無垢だったという一点に尽きるのではないかと思うのである。
そのことを象徴するように、今、小田実氏の評価は、総じて日本国内よりも海外の方が高い気がする。事実2002年アメリカの「タイム誌」は、「アジアの英雄」25人を選び、その中に小田氏は、イチローや北野武、中田英俊などと共に選ばれている。
また小説「玉砕」がドナルド・キーン氏によって翻訳され、2005年にイギリスBBCでラジオドラマ化され、高い評価を受けている。
またひとり、日本を代表する伝説の男(ヒーロー)が旅立ってしまった。合掌
義経伝説:佐藤弘弥
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この記事についてつぶやく「地雷除去と難民帰還の関係性~ペシャワールを訪れて~(後編)
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この記事についてつぶやく地雷除去と難民帰還の関係性~ペシャワールを訪れて~(前編)
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この記事についてつぶやくカンボジアでの地雷処理について②
この活動の実施に当たり、先ず活動対象村を選定しました。前述の、阻害要因である地雷の除去、除去後の土地の有効活用、貧困の解消の観点から、数箇所の候補村の中から更に村民の自立心を調査確認して助成に値すると判断した、バッタンバン州のオウ・チャンロング村、オウ・アンロク村及びクロホ-ム村の3村を選定しました。

地雷原での作業風景。2名一組で1.5メートル幅の地域を探査する。
これらの村に共通する事項は、「1戸当たりの保有農地が低い」、「農地に適した土地が地雷の存在により活用できていない」、「各村落の連絡路が地雷の存在により限定されている」、「飲料水に適した安全な水の供給ができない」、「トイレ等生活環境が劣悪である」、「小学校、中学校への就学率が低い」即ち、現金収入が乏しく(年100$未満)、生活・衛生・教育環境が劣悪であるという点でした。
次いで、「村再生委員会の組織化」、「土地の利権確保」、「地雷処理作業」、「農地開発と生活改善」の四段階で事業を進めます。

発見された対戦車地雷TM46
第三段階の「地雷処理作業」においては地雷処理チ-ム(31名を基準とする除去小隊を3個)を編成し、各対象村に配置します。その要員は村民から採用し、CMACのトレ-ニングセンタ-での6週間の訓練後、自分達の村の地雷除去に従事させます。この方法の特長は、村民を雇用する事により現金収入の機会を与えること、特に女性を採用することにより女性の地位向上が図れます。そして、自分達の村は自分達で活性化するという意識を持たせることにより、自立心を向上させること等です。

同じく対人地雷Type69
第四段階の農地開発と生活改善においては、農地開発により村の生活水準を向上させること、そして飲料水の供給、母子保健教育の実施、学校施設の改善により生活基盤の改善を図ることを目指しています。
JMAS(日本地雷処理を支援する会)
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この記事についてつぶやくカンボジアでの地雷処理について①
カンボジアの西北部タイ国境に近いバッタンバン州で、2006年6月から日本地雷処理を支援する会(JMAS:Japan Mine Action Service)は、「住民参加型地雷処理事業」を開始しました。

6月1日、カンボジア地雷処理対策センタ-(CMAC)との間で2006年度協同事業に関する合意書の締結式がCMAC本部で行われた。この日をもつてJMAS念願の地雷処理活動がスタ-トした。 署名するJMAS山田現地代表(当時)(左)とCMACラタナ副長官(右)

地雷処理要員の採用試験に集まった村人たち。79名の採用人員に対し174名が応募した。
ヴェトナム戦争とその後の20年間におよぶ内戦の結果、カンボジアは全土にわたり地雷/不発弾によって汚染されました。特に、農村部はいまだにその50~60%が地雷/不発弾の汚染地域内に位置し、村民の多くはその脅威下での生活を余儀なくされています。地雷/不発弾による被害の、実に99%が農村部において発生をしています。
又、その存在は村民に危害をもたらすだけではなく農村部の開発を阻害する要因にもなっています。
例えば、土地の活用(開発)を限定的なものにしているため村民の所得が低く、結果的に子供達の教育や村民の保健衛生等の生活環境に悪影響を与えています。
地雷に苦しめられ貧困にあえぐ村を再生し活性化するためには、先ず阻害要因である地雷を除去し、土地の有効活用を図り、現金収入の道を作って貧困を解消し、そして村民の生活意識を改善することが必要です。

真剣な表情で試験に取り組む応募者
今までのカンボジアにおける地雷除去は、日本をはじめとする各国の支援を受けてCMAC(カンボジア地雷処理センタ-)と国際NGOであるMAG(Mine Advisory Grope)やHallo Trustの地雷処理チ-ムが担任しておりました。
従来型の地雷処理は大型器材の使用と多数の要員を運用することにより短期間に広範囲の土地をクリア-できるという利点を有していますが、その一方で多大の費用を必要とし、また地雷除去後の土地が利権問題により必ずしも有効活用されていない等の問題点も指摘されています。
これらの問題点を改善して地雷除去活動を農村部の再開発に直結させ、最も貧しいと言われている農村部の人々の自立を助成するための活動をJMASは提案しました。
この活動は、地雷除去活動と地雷除去後の土地活用指導や農村部の生活改善指導等をリンクさせ、村民自らが参加する「村民参加型農村再生」と称する総合的なプロジェクトです。

地雷原へ向かう一本道。道を外れると地雷を踏む危険が待ち受ける。
このプロジェクトは地雷除去を担当するJMAS、農村開発や農村の衛生環境及び教育環境の改善を担当するNGOが協力して推進していきます。
これまでカンボジアにおけるNGOはそれぞれ独自の方法で活動してきましたが、本プロジェクトではいくつかのNGOがそれぞれの得意分野を持ち寄って一つの目的を達成しようとするもので、今後のNGO活動の一つの試金石となることでしょう。
(次回へ続く)
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この記事についてつぶやく『心の豊かさ』をデマイナーに教わる
日本から送られた自転車で
通勤するデマイナー
夜明けと共に自転車に乗って地雷原へ向かう若者達の集団がある。住民参加型地雷処理活動に参加している99名の住民の1日の始まりだ。18才から20才代の若者が大半。平均年令は23才。女性が60%を超える。
デマイナー(地雷処理員)は椰子の葉で造られた粗末な自宅を出て、朝6時過ぎには器材倉庫に集まり、地雷探知機、ツールボックス、プロテクター、バイザーを受取って地雷原に向かう。この前までは総重量14Kgにもなる器材一式を担いで歩いていた。
笑顔で、持ち寄った弁当を囲み
昼食を摂る女性デマイナーたち
通勤に片道7~8kmも歩いていた者もいる。「何とかしなければ」と思い日本の皆様に実情をお話ししたところ、放置自転車などを整備し100台の自転車が日本から贈られて来た。今ではデマイナー全員が自転車で通勤できるようになった。
7時過ぎに地雷原に到着したデマイナーたちは、まず持参してきた弁当を広げ朝食を摂る。主食はご飯。僅かなおかずはみんなで分けあって食べる。カンボジアの食事スタイルだ。少しのおかずを中央に置き、ご飯を腹いっぱい食べながらおかずを少しずつとって食べる。カンボジアの誰かが言った。「奪い合えば足りませんが、分けあえば余りますよ」と。食事は10分もあれば終わる。
慎重にブッシュを除去します
直ぐに地雷探知の作業準備。ブルーシートで日除けをつくり、プロテクターとバイザー付ヘルメットを身に着ける。作業要領は1.5m幅の地域を二名のデマイナーが協力して地中に埋設された地雷の探知をする。
最初のデマイナーはまず前方に生えたブッシュなどを奥行き40cmにわたり除去して地雷探知機を操作しやすくする。この作業も地雷に触れないように慎重に行われる。次に地雷探知機を持ったデマイナーと交代して金属反応の有無を確認する。金属反応があれば地雷探知棒や小さなショベルなど数種類のツールを駆使して、その反応物の解明をする。地雷が発見されればセクションリーダーに報告し、そこに地雷標識を設置する。金属反応がない場合は最初のデマイナーと交代してさらに前方のブッシュの除去をする。幅1.5m、奥行き40cm範囲のこの作業を繰り返す。全般の統制はプラトゥーンコマンダー(小隊長)が行う。
金属反応があったポイントを
探知棒で探知
技術的なアドバイスはCMAC(カンボジア地雷対策センター)からチームに加わっているこの道10年以上のスーパーバイザーと呼ばれる専門家が行う。その他に怪我人が出た場合に応急処置をする衛生隊員が1名配置されている。
11時半午前中の作業を終え昼食になる。朝食で残して置いた弁当を再び広げ、みんなで輪になって食べる。持参してきた水はもう底をついている。近くの水溜りの水を汲んで飲み腹を壊した者もいた。溜まり水は沸かしてから飲ますことにした。
午後の作業は12時半に始まる。灼熱の太陽の下で危険と隣りあわせの過酷な作業は続く。この日発見された地雷などは作業終了前に爆破処理する。
デマイナーと一緒に昼食を摂る
筆者(高山良二)
3時半に1日の作業が終わる。デマイナーたちは再び自転車に乗って器材倉庫に立寄って器材を格納してそれぞれの家に帰って行く。毎日淡々とこの作業が繰り返される。あるTV局の取材で「あなたはどうしてデマイナーになったのですか」との質問にデマイナーが答えた「家族の生活のためです」と。
しかし、最貧困といわれる彼女たちはいつも笑顔を絶やさない。彼女たちに私はいつも『心の豊かさ』を感じる。お金や物に恵まれた日本・・・『心の豊かさ』を失わないでほしい。
― カンボジア タイ国境に接する地雷原の村にて 地雷処理専門家 高山良二 ―
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