この記事についてつぶやく仏様紳士録ー古寺巡礼ガイドブックー(13)最終回
天部ほか
天部というのは尊名の末尾に「天」とつく方々で、前述のように、仏法の説明のため登場いただいた、古代印度のヒンドゥー教やバラモン教の神々です。この項では、こうした天部のほか仏教史上著名な方々をご紹介します。
1 梵天(ぼんてん)
天上界の王様です。帝釈天(たいしゃくてん)や四天王はみな梵天の家来です。もっとも印度教においてはブラーフマンといって天地創造主と崇(あが)められているのです。
帝釈天と対で作られ、本尊の左右に近侍しています。四面四臂三眼で蓮華・鉾・浄瓶(じょうへい)等を持つことになっていますが、本邦の作例は、道服(どうふく)のような服装をした静かな面立(おもだ)ちの像例になっています。
2 帝釈天(たいしゃくてん)
天上界の大将軍で須弥山(しゅみせん)の頂(いただき)、利天(とうりてん)の喜見城(きけんじょう)にいて、阿修羅(あしゅら)との戦いを専(もっぱ)らにしています道服のような服装に宝冠・瓔珞を着け、金剛杆(こんごうかん)(梃子(てこ))を持っています。
3 四天王(してんのう)
須弥山の中腹において四方(四天)を守護しています。
・持国天(じこくてん) 青い肌 東方守護 宝剣を持つ
・広目天(こうもくてん) 白い肌 西方守護 眼が大きく筆とノートを持つ
・増長天(ぞうちょうてん)赤い肌 南方守護 矛を持つ
・多聞天(たもんてん) 黒い肌 北方守護 舎利塔を持つ
独尊では毘沙門天というそれぞれ足下に天邪鬼(あまのじゃく)を踏みつけています。肌の色は仏教が中国に伝わってから、中国の四神思想の影響を受けたのではないかと思われます。
※四神=東方――青竜(せいりゅう)(青春)
西方――白虎(びゃっこ)(白秋)
南方――朱雀(すざく)(朱夏(しゅか))
北方――玄武(げんぶ)(玄冬)※ 大相撲の房の色もこれに由来しています。
広目天 東大寺戒壇院 天平時代 国宝
増長天 東大寺戒壇院 天平時代 国宝
4 吉祥天(きっしょうてん)(功徳天(くどくてん))
衆生に福徳を施すことを本懐(ほんかい)とされている美貌(びぼう)の天女です。鬼子母神(きしもじん)の娘で毘沙門天の妹ということになっています。生まれ在所のチベットでは、人間を鞍(くら)代わりにして馬に跨り、三眼で怒髪天を衝くという男の神になっていますが、やはり最勝園(さいしょうえん)という御殿の奥で、宝冠に透け透けの天衣(てんね)を纏い、左手に宝珠、右手は施無畏印(せむいいん)を結ぶ日本の吉祥天が好もしいのは言うを待ちません。
吉祥天 浄瑠璃寺 鎌倉時代 国宝
5 弁財天(べんざいてん)(大弁功徳天(だいべんくどくてん))
仏様仲間では、吉祥天と並び称される稀代(きだい)の美女として、大変な人気があります。 そのためか、表記のほかに大聖弁才天神、または弁才美音天妙音天(べんざいびおんてんみょうおんてん)、あるいは妙音楽天(みょうおんがくてん)など、多くの呼び名があります。 福徳、弁舌(べんぜつ)、記憶、音楽などに効験が著しいとされています。
梵天の妃で、宝冠を被り、色白の肌に青色の、これまた透け透けの天衣を着けて、しどけない姿で琵琶(びわ)を爪弾(つまび)く姿は、やはりチベットの手が8本もある女将軍よりはるかに魅力的です。
弁財天 鶴岡八幡宮 鎌倉時代 重文
6 大黒天(だいこくてん)
むかし昔、この方は大摩尼殊王如来(だいまにしゅおうにょらい)という立派な如来さんでしたが、あるとき釈尊に向かって「私の名を呼んだり、私の姿を像にして崇敬(すうけい)してくれる衆生に福徳を授けたい」と誓って大黒天神となり、娑婆(しゃば)世界(地獄のことを婆娑(ばしゃ)といい、その反対語)に降り立ちました。
近世になって、出雲の大国主命(おおくにのぬしのみこと)と混同されたりしましたが、れっきとした印度生まれの仏様です。名前や風貌(ふうぼう)が似ているほかに、七福神でコンビを組んでいる恵比寿様(えびすさま)が、出雲神話では大国様との付き合いが深い所為(せい)でしょう。お姿は大家の隠居然(いんきょぜん)とした肥満、福耳の円福相(えんぷくそう)に大黒頭巾(ずきん)を被り、右手に打出(うちで)の小槌(こづち)、左肩に背負うた大きな金袋を持っています。別に弘法大師が仕立てた六大黒(ろくだいこく)というのがありますが割愛します。
7 聖天(しょうてん)(大聖歓喜天(たいしょうかんきてん))
夫婦2体の像が抱き合った姿をしています。男象は大自在天(だいじざいてん)の長男で評判の暴れ者、女象は観音菩薩の化身で、歓心を以って男象の乱暴を鎮める意を表しています。 あぶらげや歓喜団子(かんきだんご)を供えて拝むと、善事が成就し災禍を滅却すると、商人や芸人の間に人気があります。
また江戸時代には真言宗の一派の立川流(たちかわりゅう)の本尊に担ぎ出され、性交の絶頂時に悟りが開けるなどと、怪しくも魅惑的(みわくてき)な教えの広告塔になりましたが、やがて幕府の布教禁止令が出され終息しました。
歓喜天 京都等持院 江戸時代 (?)
8 大自在天(だいじざいてん)(摩醯首羅天(まけいしゅらてん))
もとを正せば、バラモン教の大本尊で万物の創造主とされるシバ神です。仏教ではようやく第六天の統治と救護治療を司(つかさど)る神として列せられ、不遇を託(かこ)っています。印度・中国・日本とでお姿に大差があり、本邦の場合は八臂三眼、白牛に跨り、それぞれの手に三戟叉(さんげきさ)、法輪、棒、幡(はた)、斧、法螺貝(ほらがい)、刀などを持っています。
9 摩利支天(まりしてん)
帝釈天の眷属とされ、日天子(にってんし)(太陽)の先駆けとして天下を巡行しているといいます。それもそのはずで陽炎(かげろう)を神格化した神です。護国、護民の軍神あるいは農業の神として敬(うやま)われています。またどう言う訳か相撲の力士の間で信仰されています。
10 韋駄天(いだてん)
南方天王八将の一臣で、足の速さでは、並み居る仏様の中でも右に出る方はいません。身に甲冑をよろい、両手で宝剣を捧(ささ)げ抱き、お寺の堂塔伽藍(どうとうがらん) の守護を任としています。
11水天(すいてん)
諸竜王中の王で、大海中に住んで浅緑の肌をし、右手に刀、左手に龍索あるいは珠を載せた蓮華を持って、大亀に乗っています。 水天妃(すいてんひ)(乙姫様(おとひめさま)?)を妻に持つほか、五龍・四天女が常に侍しています。
竜王ですから、良く敬えば適度な雨を恵み田畑を潤しますが、ひとたび機嫌を損なうと酷い旱魃(かんばつ)に見舞われます。
なお日本橋の水天宮は壇ノ浦(だんのうら)に沈んだ安徳天皇(あんとくてんのう)と、その母君の建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)(平清盛の娘)をお祀りしています。
12茶吉尼天(だきにてん)
三河の豊川稲荷(とよかわいなり)にお祀りしているお稲荷さんのことで、本体は細い管の中に潜むという想像上の小さな狐(管狐(くだきつね))です。良く敬い意を迎えれば福徳を恵んでくれますが、機嫌を損じると、もともと人黄(じんおう)を食う女夜叉(めやしゃ)のことですから、大いに崇られ大変なことになります。
普段は剣と宝珠を持って白狐に跨っています。
ちなみに普通のお稲荷さん、すなわち正一位稲荷大明神は、記紀に登場する御食津神(みけつかみ)のことで、御狐(みげつ)と混同されてお狐さんと思っている人がいますが、狐はお稲荷さんのお使いですから、あぶらげを供えても、せいぜい取り次ぎに便宜(べんぎ)を図ってくれる程度です。
13鬼子母神(きしもじん)
印度生まれの訶梨帝菩薩(かりていぼさつ)を、日蓮が意訳して鬼子母神と名付けました。 マガダ国で生まれたアリーチという女性は、近郷近在に知られた美人、千人の子宝にも恵まれて幸せな生活を送っていましたが、実は彼女の正体は、あろうことか他人の子を盗って食う鬼女でした。それを見咎(みとが)めた釈尊が、彼女が最も可愛がっている末っ子の愛奴(あいど)をこっそり隠したところ、彼女は狂ったように泣き叫び、ほうぼうを捜し求めました。そこで釈尊が「千人のうち一人がいなくなっただけでそんなに嘆くのに、二~三人しかいない子をお前に食べられた母親の悲しみを思い知れ」という諭(さと)しに改心して、子供や母親を守る善神となりました。
なお彼女の千人の子達も、のちに成人して善神となりました。目出度し目出度し!
14閻魔大王(えんまだいおう)
皆さん良くご存知の地獄の裁判長です。ほかの九人の判事(合わせて十王という)と協力して(女性の亡者(もうじゃ)は別に妹のヤーミが担当するという噂もある)、亡者の生前の悪行を浄玻璃(じょうはり)の鏡に映し出し、有無を言わせぬ峻厳(しゅんげん)な判決を下して、針の山や釜茹(かまゆ)で地獄へ追い立てる怖~い大王様です。相貌はいやがうえにも厳しく、裁判官の冠を被って笏(しゃく)を持ち、目を剥いて座っています。初江王 鎌倉円応寺 鎌倉時代 重文
15乾達婆(けんだつば)と緊那羅(きんなら)ならびに迦陵頻伽(かりょうびんが) 三人とも仏教世界の歌と音楽の名手です。
乾達婆と緊那羅とは夫婦の鳥で、須弥山の北方金剛窟(こんごうくつ)に住まいしています。
旦那さんの乾達婆は帝釈天専属の楽士で、琵琶を弾くことが大の得意です。
夫人のほうは頭に一角があって気の強そうな感じですが、美妙の声の持ち主です。
また迦陵頻伽は妙声鳥(みょうせいちょう)と訳される、これもまた素晴らしい美声の持ち主で、生まれるまえに卵の殻の中からさえも妙音を発したといいます。
16迦褸羅(かるら)
印度の神話や仏教文学に良く登場する鳥類の王様で、金翅鳥(こんじちょう)あるいは妙翅鳥(めいしちょう)とも呼ばれます。
普段は須弥山の北にある大鉄樹に、兄弟三羽とともに羽を休めていますが、驚くべきはその大きさです。金色に輝く羽を広げると、端から端までで三百三十六万万里もあるというのです。古代中国の一里は約400mですから、135kmという途方もない大きさです。
こんな怪物が四羽も、大火焔を吐きながら龍を食って飛び回っているというのに、世界中の誰も見たことがなく、NASAのレーダにも映らないのです(?)。
迦褸羅 蓮華王院 鎌倉時代 国宝
17仁王(におう)
この兄弟は印度の某国の息子と説く仏伝もありますが、「阿吽(あうん)」の二字を人格にした方々というほうが正鵠(せいこく)を得ています。つまり左手の顔が赤い、口を開いたほうが、物事の始まりを表す「阿形」で密迹金剛(みっしゃくこんごう)(力士)といい、右手の青い顔で口をつむったほうが、物事の終わりを表す「吽形」の那羅延金剛(ならえんこんごう)(力士)です。お寺の門番として良く知られていますが、神社の狛犬(こまいぬ)や随神(ずいじん)も彼らに倣って、阿吽の呼吸で頑張っています。
仁王(阿形) 東大寺南大門 鎌倉時代 国宝
18阿修羅王(あしゅらおう)
婆稚(ばち)阿修羅王、羅騫駄王(きゃらけんだおう)、毘摩質多羅王(びましったらおう)、羅羅王(らごらおう)の四王の総称です。
生前から争いを好み乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)が専らだったため、死後夜叉に変じてしまいました。 日に三度の激しい戦(いくさ)を繰り返していましたが、ついに帝釈天の軍に敗れ、蓮の花の中に隠れていたところを捕らえられました。
後に釈尊の説法を聞いて改心し、護法の善神になりましたが、生まれつき醜怪(しゅうかい)なうえに幾つもの戟剣(げきけん)の傷を受けて、物凄い顔つきになってしまいました。原語のアスラは無端正(むたんせい)の意です。
経典には、赤色忿怒の形相に甲冑を着て、右手に華棒(けぼう)を持ち、左手を腰にするとありますが、奈良興福寺の国宝阿修羅像は少年のような端正な顔で、仏像ファンに人気があります。
阿修羅王 興福寺 天平時代 国宝
19庚申様(こうしんさま)
帝釈天の家来の青面金剛(しょうめんこんごう)が本体で、猿田彦命(さるたひこのみこと)(天狗様)の化身という、青やら赤やらなんともややこしい仏様です。
この方は日頃は三戸虫(さんしちゅう)という寄生虫になって、私達のお腹の中に潜んでいるのですが、庚申(かのえさる)の晩にこっそりと抜け出し、帝釈天に宿主の悪行を告げ口するというイヤ~な方です。
そこで人々は庚申の夜になると酒肴(しゅこう)を持ち寄り、庚申様をやるまいと、夜を徹して庚申講(こう)を催して飲食をするのです。そのため庚申塔には青面金剛のほかに日月、三申(しん)(見ざる、言わざる、聞かざる)と、早く夜が明けるようにと鶏を表しているのです。 酒の肴にされた庚申様こそいい面(つら)の皮です。
庚申塔 長野県安曇野
20十二神将(じゅうにしんしょう)
薬師如来の眷属で、もともと如来の十二願に当てた善神ですが、のちに干支(えと)に当てられました。甲冑を着た忿怒像で、それぞれ次のものを持っています。
・毘迦羅(びから)大将 子(ね)神 三鈷を持つ
・招杜羅(しょうとら)大将 牛(うし)神 太刀を持つ
・真達羅(しんだら)大将 寅(とら)神 宝珠、宝棒を持つ
・摩虎羅(まごら)大将 卯(う)神 斧を持つ
・波夷羅(はいら)大将 辰(たつ)神 弓矢を持つ
・因陀羅(いんだら)大将 巳(み)神 鉾を持つ
・珊底羅(さんちら)大将 午(うま)神 法螺貝を持つ
・羅(あじら)大将 未(ひつじ)神 矢を持つ
・安底羅(あんちら)大将 申(さる)神 宝珠を持つ
・迷企羅(めいきら)大将 酉(とり)神 独鈷を持つ
・伐折羅(ばさら)大将 戌(いぬ)神 剣を持つ
・宮毘羅(くびら)大将 亥(い)神 太刀を持つ
※ 金毘羅(こんぴら)様
伐折羅大将 新薬師寺 天平時代 国宝
21十大弟子(じゅうだいでし)
お釈迦様のお弟子さんのベストテンで、いずれも小乗の阿羅漢(あらかん)(利己的な修行者)です。板画家の棟方志功(むなかたしこう)先生の出世作品「十大弟子」が有名です。
・舎利弗(しゃりほつ) 智慧第一 最年長(釈尊より年長)
・ 目連(もくけんれん)神通第一 餓鬼道に堕ちた母の供養が盂蘭盆会(うらぼんえ) の始まり
・大迦葉(だいかしょう)頭陀第一 赤貧の生活を通じた。釈尊の衣鉢(いはつ)を継いだ
・阿那律(あなりつ) 天眼第一 釈尊の従兄弟。修行のため失明したことにより直感力が冴えた。
・須菩提(しゅぼだい)解空第一 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)(世界最初の仏寺)を建てたスダッタ長者の子。「空」を最も良く理解した
・富楼那(ふるな)説法第一 カピラ国の国師の長男
・迦旃延(かせんえん)論議第一 釈尊は将来仏陀になるであろうと予言したアシタ仙人の子
・優波離(うばり)持律第一 床屋出身。王舎城における律蔵の制定会議をリード
・羅羅(らごら)密行第一 釈尊の実子
・阿難陀(あなんだ)多聞第一 反逆者提婆達多(だいばだった)と兄弟。女性の出家を認めさせた
目連 大報恩寺 鎌倉時代 重文
22賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)
(賓頭盧頗羅堕尊者(びんどうらはらだそんじゃ))
仏様紳士録の最後に紹介する方は、良くお堂の前に見かける、頭をテカテカに光らした尊者です。中印度の某王国の大臣の子として生まれましたが、仏教に深く帰依し、もともと医者の筋目であることから、病気の衆生を救うことを専らにしています。
賓頭盧さんの頭を撫でると万病が癒(い)えることから、撫仏(なでぼとけ)というなで親しまれています。
-終わり-松戸:高見航毅
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明王
明王は密教(みっきょう)(真言宗および天台宗=口では言い表せない実践の教義があるという意。その他の教えは顕教(けんぎょう)という)において如来が化身したものと説かれ、衆生の煩悩を打破するために忿怒の姿をしていて、奇怪な容貌は宛(さなが)らウルトラマンに登場する宇宙怪獣のようです。
1 不動明王(ふどうみょうおう)(大日大聖(だいにちだいしょう)不動明王)
大日如来の化身といわれ、五大明王の中央尊になっています。
青黒い忿怒の面相は、片方の眼は上を睨(にら)み、もう一方の眼は下を睨む、いわゆる不動の八方睨みをして、さらに2本の牙は上唇と下唇を互いに噛むという物凄いものです。
髪は一つに編んで肩に垂らし、右手には降魔折伏(ごうましゃくぶく)の利剣を、左手には極悪無道なものを緊縛(きんばく)する(不動の金縛り)羂策を持って、一切の煩悩を焼き尽くす大火焔(だいかえん)を背に岩上に立って(あるいは座して)います。
または不動様には八人の童子(八大童子)が眷属として付き従い、なかでも矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)は不動三尊を構成します。
不動明王 大覚寺 鎌倉時代 重文
2 降三世明王(ごうざんせみょうおう)
東方禅海浄土(ぜんかいじょうど)の教主である阿如来(あしゅくにょらい)(過去仏)の化身といわれ、五大明王のうち東方守護の一尊です。四面(あるいは三面)八臂(はっぴ)で、黒い面相に三眼という見るも恐ろしい姿で、うち一対の腕を胸前で交叉して小指を絡(から)ませ、その他の手には貧瞋癡(どんじんち)(貧(むさぼ)る・瞋(いか)る・癡(おろ)か)の三毒を断破する弓・矢・太刀・独鈷等の武器を持っています。
左足で思いっきり大自在欲王(だいじざいよくおう)を、そして右足でその妃(きさき)の鳥魔后(うまご)を軽く踏んで岩上に立っています。
降三世明王 大覚寺 鎌倉時代 重文
3 大威徳明王(だいいとくみょうおう)
阿弥陀如来の化身といわれ、五大名王のうち西方守護の一尊です。
三面六臂で一対の腕は胸前で握り合わせ、両方の人差し指を立てて、その先端をくっつける折伏の印を結び、その手には剣・鉾(ほこ)・法輪・杖などを持って大火焔裏に岩上に立っています。また文殊菩薩の化身という六面六臂六足で、水牛に跨った姿もあって、こちらは六面尊(ろくめんそん)あるいは六足明王(ろくそくみょうおう)とも呼ばれます。
大威徳明王(六足明王) 大分県真木大堂 藤原時代 重文
4 軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)
虚空蔵菩薩の化身で、五大明王のうち南方守護の一尊です。
大咲明王(だいしょうみょうおう)、甘露金剛(かんろこんごう)、吉里吉里明王(きりきりみょうおう)などと呼ばれることもあります。
一面八臂(まれには四面四臂)三眼で、一対の腕を胸前で交叉し、掌(てのひら)を両肩に当てる折伏の印を結んで踏み分け蓮華上に立っていますが、特筆すべきは何匹もの毒蛇が顔、耳、腕、足に絡み付いているという身の毛のよだつ姿をしています。
軍茶利明王 大覚寺 鎌倉時代 重文
4 金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)
印度の子沢山の王様の末の王子で、千人の兄が成道(じょうどう)して仏になった後、残った1人は兄達を悩ましてやろうと邪鬼(じゃき)になり、また1人が金剛夜叉明王となって北方守護の一尊になりました。
三面六臂五眼の異相で、弓矢・法輪などを持つほか、一対の腕で鈷(こ)を振り回し、踏み分け蓮華上に立っています。
また一切の煩悩を食い尽くすという意で金剛食(こんごうどんじき)とも呼ばれます。
金剛夜叉明王 大覚寺 鎌倉時代 重文
6 愛染明王(あいぜんみょうおう)
悪魔悪神の折伏に霊験(れいけん)があり、災害消除の善神です。また芸術の神としても人気があります。大慈悲心が骨髄(こつずい)を砕(くだ)き、血涙が体中の毛穴から噴出して、ためにその肌の色はあくまで赤く、赤蓮華上に座しています。三眼にして怒髪(どはつ)天を衝(つ)き五股鈎(ごここう)を飾った赤い獅子冠を戴き、六臂には弓箭(ゆみや)・宝鈴・蓮華・五鈷(ごこ)等を持っています。
愛染明王 西大寺 鎌倉時代 重文
7 倶利伽羅明王(くりからみょうおう)
剣(不動明王)に纏(まと)わりつく黒竜が本体で、不動明王の法力(ほうりき)を具現した仏様です。
倶利伽羅龍王像法によると、忿怒の相貌(そうぼう)で甲冑(かっちゅう)を着け、左手は羂策を持って腰にあてがい、右手は肘を曲げて上に向けて剣を執(と)り、頭上に竜王が蟠(わだかま)っているとされています。
(以下、次回に続く)松戸:高見航毅
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菩薩
菩薩とは、永遠に修行を怠(おこた)らない人の意で、私達衆生のブラザーとして、共に修行しながらサポートしてくれる方々です。つまり煩悩の此岸(しがん)から、浅瀬や流れのゆるやかな所を導いて苦海を乗り切り、共に如来の浄土すなわち悟りの彼岸(ひがん)を目指すのです。
まだまだ修行中ですので、如来のように虚飾を捨てきれず、宝冠や腕釧・瓔珞などを装っています。
一見して女性のような優しい顔貌(かおかたち)をした方が多いのですが、全員男ですから…残念!
1 観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)(観自在菩薩(かんじざいぼさつ))
観音様というと、菩薩の中で最も人気の高い方で、たとえ不信心の人でも知っています。阿弥陀ゼミの優等生で、「救世(ぐぜ)」を卒論のテーマにして、毎日忙しく東奔西走(とうほんせいそう)しています。
身ひとつではとても手が回らないので、六あるいは七、さらに三十三に分身して凌いでいます。阿弥陀三尊では本尊の左に侍しています。
・ 六(七)観音
① 聖観音(じょうかんのん) 右手に施無畏印を結び、左手に半開きの蓮華を持つ、観音様の基本のお姿をされています。餓鬼道(がきどう)に堕(お)ちた衆生の救済をします。
② 千手観音(せんじゅかんのん)十一面の顔があり、また千の掌(てのひら)にそれぞれ眼が付いているので、正しくは十一面千手千眼観世音菩薩という長い尊名です。
③ 馬頭観音(ばとうかんのん)頭頂に馬の頭を付け、駿馬のような大馬力を象徴しています。畜生道(ちくしょうどう)に堕ちた衆生の救済が役割です。
④ 十一面観音(じゅういちめんかんのん)千手観音と同じく、頭の周りに慈悲面3面、忿怒面3面、不笑不瞋面(ふしょうふしんめん)(無表情)3面および頭頂に過去正法明如来(かこしょうほうみょうにょらい)の仏面を立てており、ご自分の顔と合わせて十一面あります。修羅道(しゅらどう)(争い)の救済を心掛けています。
⑤ 准胝観音(じゅんていかんのん)三つの眼を持っています。准胝というのは「清浄」という意味で、人道の救済を行っています。
⑥ 如意輪観音(にょいりんかんのん)半跏の姿で六臂(ろっぴ)(腕が6本)です。うち1本は頬杖(ほおつえ)をついています。天道の能化(のうけ)を旨としています。
⑦ (不空羂策観音(ふくうけんさくかんのん))立ち姿で六臂です。うち一手に羂策(本来は狩猟の罠。苦界でもがく衆生を漏れなく救う道具)を持つことからこの尊名で呼ばれています。
・ 三十三面観音
楊柳観音(ようりゅうかんのん)
滝見観音(たきみかんのん)
白衣観音(びゃくえかんのん)他・・・
2 勢至菩薩(せいしぼさつ)
観音様と同じく阿弥陀ゼミの優等生です。大変な智慧者で、釈迦ゼミの文殊菩薩に比肩(ひけん)します。阿弥陀三尊の脇侍を勤め、本尊の右側に侍しています。
お姿は頭上に宝瓶(ほうへい)を戴(いただ)き、左手に蓮華を持っていますが、来迎(らいごう)のときには観音菩薩ともども合掌(がっしょう)をされています(京都三千院)
十一面観音 聖観音 天平時代 国宝
如意輪観音 室生寺 貞観時代 国宝
不空羂策観音 東大寺 天平時代 国宝
勢至菩薩 清涼寺 貞観時代 重文
3 地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
忍耐強くて、動かざること地の如く、また静慮親密(せいりょしんみつ)なること秘蔵の如くであることから、この尊名で呼ばれています。釈尊入滅後、弥勒が下生して世の中を救済し始める五十六億七千万年の後までは、この菩薩が衆生を導くことになっています。
また閻魔(えんま)大王の化身とも言われ、しばしば十王(閻魔庁の判事は10人)像と一緒に祀られます。像容はご存知のように簡素な比丘(びく)(僧)の姿で、田舎の辻には六体の地蔵が赤い前垂れをして、並んで立っているのを見かけることがあります。
・六地蔵
観音菩薩と同じく六道の化道(けどう)を旨としています。
① 金剛願(こんごうがん)地蔵 左手に閻魔帳 右手に成弁印(じょうべんいん) 地獄道済度(さいど)
② 金剛宝(こんごうほう)地蔵〃 宝珠 〃 甘露印 餓鬼道済度
③ 金剛悲(こんごうひ)地蔵 〃錫杖(しゃくじょう)〃引接引(いんじょういん) 畜生道済度
④ 金剛幢(こんごうどう)地蔵 〃金剛幢 〃 施無畏印 修羅道済度
⑤ 放光王(ほうこうおう)地蔵〃錫杖 〃真願印(しんがんいん) 人道済度
⑥ 預天賀(よてんが)地蔵〃如意珠 〃説法印 天道済度
4 虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)
大慈悲の智慧を無尽蔵に持っているという仏様です。また智慧のほかに福徳や美声が授かるという現世利益の面もあります。
像容は色白の肌に五智の宝冠をかぶり、左手に蓮華、右手に降魔(ごうま)の利剣(りけん)を持っています。
虚空蔵菩薩 神護寺 貞観時代 国宝
5 普賢菩薩(ふげんぼさつ)
この方は父が阿弥陀様、兄が文殊菩薩という仏界のサラブレッドの血筋で、阿弥陀仏の慈悲の体現者とされています。このように血筋的には阿弥陀様の脇侍を勤めるのが筋だと思いますが、多くの場合釈尊の脇侍を勤めています。阿弥陀如来も、現身仏釈迦の説く仏説上の法身仏ですから、差し支えはないのかもしれません。
お姿は、諸行を良く摂取(せっしゅ)する「軟耐(なんたい)」を意味する白象に乗るか、あるいは蓮華上に座して、手に経巻(きょうかん)を持っています。
6 文殊菩薩(もんじゅぼさつ)
「三人寄れば文殊の智慧」などと。古来「智慧の文殊」として知らぬ人はありません。
人間界の智慧の第一人者と謳(うた)われた維摩居士(ゆいまこじ)を病中に見舞って、互いに激しい問答を交わしたなどという、壮烈な逸話が残っています。
普賢菩薩と共に釈迦如来の脇侍を勤め、頂髪を五髻(ごけい)(もとどり)に結って、五智の宝冠を被り、右手に利剣、左手に経巻を持って獅子に跨っています。獅子は奮迅(ふんじん)して諸惑(しょわく)を断破(だんぱ)するの意です(ときに獅子の手綱を、仏像を最初に作った人と伝えられる優大王(うでんだいおう)が引いていることがあります)。ただし禅宗の僧堂では簡素な僧形をしています。
普賢菩薩 大倉文化財団 藤原時代 国宝
文殊菩薩 般若寺 鎌倉時代 重文
7 日光菩薩(にっこうぼさつ)・月光菩薩(がっこうぼさつ)
薬師三尊の脇侍として現されます。薬師如来の理知の体現者としての日光菩薩、慈悲の体現者としての月光菩薩です。それぞれ頭上に日輪と月輪をつけた尊像もありますが、多くは普通の菩薩の姿のままが多いようです。 (以下、次回に続く)
松戸:高見航毅
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如来
如来(仏、仏陀)とは最高の悟りの境地に到達した方のことで、宝冠、腕釧(わんせん(腕輪))、瓔珞(ようらく(胸飾り))といった装身具(虚飾)を着けず、坊主頭(印度人特有の縮れ毛=螺髪(らほつ))に法衣(ほうえ)だけの簡素なお姿を基本としています。 また身長は経典に一丈六尺と記されていて、立像で5mほど、坐像で2.5mほどの如来像をとくに丈六仏(じょうろくぶつ)といいます。
1 毘盧遮那如来(びるしゃなにょらい)(盧舎那仏(るしゃなぶつ))
日を神格化した仏で、除暗遍明(じょあんへんみょう)(智慧の光明で煩悩の暗(やみ)を遍(あまね)く照らす)の意です。
華厳経の本尊として、奈良東大寺、唐招提寺や、福岡太宰府の観世音寺(かんぜおんじ)などにいらっしゃいます。簡素な如来のお姿ですが、手印(しゅいん)はさだまったものがありません。
盧遮那仏 唐招提寺 天平時代 国宝
2 大日(だいにち)(覚王(かくおう)=覚者の王様)如来(にょらい)
密教の大日教においては、盧遮那仏が大日如来として説かれています。
大日如来には、金剛界(こんごうかい)(智慧の法身)と胎蔵界(たいぞうかい)(慈悲と徳の法身)の二つの姿があります。
・ 金剛界大日如来金剛石(こんごうせき)、すなわちダイアモンドのように堅固で、絶対普遍な仏の智慧を表します。覚王としての威厳(いげん)を示す(虚飾ではない)宝冠、瓔珞を着けています。台座上に結跏趺坐(けっかふざ)(両足の裏を上に向けた胡坐(あぐら))して、印相は独特の智拳印(ちけんいん)です。
・ 胎蔵界大日如来恰(あたか)も母胎(ぼたい)のように慈悲や徳を蔵していることを表します。金剛界大日如来と同様、覚王としての威厳を示す容儀(ようぎ)をしています。台座上に結跏趺坐して、印相は法界定印(ほうかいじょういん)です。
金剛界大日如来 栃木県遍照寺 鎌倉時代 重文
3 釈迦如来(しゃかにょらい)(不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい))
お釈迦様のについては前述しましたので割愛(かつあい)します。
簡素な如来の姿で台座上に結跏趺坐する姿が一般的で(清涼式釈迦は立像)、印相は説法印や定印(じょういん)の例が多いようです。 脇侍(わきじ)に普賢菩薩(ふげんぼさつ)(釈迦の慈悲を分担)、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)(智慧を分担)を配すると三尊になります。
不空成就如来というのは密教の五智(ごち)如来のときの尊称です。
奈良県室生寺 釈迦如来 貞観時代 国宝
4 阿弥陀如来(あみだにょらい)(無量寿如来(むりょうじゅにょらい))
阿弥陀経に「是(これ)より西方、十万億仏土を過ぎて世界あり」と説かれている、極楽浄土の教主として有名です。
印相は妙観察智印(みょうかんさっちいん)で台座上に結跏趺坐し、脇侍に観音菩薩(弥陀の慈悲を分担)、勢至菩薩(せいしぼさつ)(智慧を分担)を配すると三尊になります。なお本願寺の阿弥陀さんは立像で説法印です。
また衆生が往生のときを迎えて極楽浄土に誘(いざな)われる時、その人の生前の所業によって、迎えられ方が異なると説く、いわゆる九品仏(くほんぶつ)の教えがあります。生前の所業を上品(じょうぼん)~中品(ちゅうぼん)~下品(げぼん)の三品(さんぽん)に、これをさらに上生(じょうしょう)~中生(ちゅうしょう)~下生(げしょう)の三生(さんしょう)に分けた、つまり全部で九段階に評価して、例えば上品上生であれば、五色の瑞雲(ずいうん)がたなびく金銀七宝(しっぽう)をちりばめた宮殿・楼閣に、二十五菩薩ほか大勢の眷属(けんぞく)を従えて、阿弥陀様みずからが手を取って極楽へ迎えられるのですが、最低の下品下生の判定になると、しばらくは地獄の劫火(ごうか)に追い立てられた末に、やがて使いが現れて極楽へ連れられるというものです。
この九品の弥陀の印相は、下生が妙観察智印、中生が転法輪印(てんほうりんいん)、下生が説法印で、それぞれ親指と人差し指で輪を作ると上品、親指と中指で中品、親指と薬指で下品となります。 現存する九品の弥陀は、京都(奈良からが近い)の浄瑠璃寺(じょうるりじ)が最も有名ですが(国宝)ここの諸尊はみんな上品上生印を結んでいます。
阿弥陀如来 平等院鳳凰堂 藤原時代 国宝
5 医王薬師(いおうやくし)(瑠璃光(るりこう))如来
東方の瑠璃光浄土の教王で、台座上に結跏趺坐し、印相は右手が施無畏印(せむいいん)、左手に薬壷を持つ姿が印象的です。
薬師三尊というと、日光菩薩(智慧を分担)、月光(がっこう)菩薩(慈悲を分担)を脇侍としますが、眷族として十二神将(しんしょう)と七千夜叉(やしゃ)がいます。
薬師如来 奈良薬師寺 白鳳時代 国宝
6 弥勒如来(みろくにょらい)(菩薩(ぼさつ))
弥勒は未来仏といって、今の世にはまだ出生(しゅっしょう)していません。
釈尊の入滅後五十六億七千万年の後に下生(げしょう)されて、衆生を教化・救済する役目を託され、今は兜率天(とそつてん)の内院で沈思黙考(ちんしもっこう)されています。
そのため現在のお姿は半跏思惟(はんかしい)の姿勢で、右の人差し指を頬(ほお)にあてて思案に耽(ふけ)る菩薩像の方が一般に知られています。
有名な京都太秦広隆寺(うずまさこうりゅうじ)の弥勒菩薩(国宝)の儚(はかな)いお姿に我を忘れ、その唇に接吻(せっぷん)しようとして、誤って指を折ってしまった、稀代(きだい)のロマンチストが話題になったことがありました。
一方はるか後の世に如来になって、衆生教化にあたるときのお姿もほうぼうにあります。
台座上に結跏趺坐して、左手を下に垂れる触地印(しょくちいん)をされるのが基本ですが、定印を結ぶ像もあります。
弥勒菩薩 京都広隆寺 飛鳥時代 国宝
松戸:高見航毅
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第五章 この仏様はどんな方?
仏伝では、お釈迦様が仏陀迦耶で悟りを開かれて仏陀になったとき、三十二相の瑞相(ずいそう)が現れたと言われています。したがって仏像を作る場合には、この三十二相を具備(ぐび)させなければなりません。しかし三十二相の中には、例えば「長舌相(ちょうぜつそう)(精力的な説法に耐えるため、髪の生え際まで伸びるうえに、顔が覆い尽くせるほど長くて広い舌)や、「四十歯相(しじゅうしそう)(歯が人間より12本多い40本)」、あるいは「毛上向相(もうじょうこうそう)(体毛が上向きに生えている)」など、彫像上表現ができないものが二十四相あります。そこで如来や菩薩などの仏像(天部は除く)には、次のように彫像上表現可能な所謂「仏の八相」を必ず表現する決まりになっています。
-仏の八相-
① 金色相(こんじきそう)・・・体が金色に輝いている。
② 耳朶環状相(じだかんじょうそう)・・・衆生の願いを聞き漏らさないように、耳たぶが大きく穴が開いている。
③ 手足指縵網相(しゅそくしまんもうそう)・・・衆生を苦海から掬い漏らさぬように、水掻きがある。
④ 肉髻相(にくけいそう)・・・人間より智慧(脳みそ)がおおいので、頭が盛り上がっている。
⑤ 長指相(ちょうしそう)・・・③に通ずる。手足の指が繊細で長い。
⑥ 正立手摩膝相(しょうりつしゅましつそう)・・・直立すると手が膝に届く。
⑦ 足下安平立相(そっかあんぺいりつそう)・・・偏平足。広く均一に仏法を広めるため行脚する様を象徴する。
⑧ 白毫相(びゃくごうそう)・・・眉間に白い毛が渦を巻いて生えている。天上界を見る眼の役割をする。
松戸:高見航毅
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武士団が貴族から政権を奪って鎌倉幕府を開くと(1192年)、まず源平の争乱や天災により焼亡・損壊した由緒ある寺々の復興が始まりました。
先にお話した東大寺、興福寺などの復興です。
源頼朝の肝いりで、俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)などが全国に勧進(かんじん(寄付を募る))に奔走したのです。
閑話休題=能の「安宅(あたか)」や歌舞伎十八番の「勧進帳」は、東大寺大仏再建の勧進に事寄せて、山伏(やまぶし)に身をやつして奥州へ落ち延びようとする義経主従が、越中(富山県)安宅の関の守護職、富樫左衛門尉(とがしさえもんのじょう)の厳しい詮議を受けて苦境に立ちますが、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)がとっさの機知で、白紙の勧進帳を読んで通り抜けるという筋書きですが、このころの事件をもとに戯曲化されたものです。
天の配剤とは良く言ったものです。この一大復興期に天才仏師運慶(うんけい)と快慶(かいけい)とが輩出しました。
様式化が進みすぎた定朝様に取って代わる新鮮で力強い造形は、施主である武士団の歓迎するところとなりました。
また賽割(さいわり)技法を案出して、例えば東大寺南大門の仁王像のように、8mに及ぶ巨像2体を、十分の一くらいに縮尺した設計図をもとに沢山のブロックに分け、工房を挙げて分業して、わずか1ヶ月で完成するという離れ業も演じました。
こうして全国の古刹の復興や、振興武士団の需要に八面六臂(はちめんろっぴ)の大活躍をしたのです。
一方、全国を二分して相争った源平の争乱は、社会に深刻な疲弊の陰を残しました。田畑を踏み躙られ、働き手を取られ、その挙句にほとんど慢性的な飢饉に陥って、庶民の暮らしは破壊され尽くされていたのです。年貢を払えずに家財を売り払い、子を売り、果てはわずかな土地を手放して逃散(ちょうさん)したり、行き倒れて餓死する者が数知れませんでした。さらに疫病が蔓延して毎日多くの人が死んでいく、まさにこの世の地獄絵図が現出されていたのです。
肉親の亡骸を捨てに行く加茂川の河原から、はるかに仰ぐ比叡の霊場では、高級貴族の子弟が代々の座主(ざす)や高僧として君臨し、美味な魚肉料理に肥え太り、豪奢な邸宅に妾までおくという、およそ衆生救済とはかけ離れた生活が営まれていたのです。
「多くの下層庶民をこそ済度(さいど)すべきではないか」「比叡は堕落した」など、巷には怨嗟の声が満ち溢れました。
それに応えるように比叡の西谷を出て、都の東山の大谷に下りた聖(ひじり)がいました。
「極楽浄土への救済を願い、念仏修行に専心する」ことを説く法然坊源空(浄土宗)で、たちまちのうちに熱烈な信者が集まったのです。
その弟子の親鸞は師の教えをさらに推し進め、「この世に生まれたときから、既に、人々は弥陀によって救われている。だから往生のときに、感謝の意味を込めて『南無阿弥陀仏』と唱えれば、何人も極楽浄土へ救われる。すなわち善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人においてをや=歎異抄(たんにしょう)」と説いたのです(浄土真宗)。
また同じ浄土真宗から出た一宗として、一遍は「極楽浄土に救済されるかどうかは臨終の一瞬に決まるので、平生からいつも臨終の時と考えて、一心不乱に念仏を唱えなさい」と説きました(時宗)。
一方、念仏や経典に頼らず、静かに座して自分の心に真っ直ぐ向き合う(内観)禅宗が盛んになりました。禅宗は6世紀の中国少林寺の菩提達磨(ボーディダルマ)(いわゆるダルマさん)が開祖といわれ、我国へは鎌倉時代の初期に栄西(ようさい)が招来して根づかせました。
栄西はもともと天台の僧でしたが、宋に渡って禅を学び、お茶とともに臨済禅(りんざいぜん)を持ち帰りました。禅定の最重要性を説きつつも、戒律も、悟りに至る学問の研鑽も同様に重要であると説きましたが、この教えは鎌倉幕府の信任するところとなり、武士階級を中心に多くの帰依者を得るところとなりました(臨済宗)。
さらに栄西の弟子道元(どうげん)が、宋の如浄に純禅を伝えられて持ち帰った曹洞宗は、座禅そのものに正覚(しょうかく)の境地があり、座禅こそが悟りに辿り着く方法である(只管打座(しかんたざ)=ひたすら座る)と説くものです。
もう一つの黄檗宗(おうばくしゅう)は、ずっと後の江戸時代になって隠元(いんげん)が招来したもので、臨済禅に近い教えです。
最後に登場する日蓮宗は、法華経こそが釈尊の教えの真髄であるとして、一心に「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えることを強く訴えました。しかし、「念仏無間(ねんぶつむげん)、禅天魔(ぜんてんま)、真言亡国(しんごんぼうこく)、律国賊(りつこくぞく)」などと激しく他宗を排撃したため、幕府や他宗からたびたび迫害を受けました。
このように鎌倉時代は長い貴族政治が終焉を迎え、代わって台頭した新興武士団の覇権争いが絶えないという大きな転換期に当たったために、社会生活の歪(ひずみ)が一事に出て、仏教界にも変革の気運が惹起(じゃっき)された時期といえるでしょう。
こうした時代のニーズを捉えて、精力的に復興活動に寄与した慶派の仕事も、両刃の刃という側面がありました。すなわち、その徹底した写実ゆえに仏の神秘性を希釈する結果になり、さらに分業で作像する賽割工法は、「木の中におわす仏を鑿(のみ)で削ってお迎えする」という信仰精神から遠ざかる要因となったのではないでしょうか。運慶、快慶、湛慶(たんけい)の天才をして、やっと踏み留まれていた必然の傾斜を、やがて徐々に下り始めました。
この後は、むしろ肖像彫刻に見るべき作品が多くなっていくのです。
鎌倉時代の仏像の特徴は次のとおりです。
① 躍動感に満ちた鋭い写実性が特徴です。
② 一部には、裸形を作って本物の衣を着せることが流行しました(江ノ島弁天他)
③ 木造に玉眼(水晶、硝子)を嵌入(かんにゅう)する手法が始まりました。
現存する主な鎌倉仏は次のとおりです。
金剛力士 興福寺 鎌倉時代 国宝
阿弥陀如来 (鎌倉大仏)高徳院 鎌倉時代 国宝
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藤原様式
平安時代の後期は、栄耀栄華(えいようえいが)を極める藤原貴族の間に、末法思想(まっぽうしそう)が蔓延(まんえん)しました。 釈尊の入滅後1500年経つと仏法が乱れ、悪鬼や悪霊(あくりょう)が跳梁(ちょうりょう)して様々な災いが起きると信じられました。実際に、この頃洛中では初めての戦乱となる保元(ほうげん)の乱や平治(へいじ)の乱が勃発して、都の人々は恐怖に慄(おのの)いていました。こうした世相を反映して、貴族たちは競って寺院や仏像・仏画の寄進、写経や納経・埋経(まいきょう)を行いました。このような功徳(くどく)を積むと必ず浄土に救済されると信じられたのです。
貴族中心の荘園(しょうえん)経済になって久しく、国家事業で大寺を建立することが少なくなり、すでに官立の造大仏司(ぞうだいぶっし)は廃止されていたのですが、これらのニーズに応えるように、登場したのが画期的な寄木法(よせぎほう)を考案して、我国の豊富な良材を縦横無尽(じゅうおうむじん)に駆使(くし)することを可能にた仏師定朝(じょうちょう)でした。貴族好みの豊満で優美な作風も受けて、いわゆる定朝様(じょうちょうよう)は平安時代の終焉(しゅうえん)までを風靡(ふうび)しました。
藤原様式の特徴は次のとおりです。
① 木彫仏の全盛期を迎えました。
② 豊満で優美な作風で忿怒像でも優しげな風貌(ふうぼう)が多く作られています。
③ 衣文は翻波(ほんば)式という波が翻(ひるがえ)るような表現が始まりました。
大分県満月寺磨崖仏(臼杵石仏)藤原時代 重文
現存する主な藤原仏は次のとおりです。
|
都道府県 |
所蔵する寺院 | 仏像名 | 指定 | 備考 |
|
京都 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 奈良 大阪 岩手 〃 京都 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 奈良 〃 〃 和歌山 〃 滋賀 福井 広島 鳥取 福岡 〃 〃 大分 〃 〃 〃 〃 〃 〃 福島 |
平等院鳳凰堂 清涼寺 法性寺 鞍馬寺 浄瑠璃寺 〃 三千院 広隆寺 法界寺 興福寺 道明寺 中尊寺 〃 岩船寺 禅定寺 万寿寺 即成院 安楽寿院 峯定寺 〃 大覚寺 興福寺 当麻寺 長岳寺 南院 道成寺 善水寺 常禅寺 竜華寺 三仏寺 観世音寺 〃 〃 真木大堂 〃 〃 富貴寺 満月寺 大楽寺 〃 願成寺 |
阿弥陀如来 釈迦如来 千手観音 毘沙門天 四天王 九体阿弥陀 阿弥陀三尊 阿弥陀如来 阿弥陀如来 十二神将レリーフ 十一面観音 金色堂諸尊 一字金輪仏 阿弥陀如来 十一面観音 阿弥陀如来 阿弥陀二十五菩薩 阿弥陀如来 千手観音 毘沙門天 不動明王 薬師如来 紅玻璃弥陀 阿弥陀如来 波切不動尊 千手観音 薬師如来 不動明王 十一面観音 蔵王権現 馬頭観音 聖観音 十一面観音 阿弥陀如来 大威徳明王 不動三尊 阿弥陀如来 臼杵磨崖仏群 弥勒三尊 四天王 阿弥陀三尊 |
国宝 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 重文 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃
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定朝作 清涼寺式釈迦 |
三千院 阿弥陀三尊 藤原時代 国宝
松戸:高見航毅
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貞 観 様 式
「青丹(あおに)良し奈良の都は咲く花の匂うが如く今盛りなり」仏教公伝から200年、奈良時代も後半の爛熟期(らんじゅくき)に入りますと、文化の担い手を自負して、事毎(ことごと)に口出しする教団を疎(うと)ましく思うようになり、ついに桓武(かんむ)天皇は遷都を決意されて、長岡京を経て、794年平安京に新都を造営しました。同時に南都仏教では悟りの境地には到達し得ないという不満が一挙に昂(たか)まり、唐の五台山(ごだいさん)の天台仏教こそ望ましいということで、当時すでに名望の高かった最澄(さいちょう)(伝教大師(でんきょうだいし))に渡唐の勅命(ちょくめい)がくだされました。なお最澄の座乗したこの遣唐使船(けんとうしせん)には、青雲の志に燃える空海(くうかい)(弘法大師(こうぼうだいし))も便乗を許されていました。
最澄は五台山に学んで翌年帰朝し、王城の守護のために比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の開山を許され、鋭意天台宗の布教に努めましたが、怨むらくは五台山の天台仏教の評判は、唐ではすでに翳(かげ)りが射していたのです。
一方、空海はその後も唐に留まり、「書」を始め、その卓越した能力をフルに生かして、唐の宮廷サロンの寵児(ちょうじ)として親交を深めました。勿論(もちろん)その間に、これから日本に移植すべき仏教の探索にも余念がありませんでした。
そして遂に、当時印度の山間部の商人達の間に広がり始めていた、極めて現世利益(げんせりやく)の色彩が濃い真言の教えに遭遇(そうぐう)し、感得(かんとく)するところがあって、これの整備・集大成を図りました。帰朝後の評判はすこぶる良く、最澄の天台宗の評判を凌駕(りょうが)し、これを聞き伝えた天皇の叡感(えいかん)はひとかたならず、高野山に金剛峰寺(こんごうぶじ)と、洛内(らくない)に東寺(教王護国寺(きょうおうごこくじ))の建立を許されました。
平安時代初期の造仏は、これら延暦寺、金剛峰寺、東寺の諸尊、鞍馬(くらま)の神護寺(じんごじ)など畿内の大寺だけではなく、遠く岩手の黒石寺(こくせきじ)など地方にも及びました。いわゆる貞観(じょうがん)様式といわれるこの時代の遺構は、延暦寺や金剛峰寺が天災や兵乱で一山焼亡(いちざんしょうもう)の憂き目にあったために少ないのですが、東寺講堂の立体曼荼羅(まんだら)の諸尊によって、その重厚・深遠な作風を窺(うかが)うことができます。
貞観様式の特徴は次のとおりです。
① 金銅像や乾漆像は影をひそめ、木彫が主流となりました。
② 寄木(よせぎ)の手法はまだ考案されていないため、一木(いちぼく)造りです。
③ 大きな像では、膝(ひざ)や腕の部分に別材を使用した例もありますが、別材を使用しないために製作上掣肘(せいちゅう)を受けて、バランスを失した例もあります。
④ 貞観仏最大の特徴は、なんと言っても凛巌(りんげん)な表情と奥行きのある重厚な体躯(たいく)です。
⑤ 衣文に渦巻紋(うずまきもん)が見られるのも貞観仏の特徴です。
現存する主な貞観仏は次のとおりです。
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この記事についてつぶやく仏様紳士録ー古寺巡礼ガイドブックー(5)
持統天皇は中国の唐の都に倣(なら)って、我国初の条里制(じょうりせい)の都城である藤原京(694~710年)を今の明日香の地に造営しましたが、この都はわずか足掛け17年で平城京に遷都されました。
古代の大寺は遷都があると、旧都の伽藍(がらん)はそのまま捨て置いて、新都に改めて造営することが多かったのですが、藤原京は極く短い期間でしたので、例えば薬師寺のように、建設途中の伽藍をさらに平城京(710~784年)に移築するという例もありました。おかげで薬師寺は数少ない藤原京期の白鳳(はくほう)様式を今日に相伝する貴重な遺構(いこう)となりました。
白鳳時代の仏像の特徴は次のとおりです。
① 極端な正面性は影をひそめ、体の奥行きも出て丸みが出てきました。また少し腰を捻(ひね)るといった動きのあるポーズも現れ始めました。
② 頭髪は螺髪になりました。
③ 表情も飛鳥様式はなくなり、どちらかというと少年のような爽やかな緊張感を漂わせています。
④ 衣は隋(ずい)・唐時代の薄い衣になりました。
⑤ 腕や手の動きも、いくぶん自然な柔らかい表現になってきました。
⑥ 衣文はまだ直裁式のままです。
現存する主な白鳳仏は次のとおりです。
松戸:高見航毅

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第四章 仏像は何時頃作られたの?
仏教はもともとお釈迦様の説法を口伝(くでん)することで伝承されましたので(最も早く成立したお経の一つの阿弥陀経は「如是我聞(にょぜがもん)=私は先達からこのように聞いています」から始まります)、初めのうちは偶像(ぐうぞう)の製作はなされませんでした。古代仏教遺跡の釈尊伝のレリーフなどには、せいぜい(そこに釈尊が座っていらっしゃる)宝座(ほうざ)とか、(釈尊のいらっしゃる象徴の)菩提樹(ぼだいじゅ)、あるいは(釈尊がそこに立っていらっしゃる)足跡(=仏足石(ぶっそくせき)。奈良薬師寺に我国最古の白鳳時代のものがあり、国宝に指定されています。)とかであらわされていました。
仏像の初見は、紀元1世紀頃ガンダーラ地方(今のパキスタン、アフガニスタン付近)において、偶像崇拝(すうはい)の伝統を持ち、神々の造像が盛んなギリシャ・ローマの文化と融合する形で作られ始めました。この時代の仏像は、エチゾチックな表情や衣文(えもん)の表現にギリシャ・ローマの影響が顕著で、とくにガンダーラ様式と呼ばれています。
漢代末期の中国を経て、「538年(一説では552年)に百済(くだら)国(朝鮮の南西部にあった)の聖明(せいめい)王から仏像と経典および幡蓋(ばんがい)などの荘厳具(しょうごんぐ)が貢献された」というのが公伝の最初だといわれています(私伝はもっと早かったろうというのが定説です)。
早速欽明(きんめい)天皇を始め、蘇我 氏など新興豪族の多くが、この金色燦然(こんじきさんぜん)と輝く舶来の「神」を敬仰(けいぎょう)しようとしましたが、日本古来の神道を護持しようとする物部(もののべ)・大伴(おおとも)の大豪族が立ち塞(ふさ)がり、遂に宗教大戦争を惹起(じゃっき)してしまいました。
互いに一進一退の激戦の末に、厩戸皇子(うまやどのみこ)(若き日の聖徳太子)が四天王の像を刻んで戦勝祈願をしたところ、ついに仏教擁護(ようご)派が勝利し、以後盛んに造寺・造仏が行なわれ、日本は大乗仏教国へと急速に変貌(へんぼう)していきました。
聖徳太子が戦勝のお礼として建立したのが、大阪市難波(なんば)の四天王寺です。
飛鳥様式
我国で最初に建立された寺院は、今も明日香(あすか)に残る飛鳥寺(あすかでら)(現安居院(あんごいん))で、本尊の釈迦如来(飛鳥大仏)は顔の一部などに造立当初(606年)の痕跡(こんせき)を残しています。
以後、平城京遷都(へいじょうきょうせんと)に伴って移築され、現在は奈良市の猿沢の池を南に下った所にある元興寺(がんこうじ)が法統を受け継いでいます。
なお飛鳥大仏は、現在も元のまま明日香の安居院に安置されています。
飛鳥大仏を嚆矢(こうし)とする飛鳥様式の特徴は次のとおりです。
① 後の時代と違って、中国の塞外(さいがい)民族王朝(晋(しん)朝の後の五胡(ごこ)十六国時代の一)
である北魏(ほくぎ)の影響が顕著(けんちょ)です。
② 頭髪が螺髪(らはつ)(短い縮れ毛)ではなく、長い髪を編んだようになっています。
③ 面長な顔に、目は上下の瞼(まぶた)のカーブが同じ、いわゆる杏仁(きょうにん)形(杏(あんず)の種)でやや吊り上がり気味です。
④ 鼻は三角、耳は平板に作られ、口は両端が少し吊り上がっていて、「神秘的な微笑」を浮かべているように見えます。
⑤ 体は正面性が強く、左右相称(そうしょう)で薄っぺらです。また台座は裳懸座(もかけざ)が主流です。
⑥ 服装は北方民族である北魏の習俗を彷彿(ほうふつ)とさせる厚ぼったい衣で、胸間に下着の帯が表現されています。
⑦ 腕や手の曲がりが窮屈(きゅうくつ)で硬い表現になっています。
⑧ 衣文は直裁(ちょくさい)式といって、V字型の切り込み、あるいは段差をつける程度の表現です。 (下に参考図あり)
松戸:高見航毅
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