あか

お茶の間の邪馬台国論⑯

 曹一族はせっせと西域経営に力を注いでいました。
 その甲斐あって、220年から西域諸国の朝貢が始まり、229年には西の大国、大月支(だいげっし)王国の入 朝を実現しました。先にもお話したとおり、古代中国では、外国との交易を「対等貿易」とは考えず、蛮夷(ばんい)の国々が、中華の皇帝の徳を慕って、はるばるやってきたと考える訳ですから、曹一族にしてみれば最高の慶事で、得意の絶頂であったというべきでしょう。
 司馬氏はこの時点ではまだ、主筋を滅ぼして覇権を奪おうとは、はっきりと思っていなかったのではないでしょうか。
 明帝が崩御(ほうぎょ)し、斉(せい)王の曹芳(ほう)が即位するや、明帝の遺言で曹爽(そう)と司馬懿とが後見を委嘱されたにも拘わらず、、曹一族が次第に司馬氏を政権から遠ざけようとしたことから次第に決起の意志を固め始め、ついに249年のクーデタに及んだのではないかと思います。

 ともあれ、禅譲を完遂するに当たって、司馬一族が手にしたかったものは、曹一族を凌ぐ栄光の事績と評判でありました。
 曹一族の栄光の事績といえば、何といっても大月支国の入貢に他なりません。
 司馬氏がいかにこの快挙を意識し続けていたか…、それは「三国志には西域伝がない」という一事でも分かります。
 何しろ魏王朝はここまで三代、とくに天命が遠のくほどの過誤は見当たらないのです。宿敵であった、蜀はすでに滅び、呉もすでに時間の問題と思われました。
 天下統一も夢ではなかったのです。
 養子とはいえ、明帝から後事を託された曹真、曹爽親子が行った大月支入貢の快挙は、まだ20年前のことでしかありません。
 司馬氏は、世論が「司馬氏が帝位を継いでも良い」というように傾く材料を渇望していたに相違ありません。(以下、次号に続く)

松戸:高見航毅

お茶の間の邪馬台国論⑮

このままでは、邪馬台国の位置は判らず仕舞いになってしまうのでしょうか。
「ひとつ」だけ方法があるような気がします。
 これまでは、倭人伝の「文字」だけに拘り過ぎていた、倭人伝の一字一句に四方八
方から光を当てて精査する一方で、行間に滲む陳寿、張華、司馬懿の心の葛藤には、眼を向けてこなかったのではないでしょうか。
 いくら文字の国、中国の国史とはいえ、歴史書の編纂に携わった人達の「思い」が
宿らないはずがないと思いますので、ここを検証しないでおくのは、むしろ片手落ち
というべきでしょう。
 またそれが「三国志を泣かせない道」だと思うのです。

魏と晋とは、どちらも前王朝からの禅譲によって覇権を受け継いだことは前述しま
した。後漢から魏へ、魏から晋へという具合です。
 しかし、同じ禅譲と言ってもいささか事情が異なります。
 後漢は霊帝(れいてい)の時に起こった黄巾(こうきん)の乱で、王朝の土台を根底
から揺さぶられ、宦官(かんがん)や外戚のせめぎ合い、続いて董卓(とうたく)など
、後釜を狙う軍閥の台頭によってさらに疲弊したところに、魏・呉・蜀の三国鼎立の争
覇戦によって、誰もが後漢王朝の終焉を確信するようになっていました。とくに董卓にいたっては、皇帝を廃して自分が帝位に就くということまでやってしまいました。
 そこで曹操が献帝を擁立し、ついで曹操の長男の曹丕(そうひ)が禅譲を受けて、魏の文帝となるという手順を踏んだのです。

 一方の晋は、禅譲とはいえ主筋の曹一族のクーデタで滅ぼして、晋王朝樹立の糸口を開きました。クーデタの首魁である司馬懿が禅譲のお膳立てを始め、次いで次男の司馬昭(しょう)が引き継ぎ、そしてその子の司馬炎(えん)が晋王朝を開くまでに、三世を費やしているのです。
 つまり、それだけの時間をかけて、根回しや説得をして回らなければならないほど世間の批判を気にせざるを得なかったということでしょう。

 また魏朝の後半は、実は司馬氏の事跡に彩られています。
 年表を良く見ていくと、明帝の晩年までは、曹一族の活躍が目立っています。この頃司馬懿は野戦司令官として呉・蜀と対峙し、常に戦陣にに明け暮れていたようです。
 ただしこの間に、兵士達との間に相互信頼感を扶植していたものと考えられます。
 これが後年のクーデタのときに物を言いました。(以下次回に続く)

お茶の間の邪馬台国論⑭

 しかし、なにも雨の夜道を行った訳でなく、やはり郡使の通行は早朝から日没までと考えるのが自然です。太陽と星の位置で、あやまらずに方角を認識できたことでしょう。たとえその日が雨で、方角の識別が困難だったとしても、案内に立った倭人に聞けば判るはずです。
 またこういう考えもできます。
すなわち、狗耶韓国~対馬国、対馬国~一大国、一大国~末盧国は、いずれも黒潮を横断する航路ですが、なぜか、対馬国~一大国しか方角の記載がありません。
 それはともかく、時速が最大7kmの海流を数時間かけて東南に乗り切ろうとすれば、40~50kmは東へ流されますから、舳先(へさき)は常に南へ向けて航行するはずです。
また末盧国~伊都国の場合は末盧国が呼子であれば、前半の行程は南行になりますし、奴国~不弥国は、不弥国の特定がされていませんから何とも言えません。
 宇美であれば東南と言えないこともありませんし、津屋崎あるいは遠賀川下流域説をとれば北東になります。
 このように一口に「南へ45度ずれて表記している」と言って、投馬国、邪馬台国の方角を東に振って、畿内にもっていくのはとても乱暴な話に思えるのです。

③伊都国から先は、直列に繋がるのではなく、伊都国→不弥国、伊都国→投馬国、伊都国→邪馬台国と放射状に考えるべきである。(九州説)

 中国の学者に言わせると、漢文にこういう読み方はないと断言します。またこう読んでも、肝心の投馬国と邪馬台国までの所要日数の説明は、かなり苦しいと言わざるを得ません。

④「水行十日、陸行一月」は帯方郡から女王国までの、全行程の所要日数である(九州説)

 
これも漢文の正しい読み方とは、とても言えないのだそうです
 また後で述べますが、当時の航海術では、時速7kmの速さでとうとうと流れる対馬海流をわずか十日で乗り切ることは、とても難しいことだと思います。

⑤倭人伝に表記している里数は、魏晋朝に一部でしようされた(と言う)短里(一里=約90m)によっていると思われる(九州説)

 短里があったかどうかは別にして、先にも触れたように、一国の軍事報告や公式の記録に、複数の里単位が使用されるようなことは、絶対に考えられないと思います。
 邪馬台国を九州に比定しようとすると、必ず「距離の暗礁」に乗り上げ、また畿内に比定しようとすると「方角の谷」に阻まれるのです。
 そこでいろんな説を考え出しては、涙ぐましい検証を繰り返してきたのですが、以上のように、畿内説にしても九州説にしても、「スポッ」と嵌る(はまる)もの、すなわち誰もが納得するような説明ができないでいるのです。
 それもこれもひとえに、倭人伝の表記には、邪馬台国の位置を決定づけるための必要十分条件が具備されていないと言うほかないのです。(以下次回に続く)

(以下の図はクリック→拡大してご覧ください)

         大邪馬台国.jpg          放射式読み方.jpg     

松戸:高見航毅

お茶の間の邪馬台国論⑬

七 行程記事の解析

いよいよ倭人伝最大の謎の一つに挑んでいきましょう。
次表にあるように、帯方郡から不弥国までの、倭人伝に表記された距離の合計は1万700里になります。
しかるに、前段の末尾にあるように「郡より女王国に至るまで、万二千余里」といいますから、不弥国から女王国までは1300余里ということになります。
ところが、別に「南に水行二十日で投馬国」、邪馬台国へは「さらに南に水行十日陸行一月」もかかると書かれているのです。
1300里というと、狗耶韓国~対馬国、対馬国~一大国、一大国~末蘆国がいずれも1000里となっていますから、これらの距離よりは少し遠いと考えられます。
こららの距離の実測値は、それぞれ120km、100km、30~40kmとバラツキがありますが、おおよそ100~150km位ではないでしょうか。
どう考えても、水行二十日+十日と陸行一月もかかるはずはありません。
これまで多くの先達が、この矛盾した二通りの表記を前に、いろんな智恵を絞ってなんとか辻褄(つじつま)を合せようと苦労してきました。

①1300里をそのまま425m×1300=550kmと換算して、水行二十日+十日+陸行[一月は一日の間違い]なら概ね辻褄が合うという説(九州説)。

[初めに九州説ありき]という、安易で根拠の乏しい、勝手な改竄(かいざん)は絶対に認められません。
それに帯方郡~不弥国の1万700里に同様な換算をあてると、4500kmにもなり、ぜんぜん説明がつかなくなります。

②倭人伝の方角は、すべて南に45度ずれている。南は東南、東南は東と読み替えるべきであるという説(畿内説)。

こちらは[初めに畿内説ありき]の勝手な改竄です。
帯方郡から邪馬台国までの9行程のうち、方角は書かれているのは、「倭人在帯方東南大海…実際も東南」「又南海一海(→一大国…実際は東南)」「東南陸行(→伊都国…実際は東)」「東南至奴国(→奴国…実際は東)」「東行至不弥国(→不弥国…宇美も津屋崎も博多の東)」の5ヶ所です。そのうち確実に南にずれて表記していると
言われている部分が、たしかに3ヶ所あります。つまり3分の1がおかしいということになります。(以下次回に続く)

松戸:高見航毅

地図と付表あり(詳しくは拡大してください)

邪馬台国.jpg 行程表.jpg 行程表②.jpg

お茶の間の邪馬台国論⑫

南のかた邪馬台国に至る、女王の都する所にして、水行十日・陸行一月。官に伊支馬あり、次を邪馬升と曰い、次を邪馬獲支と曰い、次を奴佳デ(*)と曰う。七万余戸可り

(*)デは革偏に是

官名はそれぞれ「いきま」「みましょう」「みまかき」「ぬかで」と読んでおきましょう。          
ここでも七万戸という戸数は、どう理解すれば良いのでしょう。
いくら女王の都するところとはいえ、人口40万~50万人を擁する大都市は、ただ驚くばかりです。なにしろ紀元200年の楽浪郡の63000戸、40万人を凌ぐのですから。
それに「水行十日・陸行一月」という所用日数も信じられません。まるで帯方郡司まで引き返すような距離ではありませんか。
実際にこれを、行程記事のまとめとして、帯方郡~女王国の所用日数を表したのだと言う人もいるのです。もっとも中国の学者に言わせると、こういう漢文の読み方は到底できないということです。

女王国より以北は、その戸数・道里、得て略載すべきも、その余の傍国は遠絶にして、得て詳らかにすべからず。

「女王国より以北」は、これまで狗耶韓国→対馬国→(南)一大国→末廬国→(東南)伊都国→(東南)奴国→不弥国(南)邪馬台国と、倭国に入ってからひたすら南(東)行してきたわけですから、狗耶韓国~投馬国を指すと考えるのが自然な解釈でしょう。

次に支斯国あり、次に己百支国あり、次に伊邪国あり、次に都支国あり、次に弥奴国あり、次に国国好古都あり、次に不呼国あり、次に対蘇国あり、次に蘇奴国あり、次に呼邑国あり、次に華奴蘇国あり、次に鬼国あり、次に邪馬国あり、次に躬臣国あり、次に巴利国あり、次に支惟国あり、次に烏奴国あり、次に奴国ありて、男子を王と為す。その官に狗古智卑狗あり、女王に属さず。都より女王国に至るまで、万2千余里。

ここに列記されているのが「其の余の傍国」であろうと思いますが、それぞれ何と読むのか定説らしきものもありませんし、もちろん有力な比定地もありません。
また、ここに記載されている奴国は、前出の奴国とは違うのでしょうか。
また、「女王国以北」には記述のとおりの国々があるというのですから、「其の余の傍国」というのは女王国の東隣か西隣、あるいは南に広がっていると考えるのが普通でしょう。つまり「以北」の最後に記された国「不弥国」と、投馬国、邪馬台国間には「傍国」はなく、不弥国~投馬国~邪馬台国と連なっていると思うのですが如何でしょうか。なお「都より女王国に至るまで云々」については後に触れましょう。
〈以下次回に続く〉

松戸:高見 航毅

お茶の間の邪馬台国論⑪

東南に陸行すること500里、伊都国に到る。官を爾支と曰い、副を泄謨觚・柄渠觚と曰う。千余戸あり。世々王あるも、皆女王国に統属し、郡使の往来常に駐まる所なり。

前に紹介したように、伊都(いど)国(こく)は志賀(しかの)島(しま)の金印に刻まれた「委(い)奴(ど)国(こく)」のことだという説もあります。官名は普通「にき」「せもこ・へここ」と読んでいるようです。
この国は魏の郡使が倭国に来たときに必ず駐在する所とあり、なかには「帯方郡使」は、これより先には行っていないだろう」という説もあります。
また「世々王あり」と、王の存在を明記している唯一の国でありながら「千余戸」とは意外に少ないと議論のある所ですが、私はこれが実数に最も近いのではないかと思っています。郡使が必ず駐在して見聞が確かなうえ、この時代では最大級といわれる吉野ヶ里の環濠集落の人口が約1000人と推定されるからです。

この国は、現在の福岡県糸島郡にあたるというのが定説ですが、そうだとすると、唐津から30㎞、呼子からは30㎞となって、魏晋朝の里単位ではやはり百里前後しかありません。
方角も、唐津あるいは呼子からは東にあたりますので、やはり南に45度ずれています。もっとも、呼子からだと、初めの10㎞余は展望のきかない、リアス式海岸沿いの道を南へ、それから先は東北東に進むことになるのですが。

東南して奴国に至るまで百里。官をシ馬觚と曰い、副を卑奴母離と曰う。二万戸あり。東行して不弥国に至るまで百里。官を多模と曰い、副を卑奴母離と曰う。千余家あり。

奴国は現在の福岡市付近(灘の県)が有力とされています。しかし、糸島半島からは真東にあたり、やはり45度ずれた表記になっています。
また実測距離は20㎞ですが魏晋朝の里単位ではおよそ五十里ということになります。
官名は一般に「しまこ」「ひなもり」と読んでいます。

不弥(ふみ)国は博多の東10㎞の宇美とする説もありますが、ほかにも津屋崎や遠賀川の河口付近を比定する説も少なくありません。

この奴国、不弥国から風俗、風土の描写記事がほとんどなくなり、とくに奴国などは二万戸を有する大国でありながら、これっぽちの記事ですから「奴国から先の国へは、郡使は足を踏み入れていない」という説も浮上してくるのです。

南のかた投馬国に至る、水行二十日。官を弥弥と曰い、副を弥弥那利と曰う。五万余戸可り。

これまでは「里」によって距離が表示されてきましたが、ここから突然「所要する日程」に変わります。この点も後世の研究者のいろんな論議を惹起(じゃっき)する原因になってきました。なぜなのか。この疑問に対する私の考えを次の項で説明します。
「投馬国」は「とうまこく」あるいは「つまこく」と読み、宮崎県西都(さいと)原(ばる)や広島県の鞆(とも)、島根県の出雲(いずも)など、全国に多くの比定地があります。
また官名は「みみ」「みみなり」と読まれています。
それにしても五万戸という途方もない戸数はどうでしょう。これだと人口が約30万人前後と想像できます。首都でもないのにこんな殷賑(いんしん)な都市は、当時は少なかったでしょう。(以下次回に続く)

松戸:高見 航毅

魏使の行路.jpg

お茶の間の邪馬台国論⑩

始めて一海を度り千余里にして対馬国に至る。その大官を卑狗と曰い、副を卑奴母離と曰う。居る所は絶島にして、方は四百里可り。土地は山険しくして、深林多く道路は禽と鹿の径の如し。千余戸あるも、良田なく、海物を食らいて自活し、船に乗り南北に市糴す。

簡潔な表現ながら、対馬の風土・風俗が遺憾なく活写されています。  対馬の中心地は、弥生遺跡の出土状態から推して、今も当時も巌(いお)原(はら)に違いありません。金海~巌原の実測距離は約120kmですが、千里は425m×1000里=425kmで、やはり実測距離の3・5倍以上です。

又た南のかた一海を渡ること千余里、名づけて瀚海と曰い、一大国に至る。官亦た卑狗と曰い、副を卑奴母離と曰う。方は三百里可り、竹林叢林多く、三千許りの家あり。差田地あるも、田を耕すに猶お食らう足らず、亦た南北に市糴す。

対馬から瀚(かん)海(かい)を渡ったところというと、一(いち)大国(たいこく)は壱岐(いき)のことでしょう。別の本には「一支国」と表記してあるくらいですから、まず間違いないでしょう。

対馬と同様に簡潔な描写ながら、「南北に市糴す」と、フェニキア的海洋民族の風俗を巧みに活写しています。当時、三韓や伽耶および北部九州の国々には、今日のような厳密な「国境」の意識は少なかったのではないでしょうか。

官は対馬と同じく、「卑狗」「卑奴母離」となっていますが、一般には「ひく→ひ→彦」「ひなもり→夷守」と読んでいます。

壱岐も、その中心は昔も今も郷ノ浦です。巌原~郷ノ浦の実測距離は約100kmで、やはり1000里とは4倍以上の違いがあります。

また巌原から郷ノ浦はほぼ東南にあたり、方位も南に45度ずれています。

又た一海を渡り、千余里にして末盧国に至る。四千余戸あり、山海に浜うて居り、草木茂盛し、行くに前の人を見ず。好んで魚鰒を捕らえ、水の深浅となく、皆沈没してこれを取る。

末盧は松浦半島の唐津か呼子とされています。 しかし、郷ノ浦から唐津まで約40km、呼子までは30kmしかありません。魏晋朝の里単位で表しても100里たらずです。 ここまでは倭国の風土や風俗を簡潔、明快に紹介してくれています。

(以下次回に続く)

 

松戸:高見 航毅

お茶の間の邪馬台国論⑨

六 魏志倭人伝   行程記事
それでは「三国志、東夷伝、倭人の条(標点本)」を読んで行きましょう。  

倭人は帯方の東南の大海の中に在り、山島に依りて国邑をなす。旧百余国、漢の時に朝見する者あり、今、使訳通ずる所、三十国。

帯方郡は現京城(ソウル)付近で、日本は正しく東南に位置します。
「旧百余国・・・あり」は漢書の次の記事からの引用です。

「東夷天性従順、三方の外に異なる、故に孔子は道の行われざるを悼しんで桴(いかだ)を海に設け、九夷の外に居らんと欲す。故あるかな、夫(それ)、楽浪海中倭人有り。分かれて百余国と為す。歳時を以って来たり献見すと云う。」

(ある日ふと孔子は「私の理想とする道徳は、中国ではもうすっかり行われなくなったが、夷でも東夷は他の北狄・西胡、南蛮の三方と違って、天性従順であるという。なあ子(し)路(ろ)よ、いっそのこと私と一緒に海に筏を浮かべて、東に向かおうではないか」と云ったということですが、確かに、楽浪の沖合いに倭人の住む島があり、今でも毎年、郡に献見してくるといいます。)

つまり漢代にも、倭人は楽浪郡司に朝献していたと記されているのです。

郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍は南し乍は東し、其の北岸狗邪韓国に到るまで、七千余里。

帯方郡より倭に行くには、海岸に循(そ)って舟行し、南に東にし乍(なが)ら韓国(馬(ば)韓(かん)・辰(しん)韓(かん)・弁(べん)韓(かん)のいわゆる三韓)を歴(へ)て、七千余里で倭の北岸狗(く)邪(や)韓国(かんこく)(現在の金海付近)に到ります。

京城から韓国南岸の金海付近まで行くには、漢(かん)江(こう)を遡(そ)上(じょう)して、次いで洛(らく)東江(とうこう)を下るというルートが古くから開かれていましたが、この場合は、きちんと海岸に循いて水行」と書いていますから、仁川(じんせん)あたりからの海路によったと考えるべきでしょう。

韓国の西岸と南岸は複雑なリアス式海岸になっていますから、「乍南乍東」というのは極めて適切な分かり易い表現です。

そうすると「七千余里で倭の北岸」とありますから、この頃この辺りには倭人が韓人と混在していた(倭の領土であったかどうかは諸説あります)ことが分かります。

ここで帯方郡司(京城)~狗邪韓国(金海)の距離七千余里が問題になります。

魏晋朝の一里は425mですから、425m×7000里=2975kmにもなるのです。しかし実際は、京城~金海は直線距離で350km,海上を珍(ちん)島(ど)まわりで行くと約700km,ジグザグに行ったことを勘案して、仮に1.5倍しても1000kmにしかなりません。
つまり実際の距離の3倍以上の表記になっているのです。

一部には「別に『魏晋朝短里』というのが存在して、一里が100m弱であった。
三国志では、韓国以遠については短里が使われている。」という説がありますがどうでしょうか。

この距離は、郡使が目測や歩測で測ったものを中央に報告したか、あるいは土地の住民に聞いて報告したものだと思いますが、いずれも郡使が自分で実際に踏破しているのです。自分達がいつも公式の場で使用している里単位を探査報告には使用せずに、別の短い里単位で報告したり、又土地の住民が短里で答えたからといって、3倍以上も違う距離を、簡単に鵜呑みにして報告するようなことは、とても考えられません。

後に賽(さい)曹(そう)掾(えん)史(し)張(ちょう)政(せい)の軍事派遣もあったように、いやしくも一国の重要な報告の場で複数の距離単位が許されるという曖昧なことは、決してあるはずのないことだと思います。

ここには意識的に、いや陳寿を含めた晋の中央政府の、政治的な判断が働いていると思ったほうが良いように思えます。
では、なぜ七千余里なのでしょう。その理由はこの行程記事のあとに説明しましょう。(続く)

 

松戸:高見 航毅

お茶の間の邪馬台国論⑧

たとえば「邪馬壹(やまいっ)国(こく)」か「邪馬臺(やまたい)国(こく)」かという問題があります。

紹興本も紹煕本もどちらも「邪馬壹国」と表記されているか「壹(いち)」が正しい。本当にそう決めつけて良いのでしょうか。

確かにどちらの写本も「臺(だい)」が「壹」になっており卑弥呼の宋女(そうじょ)の「臺与(とよ)」までも「壹(い)与(よ)」と表記されてはいますので、なんの問題もなく「邪馬壹国」に軍配を上げたくなります。しかし魏志倭人伝は、そ後に成立したいろんな中国の史書の底本になっているという一面があるのです。たとえば陳寿のあと、7世紀頃までに成立した「太平(たいへい)御覧(ぎょらん)」に引く魏史や、「後漢書」「梁書(りょうしょ)」「隋書(ずいしょ)」などは、ことごとく「臺」になっています。つまり、これらの史書が底本にした「三国志」は「邪馬臺国」と表記されていたのではないかと考えられます。

このことは、①7世紀頃までは「臺」と表記された写本はあったが、「壹」と表記された写本はなかった、②もうすでに「臺」「壹」の二系統以上の写本が存在していた、のどちらかであったと考えられます。  本邦にもこのことに関わりそうな記録があります。

「日本書紀」が完成(721年)した翌年、朝廷は正確な読み方の講習会を始めました。書紀は当時の貴族の教養であった漢文を主体としながらも、やまと言葉や、古代朝鮮語までもが混じっていたからです。  初代の講師は太安万侶でした。

以後、講習会はほぼ30年おきに6回にわたって行われましたが、とくに平安期の講習会の内容は、「日本書紀私記」という筆録ノートの写本で詳しく知ることができます。このうち承平六年(943年)に始まった講習会の「私記」には、つぎのようなQ&Aが記録されているのです。

Q=邪馬臺、耶靡堆、耶麻堆という呼び名には、それぞれ異なった意味があるのか。

A=意味は同じである。みな「倭(やまと)」の音読である。

すなわち、このときのテキストには「倭」について上記3通りの表記があり、しかもいずれも当時は「やまと」と音読するように指導されていたことが分かります。

つまり日本書紀の編纂に当たり、我国の朝廷で採用されていた史料では、「臺・堆=と」という表記と読みが正しいとされていたことが窺われます。

「臺」という貴字は、3世紀の中国では、皇帝の邸閣以外には使用しないという論も一概には無視できませんが、かといって邪馬「臺」国はなかったとも言えません。

以前は邪馬臺と表記して「やまと」と読むのが当然で、「やまと=大和」というのがなかば常識と考えられた時期もありましたが、やがて大和(・)の「ト音」と邪馬臺(・)の「ト音」とは異なる音であるという論が出されて、今では安直には「邪馬臺=大和」とは結び付けなくなりましたから、ここはこれ以上「臺」か「壹」かを峻別する必要はないと思いますので、しばらく置いておくことにしましょう。

あまりこだわり過ぎると、「三国志が可愛そう」ということになりかねません。

(以下次回に続く)

 

松戸:高見航毅

お茶の間の邪馬台国論⑦

五 魏志倭人伝の信頼度~紹興本と紹煕本~

陳寿の著した魏志倭人伝の原本はすでに失われていて、現存する最古の写本は、約800年も後の南宋(なんそう)の紹(しょう)興(こう)年間に転写されたもので、一般に紹興本(1131年~1162年)と呼ばれています。

別に紹(しょう)煕(き)年間に写された(1190年~1194年)とも言われる紹煕本もありますが、こちらの方は、その成立年代にいささか疑いがありますし、本の素性としても芳しくないという評価があります。

しかし、どちらも所詮写本(筆者)ですから、850年の間転写が繰り返されるうちに、誤字・脱字が少なからず生じたであろうと思われます。

現に1924年に新疆(しんきょう)で出土した「呉史残簡(ごしざんかん)」は、6世紀の写本なのに、この紹興本と比べてみると、驚くほどの相違がありました。一部の人が言うように「紹興本 には唯の一字も転写ミスがない」と決め付けてかかるわけにはいきません。

もちろん根拠のない勝手な改竄も許されません。

ひとくちに写本といっても、その依って来たった履歴は一様ではないはずです。

つぎのような例題で考えてみましょう。(別紙参照)

原本を直接写本したものがA~Cの三冊あって、Aの孫写本Fが10世紀に著されたけれども、それは13世紀に失われた。さらに12世紀にも孫写本Eが顕され、これは16世紀頃までは伝わっていたらしい。

またBの孫写本Gが9世紀に行われ、これの曾孫写本が12世紀に二度行われ、転写した人は異なるが、それぞれの紹興本、紹煕本となって現在まで伝わった。  Cの孫写本は行われなかったが、Chaその後に編纂された魏志や後漢書の定本となったという例です。

このように書き継がれるなかで、絶対に転写ミスが生じないための条件を考えてみましょう。  まず転写を担当した人の性格や能力、さらには環境をはじめいろんな条件があげられます。複数の人で分担した場合は、バラツキ防止の管理がきちんと行われたかどうかも重要な問題になります。

また、そのときの転写の正確さだけでなく、そもそも手本にした被写本の質も問題です。紹興本の被写本は陳寿の原本だったのでしょうか。いえ、その可能性は極めて少ないと言わざるを得ません。やはり何代目かの写本を写したと考えるのが妥当でし ょう。

このように、陳寿から850余年も経って成立した紹興本を通して、原本の一字一句を云々するのは、どうも益のあることのようには思えません。

(以下次回に続く)

松戸:高見航毅

(別紙)

2魏志の写本.jpg

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