この記事についてつぶやくイベリア半島への旅(8)
~ 囲碁愛好家の旅 ~
< スペイン 車事情 >
リスボンから入って、主にスペインの南西部を回った私たちの旅は、最終目的地に着いた。
人口300万の首都マドリードは、2016年の夏のオリンピック誘致を東京などと争っている大都市でもある。
車の行き来が激しい。
早朝ホテル周辺の住宅商業地を散策すると、幾何学的な路上駐車の車の列に驚かされる。
止っている車と車の間には人が通り抜けることができないほどに密着した数珠繋ぎである。
延々と続いている。(写真右)
これでは、車を出せないではないか。
どうやって車を出すのだろう。まさか最先端かしんがりの車が出るのを待つわけでもないだろう。
ガイドに聞いてみた。
するとバンパーで前の車を擦って押し、ハンドルが切れる空間をつくるのだという。
相手の車を傷つけて問題にならないのか、かさねて尋ねると、「バンパーはそのためにあり、少々凹んでも誰も文句は言わない」という。
日本なら「おまわりを呼ぼう」眉間に皺を寄せて言い合うケースだが、市民全体がそう思ってるからから警察沙汰にはならないという。
この話を聞いて走っている車を見ると、確かに凹んだり擦られたりしている車によく出くわす。
数珠繋ぎの路上駐車は、アパートができたあと車社会となって車があふれ、駐車場を作ることができなかったご当地の生活の知恵なのだろうか。
車を所有する際には駐車場を義務付けるなどの法律や条例を出したら、その政権や首長は、直ちに市民によってノックアウトされそうな雰囲気だ。
マドリードだけでなく、訪れたスペインの都市すべてに、芸術的な路上駐車技術をみることができた。
朝の出勤のラッシュのとき、警察官が交差点の真ん中で、身振り手振りの交通整理をしている。(写真左)
あれ、停電で信号が作動しなくなったのか、と思ったらそうでもない。
きちんと赤と青の信号が点滅している。
スペインのおまわりさんは暇なのかなあ。いや違うな。
信号があっても、おまわりさんが交通整理をしなければいけないほど、信号を無視して走る車がいるということか、日本では信号の機能停止か、VIPの通過のときしか見られないおまわりさんの手信号が、ご当地では恒常的に見られる。
ホテルを出発する前の周辺散歩で、スペイン社会の一端が覗かれて面白い。
< イベリア半島 駆け足 >
今回訪れたポルトガル・スペインは、私の頭の中でははるかに遠い国だった。
ところが訪れてみると他のヨーロッパ諸国とは一味もふた味もちがう、魅力的なものを持ち合わせてる国であることを知った。
数々の歴史的遺産を見学しながら、この地が古くからイスラム教とキリスト教の接点として、独自の文化を形成していたこと、世界史上特記すべき大航海時代発祥の地であったことなどを、証拠物によって接することができたのは、単なる観光以上の収穫だった。
またイベリア半島の植生が北欧や中欧・東欧とは一部は混在しながらも、明らかに違う実情も自分の目で確認でき、地球の自然の豊かさを堪能できた。

美人の女性も多い。
豊満で陽に焼けた小麦色の肌は、いかにもエネルギッシュである。
フラメンコの本場セビリアで、かぶりつきでショーを鑑賞した。(写真上左)
切れ味の良いリズムで鳴らす踊り子の靴音で、白い頭をふんずけられるような気がした。
マドリードの闘牛場では、牛を殺すたびにハンカチを振って闘牛士にエールを送る女性を目の当たりにした。
ご当地は肉食女性が多い国なのかなと、東洋の草食男は思った。(写真上右)
< 囲碁キチの旅 >
私たちの一行は囲碁愛好者グループである。
愛好者の域を越えて囲碁キチの集まりと言った方がいいのかもしれない。
囲碁の醍醐味を知り尽くした知人が「醍碁味」という本を送ってくれたことがある。
その醍碁味を求めて、旅の移動のちょっとした休憩時間、朝のホテル出発前のひと時に、すぐ碁盤を開いて烏鷺の戦いをする集まりである。(写真右上:グラナダ郊外)
マドリードでは地元の囲碁愛好者と懇親会を持った。
碁会所「南蛮」の事実上の席亭は、今回の旅行でお世話になった旅行会社の日本人社長である。
この社長は若き頃プロを目指したほどの筋金入りの打ち手だ。
数年前北海道新聞に、プロの道をあきらめた小樽出身者が、異国で苦労の末に活躍するサクセスストーリーが大きく取り上げられた。
囲碁と関わりがある記事だったので切り抜いて保存していたが、その当人がこの社長だった。(写真下左の挨拶者)

スペインで会社を経営しながら、囲碁に無縁の地に碁石の種をまいて数十年、今では日本の6段を上回る打ち手まで育ったという。
おまけに旅の間ずっと同行してくれた日本人ガイドが無類の囲碁好き、スペインを訪れるプロ棋士のガイドを一手に引き受けているような人で、日本を離れて28年経っても囲碁界の実情に詳しい。
還暦近いひげガイドが、囲碁界のアイドル万波加奈ちゃん大好きなんていうと、まさに美女と野獣だ。
この社長あってこのガイドというコンビに、今回の旅は大変お世話になった。
マドリードを離れる前日の夜、日本人社長はサッカーファンなら一度は訪れてみたいレアル・マドリードのグラウンドが見渡せる場所で、宴を開いてくれた。 (写真左)
コンサドーレ札幌の札幌ドームにも行ったことがない私でも、この場所が誰しもが入れる場所ではないということが、その雰囲気からしてすぐわかった。
帰国してまもなく世界ナンバーワンプレーヤー、クリスティーナ・ロナウド選手が、129億円のこれまで最高の契約金で、レアル・マドリードに移籍したことが報じられた。
新型インフルエンザ騒ぎの大波を乗り越え、趣味の碁がご縁で、こんなに素晴らしい旅を満喫することができたことに、囲碁の神に感謝するのみである。(完)
札幌:望田武司
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この記事についてつぶやくイベリア半島への旅(7)
~ 街全体が世界遺産 ~
ユネスコが指定する世界文化遺産には、特定の歴史的建造物や建物群が多いが、その地域全体が指定されてるところもある。
スペインの首都マドリードから1時間ちょっとの2つの小都市が、街全体が世界文化遺産都市に指定されているという。
西洋史に疎い私にとって初めて聞く町の名前である。
どんな所でどんな歴史が詰まっているのか、興味をもって訪れた。
~ スペインの古都 ~
次に行く観光地のトレードマークは何だろう。
だじゃれを言って笑わすのも楽しいが、口にするのも恥ずかしい。
そう思って1人でニヤニヤしていると、バスの隣に座っている家内が「何にニヤニヤしてるの。薄気味悪い」
マドリードの西70kmほどに人口7万人の小都市トレドがある。
6世紀に西ゴート王国の都になって以来、16世紀に当時の王国の宮廷がマドリードに移されるまで首都として栄枯盛衰、数々の支配者によって統治されていた。
この間、キリスト教徒・イスラム教徒・ユダヤ教徒が、それぞれ追放と居残りを繰り返しながら融合しあって独自の文化を作り出していった「3つの文化の街」、それがトレドだという。
日本でいえば奈良や京都のような町で、奈良市とは姉妹都市になっている。
ただ首都時代の長さ、民族と宗教の多様性からすると日本の古都より複雑な歴史を持っている。
まさにスペインの歴史を凝集した迷宮都市で、ガイドの噛んで物を含める説明も、頭の中ではなかなか整合性が保てない。
トレドはスペインでもっとも長いホセ川によって囲まれている。(写真右)
渓谷の上に立っているイスラムの影響を強く残した中世の城砦都市だ。
深く刻まれた川は、ちょうど日本のお城の堀のようでもある。
この町を攻めるのは兵糧攻め以外なかったのではないかと思わせる断崖絶壁の上に立っている。
トレドの旧市街地に入るために橋を渡ると、長い長いエスカレータが待っていた。
古都を訪ねるのに近代的なエスカレータで入るとは面白い。
観光が売り物の街の知恵ともいえようか。
ここにスペインカトリックの総本山の大聖堂があった。(写真下左)
13世紀から300年近い歳月をかけて建設された大聖堂はゴシック様式で、建物の外壁だけでも高い芸術性が感じられた。
街の中は迷路のようで、道路も狭い。
敵に一直線に攻められない城下町特有の街づくりなのだろうか。
狭い路地から大聖堂の尖塔が見えた。(写真上右)
スペインではこうした絵になる構図があちこちで見られた。
エル・グレコ最高傑作といわれる「オルガス伯爵の埋葬」が展示されているサント・トメ教会を訪れた。
あいにくお目当ての絵画はロンドンの英国博物館に貸し出され、もぬけの殻だった。
栄華を誇ったトレドもマルセイユに遷都されてからは、町の発展がパタッととまったという。
現在は観光都市・古都トレドとして知られているが、旧市街地にすむ人の高齢化は進んでいるという。
ガイドによると日中観光客で賑わう旧市街地は、夕方になって店を閉めると若い人は川を渡っていなくなり、年寄りしか住んでいないひっそりとした薄気味悪い街になるそうだ。
旧市街地では巨大な建築物を見上げるだけで、旧市街地の全貌はわからない。
しかし旧市街地を一歩でてタホ川の対岸から眺めると、トレドの全貌をみることができ、まるで絵葉書を見ているような美しさだ。
( 写真上:聳えているのは左から教会・大聖堂の尖塔・お城で、手前はホセ川)
< ローマ時代の遺構 >
マドリードの北西95kmに、人口5万人余りの小都市セゴビアがある。
ヨーロッパにはセビリア・セルビアと紛らわしい都市や国があり、うっかりすると間違いやすい。
そのセゴビアで私たちを迎えてくれたのは、ローマ時代の痕跡をくっきり残す巨大な水道橋だった。(写真右)
長さは728mで2階建で最も高いところは28mに達し、世界でもっとも保存状態の良い水道橋として知られているという。
この橋を築いている石と石の間には、接合材は何も使われてないそうだ。
紀元1世紀頃に建てられた建造物で、当時のローマ人の高い土木技術水準に驚かされる。
この水道橋は19世紀まで使われ、今でも橋に水道管が敷設されてその役目を果たしているという。
イタリアを訪れたとき、ローマ時代に水道を管理する役人は高級官僚で、高い報酬を得ていたと教わったことを思い出した。
セゴビアにもカテドラル(大聖堂)があった。(写真下左)
16世紀に建設が始まり、ゴシック様式の大聖堂としては新しい建物だが、その優雅な姿から「カテドラルの貴婦人」と呼ばれているという。

ローマ時代要塞のあった高台に、これまた優雅なアルカサル(古城)があった。(写真上右)
ディズニー映画「白雪姫」のお城のモデルになったという。
お城からはカステーリャ地方が眼下に広がっていた。
この古城の前庭にはマロニエ(セイヨウトチノキ)が直径3cmほどのかわいい棘のある実をたわわにつけていた。
セゴビアには古代ローマ時代から中世までの歴史的建造物が数多く残されていた。
街全体が世界遺産になっている街でそぞろ歩きを楽しんだ。(つづく)
札幌:望田武司
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この記事についてつぶやくイベリア半島への旅(6)
~ スペインの原風景 ~
スペインの南西部の3分の1はアンダルシア地方といわれている。
これらの地域に点在するセビリア・グラナダ・コルドバなどの古都市には、それぞれ世界遺産に指定されている歴史的建造物がある。
スペインには世界遺産の価値が低くなるのではと思うほど、世界遺産に指定された建物や景観が多い。
イベリア半島の位置する地理的関係から、イスラム・キリスト、それにアラブ・ユダヤの宗教と人種が、長い歴史の中で憎しみと融和を繰り返してきた証の建物群で3ある。
これらの背景を理解するには余りにも短い旅であり、ガイドの丁寧な説明にもかかわらず、消化率はきわめて低い。
しかし、これらの都市を育んだ自然環境は単純でとてもよく理解できる。
イベリア半島の台地に広がる自然を求めて日本から訪れる観光客も少なくないという。
< 排気ガスに強い植物 >
アンダルシア地方を移動するバスは、ほとんど高速道路を走る。
といっても日本のようにきちんとした設備された高速道路ではなく、一般国道のようで信号がないだけだ。
時速100キロで突っ走る。
赤茶けた原野を走れば走るほど目に付く植物は、エニシダの黄色い花だ。(写真右)
路肩や道路わきののり面に延々とつながっている。
エニシダは地中海が原産なので、まさにご当地の植物である。
乾燥に強く、フランス、イタリアの高速道路沿いにもよく見られる。
花を見るとセンダイハギに似た印象で、柔らかい黄色の花がスピードの恐怖を緩和させてくれる。
ガードレールなどちょっと整備された高速道路では、中央分離帯にキョウチクトウが意図的に植えられ、これまた延々とつながっている。(写真左)
キョウチクトウ(夾竹桃)は、葉が竹のように細く、花が桃のようなことからこの名がついた。
赤・白・ピンクなど花の色もさまざまで、ガードレールを覆いつくすように咲いている。
柔らかいエニシダと違って、こちらは暑さを感じさせる花だ。
キョウチクトウは排気ガスと乾燥に強い植物である。
被爆してすべてを破壊し尽された広島の焼け野原に、いち早く顔を出したのがキョウチクトウだ。
その生命力の強さと復興のシンボルとしてキョウチクトウは広島市の花となっている。
< スペインとひまわり >
バスは突然舗装されていない道路に入って止まった。
ひまわりが一面に咲いている。(写真右)
一行から歓声が上がった。
みごとなひまわり畑である。
ご婦人たちはひまわりの中に入ってポーズをとっている。
ひまわりと一緒に写真を撮ると、若くてきれいに見えると思っているのだろう。
スペインのひまわりというと、絵画の世界だと思っていた。
一行の中に絵ごころのある人もいて、ひまわり畑の見物を希望していた。
ひまわりはそれほど珍しい植物ではないけど、こうしてひまわり畑にたたずむとスペインを感じるのが不思議だ。
スペインのひまわりを見てちょっと驚いたことがある。
茎丈が50センチほどしかないのに、もう花が咲いているのだ。
北海道にはあちこちにスケールの大きいひまわり畑があり、背丈も2m以上と高い。
とくに北空知の北竜町はひまわりの町として知られ、ひまわりを活用した町おこしをしている。
夏になるとひまわり迷路を作って、子供たちは背丈以上のひまわり畑を駆け回って出口を探している。(写真左)
スペインのひまわりは、写真撮影に好都合なひまわりだ。
大航海時代にアメリカ大陸から持ち込んだものだという。
< ドン・キホーテの風車 >
車窓から見る高台に風車が点々と見えた。(写真下左)
最初あれは何だと思った。 ラ・マンチャ地方の風車である。
車は丘の頂上まで行った。とても風が強い。
11個の巨大な風車と古城があった。(写真下右)
乾燥気味のスペインは、ヨーロッパの他の地域と違って川の水量が少なく、動力源として水車よりは風車が多く作られたという。
この風車で小麦を轢いていたのだろうか。
360度パノラマの丘に立つ風車は、中世のスペインの農村地帯のシンボルだそうだ。
風車は一つも回っていない。今はすべて観光用である。
風車を巨人が変身したものと思い込み、馬にまたがって突進して吹き飛ばされたドン・キホーテの物語を、実物の風車の前で思い起こすと、とてもユーモラスに感じられた。
< これぞ スペイン! >
スペインは日本よりどれくらい広いのだろうか。
地中海から内陸部に入ると、一面のオリーブ畑が広がる。
車窓の左右も、前の丘もみなオリーブだ。
行けども行けどもオリーブ畑、バスはオリーブの世界を走り回っている。(写真右)
こういう光景は、日本では僅かに北海道中央部の美瑛が丘に見られる。
ジャガイモ・ビート・小麦・花などの畑がパッチワークのように連なり、よくヨーロッパのようだといわれている光景である。
かって日本を代表する自動車メーカーが新車発売のコマーシャル撮影を美瑛でやって、テレビで「ヨーロッパ、ヨーロッパ」と連呼し、「ヨーロッパの山野を軽快に駆け回る」というコメントをつけていた。
安くついたCM制作料だと思ったものだ。
観光ボランティアをしている私は、北海道はどこを回ったらいいかと尋ねられると、迷わず美瑛・富良野をお奨めする。 (写真左:美瑛が丘8.7)
本州では絶対見られないもっとも北海道らしい風景である。
ところがスペインのオリーブの丘のスケールは、美瑛が丘をはるかに上回る。
フランス・イタリアを横断しても見られないスケールの大きいオリーブの丘が延々と幾何学的に連なっている。
これぞスペインだと思った。
オリーブは大半が食用油になる。
秋になると一斉にオリーブの実を摘む。
夏にはまだ小さくて硬いが実は次第に大きくなる。(写真右:ローマ郊外 6.8)
木の枝についている実は、機械で収穫することはできない。
人間の手で摘むしかない。
行けども行けども見渡す限りのオリーブを摘む人がいるのだろうか。
入園料をとってリンゴやブドウのとり放題、観光果樹園にして人出不足をカバーしているところが日本ではあちこちにある。
けどオリーブの観光果樹園なんて成り立つのかな、つまらないことが浮かんでは消える。
ガイドに聞くとアフリカからジブラルタル海峡を越えて季節労働者が入ってくるという。
ガイドもアルバイトをしたことがあったが、とても重労働だったという。
時速100キロで走るバスの最前列で、しばしオリーブの丘に見とれた。
エニシダ・ひまわり・オリーブ・・・これらの植物に注がれる明るい太陽の光・・・
スペインは絵になる、捨てたものではないと思った。(つづく)
札幌:望田武司
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この記事についてつぶやくイベリア半島への旅(5)
~ 街をうるおす南国の街路樹 ~
ポルトガルでもそうだったが、スペインでも大都市の街路樹にプラタナスが圧倒的に多いのに気づく。(写真右:セビリア)
フランス・イタリアもプラタナスが多いが、もう一段南下したイベリア半島でもプラタナスが街路樹の主役だった。
大きな葉と、枝からぶら下がるゴルフボールのような丸い実、プラタナスがマロニエ・シナノキ類・ニレ類とともに世界4大街路樹種のひとつであることに、改めて納得した。
< モミジバスズカケノキ >
プラタナスは成長が早くて公害に強いうえ、手のひらのように大きい葉は、街路樹に必要な緑の陰を作ってくれる。
「緑陰樹」ともいわれる由縁である。
また枝に垂れ下がる直径3cm前後の実がじつにかわいい。
樹皮はうろこ状に剥げ、鹿の子まだらの淡緑色になるのが特徴だ。
ひらたくいえば幹は自衛隊の迷彩色のようだ。
札幌でもプラタナスは5番目に多い街路樹で、雪が降る冬になれば、枝に残る丸い実が白い帽子を被る。
実に絵になる街路樹である。(写真左:札幌 6.12撮影)
和名は「モミジバスズカケノキ」である。
モミジのように大きな葉、実が山伏が羽織ったひもに垂れ下がった鈴に似ていることからこの名がついた。
厳密に言うとヨーロッパのプラタナスと、日本で見られるモミジバスズカケノキは分類学的にちょっと違うが、親戚同士なので総称して日本ではプラタナスといっており、和名をいう人は少ない。
ただ
♪ 友と語らん 鈴懸の径 通いなれたる 学び舎の街
やさしの小鈴 葉陰になれば 夢はかえるよ 鈴懸の径 ♪
戦時中にできた歌とは思えない叙情詩を通じて、スズカケノキはそれなりに親しまれている。
ところが、こちらにきて驚いたことがある。
プラタナスの街路樹がじつに高いことである。
こちらのプラタナスの街路樹はみな20m以上あり、道路に面するアパートの4階以上に達している。(写真下:マドリード)
プラタナスはもともと放っておけば、25m以上になる高木だ。
札幌では公園内にそのような大きな大木を時々みかけるが、街路樹ではまずない。
電線の邪魔になることもあるが、何よりも住民から窓がさえぎられて陽が入らなくなると、苦情がくるからだ。
このため、札幌市は定期的に剪定して、一定以上の高さにしない。
その剪定の仕方も、トラ刈りのように枝をどんどん切ってしまう。
するとまた市民から、乱暴な剪定の仕方だ、もうちょっと風情のある剪定の仕方ができないものかと苦情が相次ぎ、毎年のように新聞ネタになる。
フランスのカンヌで、札幌より徹底した剪定をしたプラタナスに遭遇したことがある。(写真左:5.05)
極端に言うと幹だけ残して、枝は殆ど切っている。
最初のセビリアの写真をごらん頂きたい。
枝分かれした部分からすべて切った状態である。
住民になぜこんなに切っちゃうのかと尋ねたら、すぐ大きくなり4年に一度は丸坊主にするんだという返事が返ってきたのを思い出す。
スペインでは、プラタナスがこんなに大きくなって住民の苦情がないのか、当地在住28年の日本人ガイドに聞いてみた。
すると驚くべき返事が返ってきた。
「苦情は全くありません。むしろ街路樹によって日陰になるアパートは、高くてステータスがあります」
う~ん ところ変われば価値も変わる。
何事も多面的に見なければならないと思った。
< 新鮮! ムラサキの街路樹 >
道行く市民に安らぎを与えてくれる街路樹であるが、これまでみたことがない花の色の街路樹に遭遇した。
車窓から見えるムラサキ色の街路樹、寝てない限りは目に飛び込んでくる新鮮な街路樹だ。(写真右:リスボン)
あの木は何と言う木だろうか。
ガイドは車内の客の関心が向いているのを見透かすかのように、質問をしないうちに「左に見えるのはジャカランダです」と言った。
聞いたこともない木だ。
今が一番の見ごろだそうで、「皆さん良い時期に訪れました」と、観光客の心をさらにくすぐる憎いことを言う。
翌日、早朝の散歩でさっそくジャカランダの木の傍まで行ってじっくり観察した。
花が鐘状で一見キリの花に似ていると思った。(写真左)
けど葉はキリとは全く違う。
帰って調べてみると、和名がなんとキリモドキと記されていた。
格の高い僧侶の袈裟、まもなく4年ぶりにお目見えするであろう解散詔書を包んだふくさ、これらはみなムラサキ色である。
こうしたムラサキの花の街路樹が、札幌にもあってもいいなと思うが、残念ながらジャカランダは亜熱帯地方の植物だ。
日本では西日本で単発で散見されるというが、街路樹として植えているところがあるのだろうか。
<黄色いアカシア>
高木に一杯咲きそろう黄色い花、風にゆれて蝶のようにひらめく花の街路樹もあちこちで見られた。(写真右:セビリア)
葉は鳥の羽のような羽状複葉である。
札幌に住んでいる人なら、一見しておなじみのアカシアの仲間だとわかる。
アカシアは、札幌ではナナカマドについで多い街路樹で、札幌市の木を決める市民投票で、ライラックと最後まで争った木だ。
ただ、札幌のアカシアの花は、黄色でなく白だ。
しかもアカシアではなく、ニセアカシアである。
かといって日本のニセアカシアが、にせものということではない。
学名の種名をそのまま直訳したために、このような和名がつけられてしまった。
(写真下:ニセアカシア 札幌 6月)
話は少しずれるが、「ニセアカシア」では余りにもかわいそう だということで、アカシアのほうを「ホンアカシア」とよび、ニセアカシアを「アカシア」にしたらどうかという意見が以前あったという。
命名したフランスの植物学者の名前からついた、ニセアカシアのフランス語「ロビニア」にしたらどうかという有力意見もあったが、決定打がでないまま今日に至っている。
これは本物のアカシアが、日本ではよほど暖かい場所でなければ育たなく、ニセアカシアをアカシアといっても競合しないため、実用的には差し支えないからだという。
♪ アカシアの雨に打たれて・・・♪ を ニセアカシアの雨に打たれて ではムードもなにもない。
また ♪ この道はいつかきた道 ああそうだよ アカシアの花が咲いてる ♪
これを、ニセアカシアにしなければいけなかったら、札幌を訪れた北原白秋はこの歌を絶対に詠まなかっただろう。
アカシアの黄色の花は珍しかったが、やはり白に趣がある。
札幌に帰国したとき、ニセアカシアの白い花はちょうど花吹雪、ポプラの綿毛とともに風に舞っていた。

街路樹は街のイメージを表現するポイントでもある。
スペインではユーカリ(写真上左)、ヤシの木(写真上右)、オレンジなどの街路樹も散見され、ああ やはり南の国に来たんだなあと実感した。(つづく)
札幌:望田武司
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この記事についてつぶやくイベリア半島への旅(4)
~ コロンブスと関わりのある町 ~
セビリアに入ると、街に気品が感じられるのにすぐ気づく。
観光馬車も闊歩して町全体にあまり生活のにおいがしない。
毛並みの良い町だ。
人口70万余、スペイン第4の都市である。
南部の政治経済文化の中心都市であり、同時にスペイン最大の観光都市でもあるという。
ガイドの丁寧な説明を受けながら、2日間セビリアを歩き回ると、セビリアは歴史上消えることがない位置づけのある町だったということがわかってきた。
< イスラムのにおい >
セビリアの中心部にひときわ高いヒラルダの塔がある。
観光客が必ず訪れる人気の塔でセビリアのシンボルだという。
このヒラルダの塔は高さが98mあり、イスラム教徒の礼拝所・モスクの尖塔だった。(写真左)
ジブラルタル海峡に近いセビリアは、8~13世紀にかけて海峡の対岸の北アフリカのモロッコから入ってきたイスラム教徒の支配下にあり、イスラム文化繁栄の舞台であった。
ヒラルダの塔はその時建築されたものだという。
ところが13世紀にキリスト教徒によって、スペイン最後のイスラム王国は崩壊する。
イスラム教徒の象徴であったモスクは取り壊されるが、尖塔だけは鐘楼として残されたという。
ヒラルダの塔は頂上まで上がれる。
上がれるというと、無理をしてでも上がってみようというのが人間の心理である。
ヨーロッパ各地で上った塔はみな階段で、休み休み上ったがヒラルダの塔は階段ではなく、初めてスロープだった。
イスラム教徒が馬で上るためスロープにしたそうで、実際上ってみてスロープのほうが楽に感じた。
360度見渡せる展望台から見るセビリアの町は、緑と落ち着いた家並みで、観光国際都市にふさわしい街並みだ。(写真上)
セビリアだけでなくスペインでは、中世の歴史的建造物がよく残り、あちこちの街自体が世界遺産に指定されている。
ヨーロッパを二分して戦った第二次世界大戦で中立を守ったため、空襲を受けることがなかったという。
< キリスト教徒の繁栄 >
イスラム教徒に代わり、セビリアを占拠したキリスト教徒は、イスラム教のモスクに代わって15世紀、後世の人が「正気の沙汰ではない」と思うほどの巨大な聖堂を意識して建設した。
セビリア大聖堂は、ローマ・ロンドンの大聖堂とともにヨーロッパ三大聖堂の一つとなっている。(写真左)
イスラム教の尖塔とキリスト教の大聖堂が相接して共存しているのも興味深い。
このセビリア大聖堂にある数々の宝物には目を見張った。
これはアメリカ大陸を発見したコロンブスと密接なかかわりがあるという。
好奇心がふつふつと沸いてくる。
< コロンブスの足跡 >
セビリアは直接地中海には面してない。
地中海から80キロほど内陸部に食い込んではいるが、川によって地中海と通じており、中世港湾都市として発展した。
15世紀、スペインの女王の支援を得て船出したコロンブスは、西へ西へと向かえばインドに到達すると思い、ついに1492年アメリカ大陸を発見する。
といってもコロンブスは死ぬまで到達したところは、インドだと思っていたらしい。
大陸から運び込まれた莫大な金銀香辛料などの交易品、大半が略奪品だったらしいが、川を遡ってセビリアに運び込まれた。
セビリアは大陸との交易を一手に握り、独占港として繁栄した。
アメリカ大陸発見の年次を、コロンブス アメリカ発見 石の国(1492)と覚えていたが、石なんてとんでもない。
ピッカピッカのひかり物だった。
女王の頭にのせられたという金銀エメラルドが散りばめられた、顔よりはるかに大きい王冠の数々、そのひかり物が大聖堂に陳列されていた。(写真下左)

中央礼拝堂には巨大な黄金のレタベル(祭壇衝立)があった。(写真上右)
高さ23m、巾20mのレタベルには千体以上の彫像で、聖母マリアとキリストが眩いばかりに輝いており、使われた金は2.5トンに達するという。
大聖堂の内部を歩くと、金銀がこんなに身近にあってもいいのかと思うほどあふれている。
記録によると新大陸からセビリアに持ち込まれた銀は、登録されたものだけでも160トン余り、それまでヨーロッパが保有していた銀の3倍に相当し、金も18万トンで全ヨーロッパの5分の1に達していたという。
< コロンブスの棺 >
その大聖堂にコロンブスの棺があった。
コロンブスの晩年はおちぶれて、悲惨な末路だったという。
後になって、まさかこんなところで丁重に葬られているとは、当のご本人もびっくりのことだろう。
コロンブスはドミニカに葬られたが、その後一度キューバに移され、19世紀末のキューバ独立の際にスペインに返還された。
本物かどうかといううわさは絶えずあったというが、コロンブスの子孫とDNA鑑定したところ、一部の骨が一致したということがつい最近わかったという。
ガイド曰く「いろいろ混ざっているかもしれないが、コロンブスの骨もあったということでしょう」
そのコロンブスの棺は、当時のスペインの4つの国の王によって担がれている。
その一つがカスティーリャ王、その着ているものが文明堂のカステラの包装紙に似ている。(上写真の左の男)
カステラはスペイン語の外来語である。
なにか「かんけい」ないかしら。
セビリアの町にはオレンジがあふれていた。
ヒラルダの塔(写真左手前)と大聖堂に囲まれた中庭は、オレンジの中庭として知られている。
イスラム教の信者がここで沐浴したところで、キリスト教の時代になってオレンジが植えられたという。
支配者は自分たちの宗教の優位を示すため、常に破壊と建築を繰り返す。
ところがここではイスラムとキリストとの見事な調和が見られた。
ガイドはダイナミックなスペインの歴史を現していると解説する。
黄色くて大きいオレンジの実がたわたになっていた。(つづく)
札幌:望田武司
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この記事についてつぶやくイベリア半島への旅(3)
~ コルクの木 ~
コルクといえば多くの人はワインの栓を思い出すことだろう。
そのコルクはコルクの木からつくられているという。
世界で生産されるコルクの80%はポルトガルとスペインである。
コルクの木ってどんな木だろう。
今回の旅で楽しみにしていたコルクの木とのご対面が意外に早く訪れた。
< 灼熱の国境地帯 >
私たち一行は大西洋に面するリスボンを後にして、スペインに向かうため内陸部に向かった。
細長いポルトガルとスペインの国境までは車でおよそ2時間である。
もともと人口の少ないポルトガルは、リスボンを離れるとすぐ潅木の原野となり、雨の少ない地域なのだろうか、赤焼けた土が目だってくる。
途中トイレタイムでバスは止まった。
降りると灼熱の暑さで、気温は30度を越えている。
しかし湿度が低いため木陰は和らぐ。
樹高10~15mのずんぐりとした木々が生えており、ガイドはこれがコルクの木だという。
近寄って観察すると、手の届く範囲の樹皮の一部がすべて剥がれていた。(写真右)
まるで、因幡の白兎が皮をはがされたようだ。
豊かな毛を刈りとられた羊のようにも見える、また雪で食べ物がなくなったエゾシカによって、樹皮をすっかりかじられた木のようにも見える。
< コルク樫 >
一般的に樹木は幹のすぐ内側に、コルク質の細胞の層がある。
コルクは細胞壁が厚くなった死細胞で、多孔質で弾力がある。
こうした性質を持つコルク層は、ワインの栓にぴったりなのだろう。
コルク層を持つ木からすべてワインの栓ができるかというと、そうでもない。
コルクの木と言われているのは「コルク樫」といって、ブナ科の常緑の樫の一種である。
英語では Cork oak と呼ばれている。
地中海の温暖な気候を好み、イベリア半島・イタリア南部・北アフリカで育つ。
オーク類にはコルク層の発達したものが結構あるが、厚くて最上のコルク層はコルク樫だという。
小休止したみやげ物店には、コルクでできた財布からバッグ、籠や置物までさまざまな製品が並べられていた。(写真下)

これらは厚いコルク層からワインの栓をくりぬいた後のコルクを再利用してつくられたもので、高級材としてのコルクボードまであった。
樹皮を剥がされたコルクの木は枯れることはなく、自然に再生され、8~10年もすると、また剥がされるという。
コルクは自然のエコロジーともいえる。
きれいに樹皮が剥がれたコルク樫のそばに、樹皮をほじくった形跡のあるコルクの木があった。
観光客が自分の目でコルク層を確かめたかったのだろうか。
とてもよく理解できるいたずら痕だった。
キハダの木に黄色の肌を確認しようと、よくこうした樹皮が見られる。
国境に向かう車窓から見える木のほとんどはコルク樫である。
延々と連なっている。(写真右)
コルクはポルトガルの重要な外貨獲得物で、日本が輸入しているコルク栓の9割は、ポルトガル産であるという。
コルク樫については、かねてから北大植物園の元園長から話をきいていたが、初めて観察でき、旅一番の収穫となった。
長い年月をかけて環境に順応して、自らの体を変化させて生き続ける植物の生命力に、改めて感嘆した。
< ローマ時代の遺跡群 >
バスは国境を越えてスペインに入ると、メリダという小都市に入った。
メリダは昔は交通の要衝で、ローマ時代の遺跡が多く残されていた。
1万4000人を収容したという円形劇場や、圧倒的なスケールを誇るローマ劇場が、紀元前にこんな田舎に建てられていたと思うと驚きだ。
当時は相当の大都市だったのだろう。
ローマ時代の遺跡が多いメリダは「小ローマ」と呼ばれており、遺跡群は世界遺産に指定されている。
写真左:円形劇場、写真右:ローマ劇場

ガイドの説明を聞きながら歩くも、炎天下に遮るものがないとなると見物も楽ではない。
今朝のテレビの天気予報では内陸部の最高気温は38度といっていた。
円形劇場では、ライオンがでてきたという通路の日陰に入って休む。
捕虜にした人間とライオンの戦いをみて、古代ローマ人が楽しんだ公共施設である。
人間のもつサデステックな一面を満たした遺跡は、後日見物した現代の闘牛にも通じるものがあるのかもしれない。
朝リスボンをたったバスは、メリダを経由して、スペイン南西部の大都市セビリアまで走った。
走行距離をドライバーに尋ねると、ざっと500キロだという。
これは札幌からあちこち植物観察して、根室に至るに相当する。
いつも強行軍だと実感する距離である。
新幹線で言えば、東京から名古屋を経て京都までの距離にほぼ匹敵する。
暑さの中よく移動したものだ。
午後9時すぎの夕食もそこそこ、シャワーを浴びてバタンキュー。
スペインでは夜9時でもまだ明るい。(つづく)
札幌:望田武司
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この記事についてつぶやくイベリア半島への旅(2)
午後10時、リスボン空港到着直前の、夜景に目を見張った。
郊外にまで延びる街路灯が整然として、幾何学模様で道路を浮かび上がらせている。色も落ち着いたオレンジ色一色だ。
こんな美しい夜景を見たことはない。
函館や神戸・長崎、香港の夜景を上回る。
咄嗟にポルトガルって何で食っているのか、と思った。
15~16世紀にかけて世界を制覇したいわゆる大航海時代以降、ぱっとしてない国だと思っていたが、どうやら私のほうが認識不足のようだった。
< 大航海時代の栄光 >
リスボンにあるポルトガル一番の歴史的建造物、ジェロニモス修道院を訪れた。
この修道院の白亜の回廊にも驚かされた。(写真右)
正方形の中庭を囲むような回廊は、石造りの重厚な白い2階建てで、アーチには華麗な装飾が施されていた。
大航海時代の香辛料貿易で得た莫大な富がつぎ込まれたマヌエル様式の最高傑作だそうで、世界遺産にも指定されている。
ポルトガルがもっとも輝いていた時代の象徴なのだろう。
これらの富をもたらしたのは、アフリカ最南端の喜望峰を経て
インド航路を発見したバスコ・ダ・ガマである。
バスコ・ダ・ガマの棺は、修道院に入って左側に安置されていた。(写真左)
ポルトガルの英雄で神様として祀られているのだろうか。
修道院のすぐ近くに大西洋にそそぐテージョ川がある。
その河畔に世界制覇のために出航する帆船の形をした巨大なモニュメントがあった。
大航海時代の幕を開いたエンリケ航海王子の500回忌を記念して1960年に建てられたという。
名づけて発見のモニュメント。
高さ50m以上ある舳先の先頭に立っているのがエンリケ王子、1人おいて3番目がバスコ・ダ・ガマだという。(写真左)
こうした建造物はテレビなどで時々拝見するが、何の感慨もなく荘重なコメントも右の耳から入って左の耳から出ていく。
ところが目の当たりにすると、その歴史的事実を体がしっかり受け止め、充実感に満たされる。
このモニュメント前の広場に、ポルトガルが世界に進出した地図が描かれていた。(写真下)
日本列島も刻まれており、年次が1541年と刻みこまれていた。
あれ?
種子島にポルトガル人によって鉄砲が伝来したのは年とは違うとおもった。
鉄砲伝来、銃後の良さ(1543)
中高校時代、歴史はこうした語呂あわせで覚え、いまだに忘れないで出てくる。
ガイドによると、ポルトガル人は種子島の2年前に、九州のどこかに漂着して上陸しているのだという。
鉄砲伝来は戦国時代だった日本国内の戦いに、劇的な変化を与えたが、ポルトガルにとってそんなことはどうでもよく、漂着であれ、日本を発見した年の方が重要だということなのだろう。
< ユーラシア大陸最西端 >
リスボンから車で1時間弱、ユーラシア大陸最西端というロカ岬を訪れた。
風が強くて樹は生えてなく、岩肌に咲き残りの野花がへばりついていた。(写真下左)
なんとなく根室半島先端の納沙布岬を思い出す。
短い時間でも黄色・ピンク・白など9種類の野花が観察できた。
同じ岬でも雨の降る北海道の植物とは違って、葉が多肉質で光沢があり、少雨で塩分を含んだ海風に耐えれる植物が岩肌を覆っていた。

岬のレストランの売店で、花を撮った絵葉書がないかと尋ねると、そんなものはないという顔をされた。
南国ポルトガルの商売は、日本と大分違うと思った。
一番目立った黄色い花は帰国して調べてみると、カルボブローツス・エドゥリスというツルナ科の花だった。(写真上右)
日本のマツバギクに似たような花と書かれていた。
岬の先端にたつと、大西洋が一杯に広がっている。
大航海時代ポルトガル人は、この大海原に乗り出して、各地の海賊を打ち破り、世界をわがものにしたのかと思った。
岬にユーラシア大陸最西端を記念する碑が立っていた。(写真右)
ここに地果て 海始まる と刻みこまれていた。
これを詠んだ詩人カモンエスの棺は、ジェロニモス修道院の通路の右側に、左側のバスコ・ダ・ガマと対をなすように安置されていた。
ふとロカ岬がユーラシア大陸の最西端なら、日本は東端ではないかと思った。
いまは陸続きではないけど、太古の時代日本列島はユーラシア大陸から離れて島国になった。
北海道十勝の幕別町忠類地区で、大陸とつながっていたことを証明するマンモスの化石が、日本列島では初めて1969年、ほぼ完全な形で発掘されている。
(写真左:復元されたナウマンゾウ、北海道開拓記念館)
約12万年前という。
そうか、今度の旅はユーラシア大陸の東端から、最西端に来たのかと思った。
そう思うと、旅の味がさらに深まった。(つづく)
札幌:望田武司
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この記事についてつぶやくイベリア半島への旅(1)
どんなに遠い国でも身近に感じる国もあれば、やはり遠い国もある。
私にとってフランスやイタリアは近くても、その隣のポルトガル・スペインはとても遠い国であった。
せいぜい鉄砲伝来か、闘牛・フラメンコ、それにサッカーの盛んな国ぐらいの認識しかない。
そのイベリア半島に行きませんかというお誘いが、趣味の囲碁サークルからあった。
碁学は少しできても語学のほうは全くだめ、外国語のガイドで各地を回っても寝るのがオチとわかれば、折角のお誘いにも躊躇する。
ところが旅行会社の社長が大の囲碁好き、長らくスペインに住んで当地で囲碁普及の礎を築き、両国の文化交流に功績があったとして外務大臣表彰を受けた人である。
囲碁愛好者がスペインに見えるとならば「全行程ベテランの日本人ガイドをつけましょう」といってくれた。
遠い国も近くに感じる絶好の機会といえる。
あとわずかな人生、地中海の入り口をふさぐような形で大西洋に突き出ているイベリア半島に向けて、アクセルを踏んだ。
< 手談で交流 >
一行は「日本メール碁会」の会員である。
メールで全国の囲碁愛好者と碁を楽しんでいる仲間である。
碁盤のソフト画面に一手打ってはメールで送り、相手も一手打っては送り返してくる。
旅に出て不在のときは数日間メールは途絶え、たまたま共にパソコンの前に双方座っていれば、一日に数手進むこともある。
メールが入っていれば自分の手番だ。いつ打ってもよい。
大会の持ち時間は二人合わせて半年間である。
会ったこともない全国の会員と勝負がつくまで250回ほどメールを 交換し、季節の候などを添え書きしていると、次第に昔から知っている錯覚に陥る。
対局者のイメージが勝手にでき上がるのが面白い。
碁は相手がいなければ打てないが、目の前にいなくても打てるのがメール碁である。
世の中便利になったものだ。
このメール碁会、生き生きとしたシニア世代の優秀団体として、その筋から全国表彰を受けたこともある。
首都圏の会員が大半であるため、単にメールだけでなく、定期的に顔を合わせて他のサークルと懇親対局をしたり、囲碁とは別に各地に見学会を催して見聞を広めているようだ。
地方にいると参加はできないが、メールで碁が打てるだけでもこれまた楽しと思って会員の末席に名を連ねている。
< 日本インフルエンザ? >
幹事のご尽力で、スペイン旅行計画が1年かけて順調に進んでいる中、突然出発1ヶ月前、目に見えない微生物が私たちの行く道をふさいだ。
新型インフルエンザ騒ぎである。
メキシコに端を発した新型インフルエンザは、瞬く間に世界に蔓延し、こともあろうにスペインがヨーロッパ最大の流行地になっていた。
中止か、延期か、続行か、(写真上:スペインの首都マドリード)
参加者は社会の第一線を退いて、静かに余生を送っている人たちばかりである。
出発直前なので、それなりのキャンセル料は痛いが、ここは無理することないという気持ちになっても当然のことだろう。
ところが危機に対してきちんと対応し、相手を討ちのめすことこそ囲碁の真髄と思っている人が多いのか、アンケートの結果参加者は少し減りはしたものの企画は決行された。肉体は衰えても精神は若者だ。
幸いなことに出発時には、それほど強い症状ではないこと、
年配者は罹りにくいなど追い風となる情報が出回った。
万全の体制をとり出発したが、スペイではマスクをする市民は皆無で、ニュースにもなっていなかった。
参加者の中押し勝ちである。 (写真上:ポルトガルの首都リスボン)
スペイン在住の日本人社長曰く「大騒ぎをしている日本とスペインとの落差がありすぎ、地元では日本インフルエンザと言っています」(つづく)
札幌:望田武司
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