この記事についてつぶやく仏様紳士録ー古寺巡礼ガイドブックー(3)
第3章 なぜ沢山の仏様がいるの?
小乗仏教では、前述したように、仏伝にある程度精通した阿羅漢が学んだり修行したりするので、回りまわった方便(ほうべん)(たとえ話)などを使う必要がありません。したがって、法を説くご本尊はお釈迦様ただ一人です。
ところが大乗仏教では、在家の衆生にもお釈迦様の説く仏法をよく理解してもらえるよう、いろんな仏様に登場していただいたのです。お釈迦様のことを現身仏(げんしんぶつ)といい、その他の説法の場面、場面で登場願った方々を法身仏(ほっしんぶつ)といいます。
これには如来や菩薩だけではなく、古代印度で崇拝(すうはい)された神々(ヒンドゥ教やバラモン教の神々)までも「天部(てんぶ)」として編入されました。
さらに弘法大師が真言密教を集大成し、仏様の再編を行うにおよんで、非常な大所帯になったものです。
分かり易く現代の大学に例えて説明しますと、大乗には八万四千の法門があるといいますから入学試験などはなく、いつでも、どこからでも入学できます。もちろん仏教大学ですから、頑張って最後に到達しようとするのは、お釈迦様の説く悟りの境地なのですが、この大学の特徴はなんと言っても、驚くほど沢山の教授(阿弥陀如来、薬師如来などの如来)と、さらに多くの助教授、講師(菩薩など)が待ち受けていることです。
学風も極めて大らかで、これらの先達(せんだつ)のゼミのうち、どれでも好きなものを自由に選ぶことが出来るのです。それでも正覚(しょうがく)に至って無事卒業するのは至難の業ですが・・・。
ちなみに、この大学に入学すると(つまり出家して法門をくぐると)戒名(かいみょう)が授けられます。戒名は死者につけるための名前ではありません(死ぬことを成仏(じょうぶつ)すると言いますから強(あなが)ちまちがいではありませんが)。何万、何十万円もする院号(いんごう)を買っても、亡くなった先祖が喜ぶ訳でなし、残った者の虚栄を満たし、はたまた生臭坊主(なまぐさぼうず)の酒手(さかて)を増やすだけなのです。
今では仏教というとすぐに、抹香(まっこう)くさいお葬式をイメージする人が多いようですが、もともとお寺や僧侶は庶民の葬式の世話などしてはいませんでした。末法(まっぽう)の時代(平安末期)、打ち続く兵乱や疫病(えきびょう)のために、毎日のように出る多勢の死者が加茂川に打ち捨てられ、時には流れが滞るほどでしたが、この頃起こった浄土宗、浄土真宗、時宗(じしゅう)などの念仏聖(ねんぶつひじり)が、これら夥(おびただ)しい無縁(むえん)仏に回向(えこう)するなどしたのが契機となったのだと思います。
そもそも仏の教えは、もっぱら死後の世界を説くものではなく、現世(げんせ)を有意義に生き抜くための大智(だいち)を説いているのです。(以下、次回に続く)
松戸:高見航毅
カテゴリー:仏様紳士録(全13回完結) /
この記事へのコメント(0)
/
この記事につぶやく
この記事についてつぶやく仏様紳士録-古寺巡礼ガイドブック-(2)
第二章 仏教ってどんな教え?
以前、私は尊敬する天台宗のお寺の住職に「神とは、仏とは?」と命題を与えられ、冷や汗一斗の挙句(あげく)に、「神は仏が日本人教化のために姿を変えて示現したもの」と神仏混淆(しんぶつこんこう)の本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)を引用して答えたところ、「そうではなくて、もっと現実的に言うと?」とさらに問い詰められて窮(きゅう)したことがあります。
住職の回答はこうでした。「人智では抗(あらが)いようのない、天然・自然の摂理(せつり)やパワーが神であって、思い上がって神の思し召しに違うことをすると、神罰を蒙(こうむ)って災いを受けるから、日常の言動を慎みなさいというのが神教。そうした苦しみに満ちた現世で、平穏な心を保っていく道を教え導くのが仏で、したがって神罰に当たることがあっても、仏罰が当たることはないのです」…と。
言われてみるとなるほどそうで、キリスト教やイスラム教などの神教は、天主あるいはアラーを絶対神として崇(あが)め慎(つつし)み、また儒教は孔子が西周(せいしゅう)の周公旦(たん)(周の初代天子武王の弟、武王の死後、幼帝を補佐して善政を布(し)いたという)の治世を理想として、世の為政者(いせいしゃ)のあるべき姿を説いた教えで、一口に宗教といっても、その説くところは千差万別なのです。
さて、それでは仏の教え、すなわち釈尊(しゃくそん)の教えはどういう内容なのでしょう。
釈尊は、この世は絶えず変化して一定不変なものはない(諸行無常(しょぎょうむじょう))。また世間のことで自分の思うままになることはほとんどない(一切皆空(いっさいかいくう))。そんな中で我執(がしゅう)を強くすると、迷い苦しんで煩悩(ぼんのう)の虜(とりこ)になり、短い貴重な人生を無為(むい)に過ごしてしまう(諸法無我(しょほうむが))。
だから、どうにもならない些事(さじ)に拘泥(こうでい)して沈滞することなく、また現状が何時までも続くなどと油断したり、また諦(あきら)めたりせずに、優れた智慧(ちえ)と見識を身に着けて、何事にも今できる最善の努力を傾注しなさいと説いているのです。
そこで煩悩(迷い悩むこと)を解脱する方法として、四聖諦(ししょうたい)(四つの聖なる真理)を説かれました。
四聖諦の一は「苦諦(くたい)」で、煩悩の原因を言います。生・老・病・死の四苦、つまり万事思うままにならない苦渋(くじゅう)に満ちた現世で生きる苦しみ、老いる苦しみ、病に罹(かか)る苦しみ、死の恐怖や苦しみが煩悩の根本原因だと言うのです。またさらに、怨憎会苦(おんぞうえく)(嫌いな人とも一緒にやっていく苦しみ)、愛別離苦(あいべつりく)(愛する人と別れる苦しみ)、求不得苦(ぐふとくく)(欲しいものが得られない苦しみ)、五陰盛苦(ごおんじょうく)(執着心から起こる苦しみ)の四つがあり、これらを総称して四苦八苦(しくはっく)と言いますが、現代では少し違った意味で使われています。
次に「集諦(じったい)」は、これらの「苦」は飽くなき欲望・執着の心から生じてくると看破(かんぱ)しています。
次の「滅諦(めったい)」では、煩悩の闇(やみ)(無明(むみょう))を悟りの境地(明(みょう))に転ずるためには、理論よりも実践的な修行が必要であると説いています。
「道諦(どうたい)」はその方法を説くもので、これが八聖道(はっしょうどう)(正しい見方、決意、言葉、生活、努力、思念(しねん)、瞑想(めいそう))にほかなりません。
つまり、現代ほうぼうの企業で行われている問題解決手法(TQC)に準(なぞら)えると、苦諦=現状把握、集諦=原因究明、滅諦=目標設定、道諦=方策展開となる訳で、実に科学的な理論と言わねばなりません。
この教えに従って、戒めを守り(戒(かい))、精神集中を図って煩悩を祓(はら)い(定学(じょうがく))、人生における真実を見通す努力をする(慧学(えがく))修行に、各々が(利己的に)一心不乱に取り組み、仏陀の悟りに近づこうとする(こういう人達を阿羅漢(あらかん)あるいは羅漢という)のが小乗(しょうじょう)仏教で、東南アジアを中心に広まったため、南伝(なんでん)仏教とも言います。
南伝とは別に北伝仏教ともいって、中国から韓国を経て日本に伝わったのが大乗(だいじょう)仏教です。
大乗では、なにも皆が皆厳しい修行をしなくても、またでき得ることではないので(「女人禁制(にょにんきんせい)」も、もともとは女性が男性に混じって、森や山の中で瞑想などの修行をするのは危険なうえ、風紀紊乱(びんらん)をきたしたりするという理由に起因しており、「女性は不浄」というのは間違いであることは言うを待ちません。「仏を産んだ女人こそ菩薩」という言葉もあるのです)、出家した僧侶(そうりょ)が専(もっぱ)ら修行をし、それによって得られた果報(かほう)を一般の衆生(しゅじょう)にもたらすという考え方です。
衆生は修行をするかわりに、精舎(しょうじゃ)(お寺)を寄進したり、仏を祀ったり(仏)、また納経や写経、読経(どきょう)をしたり(法)、教え導いてくれる僧侶にお布施(ふせ)をする(僧)などによって、功徳(くどく)を得ることができるというのです。(以下次回に続く)
松戸:高見航毅
カテゴリー:仏様紳士録(全13回完結) /
この記事へのコメント(0)
/
この記事につぶやく
この記事についてつぶやく仏様紳士録 -古寺巡礼ガイドブック-(1)
-古寺巡礼ガイドブック-
高見 航毅
-目次-第一章 お釈迦様ってどんな方?
第二章 仏教ってどんな教え?
第三章 なぜ沢山の仏様がいるの?
第四章 仏様はいつ頃作られたの?
第五章 この仏様はどんな方?
はじめにふと立ち寄ったお堂でお会いした威厳に満ちた方や、路傍に優しく微笑んでいる方はいったいどなたなのでしょう。それが判れば、お寺廻りも野仏散策もずっと楽しいのに…、と思ったことはありませんか?
この案内書をポケットに忍ばせて訪ねれば、仏様参りが十倍楽しくなります!
第一章ではお釈迦様の数奇な生涯を紹介し、第二、三章では仏教がたんにお葬式を仕切るだけの教えではなく、現世を生き抜く大智を説いているということを理解していただこうと、掻い摘んで触れました。そして時代ごとに変遷した造像の特徴や素材の違いなどを第四章に、最後の第五章では日本のお寺に馴染みの深い仏様の来歴を紹介しています。
どうぞ仏像拝観の友としてご活用ください。(拙)
第一章 お釈迦様ってどんな方?
お釈迦様は紀元前6世紀の半ばに、ネパール南部の迦毘羅衛(カビラヴァストゥ)という国の皇太子として誕生しました。当時この地方はマガタ国とコーサラ国の二大国を筆頭に、いくつかの国が割拠(かっきょ)していましたが、中でも迦毘羅衛は小さな国で、日本の戦国時代でいえば尾張(おわり)一国くらいの大きさでした。後になってコーサラ国に併呑(へいどん)され、そのコーサラ国もまたマガタ国によって統一されてしまいますが、マガタ国の阿闍世(アショーカ)王深く仏教に帰依(きえ)し、王舎城(おうしゃじょう)において経律の結集(仏説の整理・統一)を主催しました。
仏伝では、お父様の浄飯王(シュッドーダナ)は臨月となった摩耶(マーヤ)夫人を藍毘尼(ルンビーニ)御苑に移し、御子の誕生を心待ちにしていましたが、ある春の日(4月8日)摩耶夫人が侍女を伴って苑内を散策中、無憂樹(むゆうじゅ)の赤い花を手折ろうと手を伸ばしたときに、腋(わき)の下からお釈迦様が誕生したということになっています。
お釈迦様は生まれるとすぐに右手で天を指し、左手で地を指して四方に7歩ずつ歩み、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)=世界中で私以上に深い智慧(ちえ)と戒律(かいりつ)とを持し、また禅定(ぜんじょう)の実践を行い、完成された域に到達している人はいない」と言ったということになっており、この姿が誕生仏として伝わり、4月8日の潅仏会(かんぶつえ)(花祭り、降誕会(こうたんえ))に甘茶をかける習わしになっているのです。
お釈迦様の本名はゴーダマ・シッダールタ(悉多(しった)太子)といい、釈迦牟尼(むに)というのは「釈迦族の中の真理を悟った人、慈悲深い人」という意味で、固有名詞ではありません。
摩耶夫人は産後の肥立ちが悪く、とうとう7日目に他界してしまいますが、小国とは言え皇太子のことですから、多勢の侍臣(じしん)や侍女が、昼夜の別なく護衛や身の回りの世話をし、また欲しいもので手に入らないものはなく、何一つ不自由のない少年期を送りました。
義母(摩耶夫人の妹)のマハー・プラジャ・パティもなかなか良くできた女性で、お釈迦様を深い愛情で包み慈しんでくれました。
かくして成人したお釈迦様は、美しい耶輸陀羅(ヤショーダラー)姫を娶(めと)り、間もなく二人の愛が結実して長男の羅羅(らごら)(後に十大弟子の一人)が誕生しました。
しかし、お釈迦様を取り巻く情勢は決して安穏(あんのん)な慶事(けいじ)ばかりではなく、絶えず四囲の大国の侵略の恐怖にさらされ、また厳しい四姓(カースト)制度の中での婆羅門(ばらもん)の干渉など憂悶(ゆうもん)の種が多く、迦毘羅衛の命運はまさに累卵(るいらん)の危(あや)うきにありました。
またたとえ物質的には満たされていても、お腹を痛めて産んでくれた実母の温もりを知らないという、生誕以来背負ってきた宿世(すくせ)のハンデを癒(いや)す手立てもないなど、陰鬱(いんうつ)な毎日を余儀(よぎ)なくされていたのでした。
そして遂にある満月の夜、愛馬カンタカに鞭(むち)打って、寝静まった迦毘羅衛を後にしたのです。
求める真理はただ一つ、「どのようにしたら煩悩(ぼんのう)を解脱(げだつ)し、悟りの境地に到達できるか」でした。
お釈迦様は有徳(うとく)の師を求めてほうぼう歩き回り、阿邏羅(あらら)仙人ほかの大徳(だいとこ)に師事して難行・苦行の毎日を送りました。しかし6年の歳月が経っても、いっかな示寂(じじゃく)の境地に到達できません。
難行・苦行のやり方に疑問が生じ、修業の転換を思い立って山を降りる途路、尼連禅河(にれんぜんが)の河畔(ほとり)に至って、ついに根尽きて気絶してしまったのです。修業中のお姿を「苦行の釈迦」といって、肋骨(あばら)が浮き出て痩(や)せ衰えたお像に表したものがあります。また「出山(しゅつざん)の釈迦」という、山を降りる途中の螺髪(らはつ)が伸び放題になった姿のお像もあります。
どのくらい気を失っていたのでしょう。優しく揺り動かされて我に返ると、若い村の娘が微笑(ほほえ)みながら、しきりにミルクの雑炊(ぞうすい)を食べるように勧めるのでした。この娘の名は「スジャータ」といい、今では珈琲(コーヒー)に入れるミルクの商品名になっています。
雑炊をいただいて人心地がついたお釈迦様は、そこからさほど遠くない仏陀迦耶(ぶっだがや)の山紫水明(さんしすいめい)の地に至り、菩提樹(ぼだいじゅ)の下に禅定の獅子宝座(ししほうざ)を作って観想に入りました。
そして遂に「一切衆生(いっさいしゅじょう)、悉有仏性(しつゆうぶっしょう)=すべての人は生まれながらに覚者になる素因が備わっている」という大真理を感得したのです。
ときにお釈迦様30歳の師走(しわす)のことでした。
その後、鹿野苑(ろくやおん)における初転法輪(しょてんぽうりん)(初説法)を皮切りに、50年におよぶ説法行脚(あんぎゃ)の旅に出たのです。
拘尸那掲羅(くしながら)城外、跋提河畔(ばつだいかはん)。その日は朝から夕べのキノコが中(あた)ってひどい下痢が止まりませんでした。入滅の時期を悟ったお釈迦様は、やがて跋提河に入って沐浴(もくよく)した後、沙羅双樹(さらそうじゅ)の下に北を枕にして静かに横臥(おうが)して、寂然(じゃくぜん)として大涅槃(ねはん)に入りました。
ここに宝暦80歳の生涯を終えたのです。(以下、次回に続く)
松戸:高見航毅
カテゴリー:仏様紳士録(全13回完結) /
この記事へのコメント(0)
/
この記事につぶやく




