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お茶の間の邪馬台国論(26)

〔 三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう) 〕
 卑弥呼が魏の天子から下賜された銅鏡に、畿内を中心にした古墳から出土する三角縁神獣鏡が比定され、畿内説の重要な拠り所となってきました。
 この鏡は外縁の断面が三角形で内区には東王夫(とうおうぶ)や西王母(せいおうぼ)といった、中国の伝説に登場する神仙と、龍や虎といった獣が、レリーフ状に鋳出されているのが特徴です。
 この神仙と神獣の組み合わせの意匠で、さらに「三角縁二神四獣鏡」とか、「三角縁四神四獣鏡」などと区分して呼ばれています。
 また神獣が紐(ちゅう)(ヒモを通すための穴を穿(うが)った突起)を中心に、放射状に鋳出されたものと、同一方向に並んで鋳出されたものなど、若干の意匠の違いがあります。

 しかし三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡とするには、つぎのような問題点があることが、徐々に分かってきたのです。
 まずその一つは、この鏡は、本場であるはずの中国や韓国などでは、未だに唯の一枚も出土例がないのです。それこそ欠片(かけら)さえ出ていないのです。
 これに対し、「魏の政府が鏡を異常に大事にする倭国のために、特別に意匠した鏡ではないか」という説が出てまいりました。しかし、短期間に沢山の鋳造をしたのなら、鏡はともかく、鋳型の破片や工房の痕跡(こんせき)くらいは、出てきても良さそうなものではありませんか。
 さらに、魏ではぜんぜん使う気はなく、漢字の読めない倭人に下賜するだけのために、どうして「漢字による銘文」を施したのでしょう。後述する彷製(ほうせい)鏡*のように、簡略化した単純な模様にしたほうが、鋳型を作るのも簡単だし、鋳型の痛みも少なく同一の鋳型でより多く鋳出することもできたでしょう。

 二つ目は、下賜品目録には「銅鏡百枚」と書かれているのに、すでに国内で出土の知られている「舶載(はくさい)鏡*」だけでも300枚以上もあり、すでに亡失したものや、未発掘のものを考慮に入れると、実際にはもっとあったはずだ、というのがおおかたの見方です。
 又舶載鏡を模して、国内で作られたとされる「彷製鏡」まで包含しますと、夥(おびただ)しい数にのぼります。
 いや「百」というのは「たくさん」という意味で、実数ではないという説明もありますが、他の下賜品の数量は、どうも実数が書かれているように思われるのに、どうして鏡の数だけにそのような表記がされたのか、納得し難いところです。
 また、たとえ「たくさん」の意味としても、こんなにあるのなら「千」か「万」という表記をしたのではないでしょうか。
 そうすると、この時以外にも何度も朝貢して、そのたびに貰ったから、累計は100枚をはるかに超える数になっているという説も出てまいりました。
 さて読者の皆さんはどう思いますか。
  
 三つ目は、国内で夥しく出土しているといっても、すべて古墳時代の副葬品として出るだけで、弥生の遺跡からはこの鏡は出てこないのです。ある程度伝世(でんせい)してから副葬されたという説もありますが、漢鏡などは九州の弥生の墳墓から出土しているのに三角縁神獣鏡だけは、列島の東西で全く例外なく、100余年を伝世されて、古墳時代になってやっと一斉に副葬され始めた、と説明されても素直には納得ができません。
 やはり三角縁神獣鏡は魏の時代より後に作られたのではないでしょうか。

 四つ目は、大阪の和泉黄金塚(いずみこがねづか)古墳から景初(けいしょ)三年銘の鏡が出てきたことです。
 卑弥呼の使が、魏の天子へ朝貢した景初三年の銘のある鏡の出土は、本来畿内論者にとって多いに歓迎すべきニュースのはずでしたが、これは平縁画文帯(へいえんがもんたい)神獣鏡という中国でも呉の様式の鏡でした。
 ここでも大きな疑問があります。この鏡がその様式の示すとおり呉で作られたものなら、どうして「景初」という魏の年号なのでしょう。呉の「赤烏(あかみどり)」の年号がしかるべきではないでしょうか。現に山梨県で「赤烏元年銘(238年)の鏡」が出土しています。この鏡が中国で作られたことも疑わざるを得ないのです。
 続いて、待望の景初三年銘の三角縁神獣鏡が島根県で、さらには倭人伝に建中校尉梯儁(けんちゅうこういていしゅん)が倭国を訪れたと記述されている、「正始元年(景初三年の翌年)」銘の鏡が群馬県から出ました。
 しかし、いずれも畿内から遠く離れた地域で、畿内近くでは発見されていないため両者の関係を窺うべくもないのです。
 そしてついに景初四年鏡が出土しました。
 前述のとおり、景初という年号は三年までで、翌年は正始(せいし)元年に改元されました。もちろん中原の良民で知らない人がいるはずがありません。九州論者の中には、三角縁神獣鏡の舶載鏡も、中国からの帰化人が景初年間に渡来してきて、日本で製作したものでないのか。だからその後の魏の改元を知らなかったんだと主張する人がいますが、私にはこちらの説明のほうが納得できます。
 
 以上で、私は三角縁神獣鏡はすべて日本で作られた、少なくとも卑弥呼が魏の皇帝から貰ったものではないと思います。


* 舶載鏡 主として畿内論者が中国で作られたと主張する鏡。
      鋳造技術もしっかりしていて、内区の神獣や文字も精密な作りになってい   
      る。
* 彷製鏡 畿内論者が、舶載鏡に倣って日本で鋳造されたと主張する鏡。
      鋳造技術も悪く、神獣の彫りも不明瞭で、文字は簡略化された記号になっ
      ている。

松戸:高見航毅

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        三角縁神獣鏡」.jpg      有鉤銅釧の分布図.jpg

        

お茶の間の邪馬台国論(25)

女王国の東、海を渡ること千余里にして、復た国あり、皆倭種なり、又た侏儒国ありて其の東に在り、人の長三・四尺、女王を去ること四千余里。又た裸国・黒歯国ありて復た其の東南にあり、航行すること一年にして至るべし。倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或いは絶え或いは連なりて、周旋五千余里可りなり。

 女王国のさらに先にも、国々があることを紹介していますが、どうも女王国には服属していないどころか、通交もないように思えます。
 女王国の東は海で、その千余里先に倭種の国があり、さらにその南四千里のところに、身の丈1m前後の人が住むという小人(こびと)の国があります。
 またその東南、舟で1年位かかるところに、裸国(らこく)・黒歯(こくし)国があるとのことです。
 倭のあちらこちらを見聞して歩くのに、いずれも海中の島々に拠って、散り散りに住んでおり、倭国の周囲はおおよそ五千里ばかりと思われます。
 ちなみに五千里は、魏晋朝里で約2000km余で、九州本島の周囲は約1000kmですが、周辺の主要な島々を包含すると、それに近いということができます。

 景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わして郡に詣らしめ、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わして将て送りて京都に詣らしむ。

 景初(けいしょ)二年は、三年の間違いという説が有力です。
 二年は司馬懿が、それまで遼東に割拠(かっきょ)していた公孫(こうそん)氏をやっと滅ばして、帯方郡を置いた年です。翌三年遼東の安寧(あんねい)が確保されたところで、倭の朝献があったと考えるのが妥当でしょう。
 帯方郡太守の劉夏(りゅうか)は、郡吏を道案内につけて、洛陽まで送り届けたのです。
 倭国の優れた情報収集能力と、素早い対応が目につきます。
 
 その年の十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方太守劉夏、使を遣わして汝が大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝が献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉じて、以て到らしむ。汝が在る所、踰かに遠きも、乃ち使を遣わして貢献す。是れ汝の忠孝、我、甚だ汝を哀しむ。今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮えん。装封して帯方太守に付して仮綬せしむ。汝其れ種人を綏撫し,勉めて孝順を為せ。汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路に勤労せり。今、難升米を以て率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮え、引見労賜して還らしめん。今、絳地の交龍錦五匹・絳地の十張・絳五十匹・紺青五十匹を以て、汝が献ぜし所の貢直に答えん。又た特に汝に紺地の句文錦三匹・細班華景五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い,皆装封して難升米・牛利に付し、還り到りて録受せしめん。悉く以て汝が国中の人に示し、国家の汝を哀しむを知らしむべく、故に鄭重に汝に好物を賜うなりと。

 六月の倭国の朝貢に対しての、魏の天子からの詔書(しょうしょ)ならびに下賜品の目録です.
 ここまで遅くなったのは、この年に明帝が崩御(ほうぎょ)して、魏王朝は多端(たたん)であったからにほかなりません。
 ここで目立つのは、倭国からの献上品の粗末さに比べ、魏の天子からの下賜品の豪華さです。「まるで海老で鯛を釣るようだ」と松本清張氏を驚嘆させたように、倭国の献上品は男女の生口(せいこう)(奴隷)若干名と、班布二丈だけだというのに、卑弥呼を親魏(しんぎ)倭王に任じ、金印紫綬(しじゅ)
(王侯の印)を下賜したほか、難升(なしめ?)米と牛利(ぎゅうり?)にも位と銀印を賜うたうえ、目の醒(さ)めるような、様々な下賜品の目録が与えられたのです。(以下次号に続く)

松戸:高見航毅 

お茶の間の邪馬台国論(24)

九 魏志倭人伝 政治記事
 
 其の国、本と亦た男子を以て王と為し、住まること七八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。鬼道に事え能く衆を惑わし、年己に長大なるも夫壻なく、男弟ありて佐けて国を治む。王と為りてより以来、見る者あること少なり。婢千人を以て自ら侍せしめ、唯だ男子一人ありて飲食に給し、辞を伝えて出入す。居処の宮室・楼観・城柵厳しく設け、常に人ありて兵を持して守衛す。

 倭国はもともと男王が統治し、その王が在位すること七八十年の長きに及び、ついに倭国は乱れ、互いに相争う状態が長く続いて、疲弊(ひへい) することが一方(ひとかた)ではありませんでした。そこで互いに相談して、共に卑弥呼という女性を擁立して王としたところ、卑弥呼は鬼道(きどう)を良くして政(まつりごと)に容喙(ようかい)し、政治の方針を左右しましたが、その結果ようやくにして国々の争いは終息したのでした。
 卑弥呼は、今ではかなりの年令になっているということですが、まだ独身で一人の男弟が政治を補佐しています。
 また卑弥呼は、王となってからは宮室の奥に引き篭(こも)り、人目にふれることが滅多になくなり、多くの女の召使を身の回りに侍(はべ)らせ、ただ一人男子が食事の世話をしたり、彼女の言葉を外廷に伝えたりしています。卑弥呼の住む宮殿は、豪壮な宮室や楼閣からなり、それらを厳重な城柵が取り囲んでいて、常に武器を持った兵士が守衛に就いています。

 ここで、卑弥呼は中華人陳寿が考えるような「女帝」であったのか、単に神憑(かみがか)りをして、ご託宣を引き出す「巫女(みこ)」だったのか、意見の別れるところです。
 「鬼道」というのがシャーマン(卜占(ぼくせん))だとすると、大和朝廷が成立する以前から存在したとも言われる、大分県宇佐八幡宮の比咩神(ひめがみ)(宇佐使いのご託宣)との関係も気になるところですし、伊勢の斎宮(いつきのみや)、さらに最近発掘された、伝継体(けいたい)天皇稜の埴輪群の中の巫女像などを、卑弥呼の鬼道の痕跡(こんせき)とみることも、強(あなが)ち見当違いではないのでないでしょうか。
 これについての私の考えは、前に一大率の項で述べました。

 また「年己(すで) に長大」とは何歳くらいなのでしょうか。現代の私達の感覚で言うと、少なくとも八十歳以上でしょうが、当時の社会の概念ではどうなのでしょうか。
 いや当時の平均寿命では、三十代の後半で「長大」であり、卑弥呼は熟年の美女であったという説もあります。
 私も密かに、そうであって欲しいと願っている一人です。
 さらにまた「男弟」というのは、本当に卑弥呼の肉親なのか、「夫壻(ふせい)なし」という卑弥呼に、台与(とよ)という宗女(そうじょ)がいるのはなぜかなど、後世の読者の興味は尽きるところがありません。
 女王卑弥呼と施政者男弟との関係に似た仕組みが、近世まで南洋の島々には残っていました。すなわち原始的祭政一致の社会における「夜の祭祀を司る法王」と、その託宣をうけて「昼の政治を取り仕切る王」との関係です。
 我国でも、書紀の日本武尊(やまとたけるのみこと)の熊襲征伐の条に、「熊襲(くまそ)の王は兄弟で。夜は兄が祭祀を行い、昼は弟が政を行う」という記事があり、古代大和朝廷でも、垂仁(すいにん)天皇の妹の倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢の斎宮で祭祀を行った記事が見えます。
 倭姫命の墓と伝承される、大和の箸墓(はしはか)古墳(わが国3位の規模を誇る前方後円墳)築造の条の「この墓は昼は人が作り、夜は神が作った」という謎めいた記事も、このようなことを暗示しているのではないでしょうか。(以下、次号へ続く)

松戸:高見航毅

お茶の間の邪馬台国論(23)

その俗、国の大人は皆四・五婦、下戸も或いは二・三婦。婦人は淫せず、徒忌せず。窃盗せず、訴訟少なし。其の法を犯すや、軽き者は其の妻子を没し、重き者は其の門戸を滅す。及た宗族の尊卑、各おの差序ありて、相臣服するに足る。租賦を収むるに、邸閣あり、国国に市あり、有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。 

 倭人社会は一夫多妻制で身分の高い金持ちは4~5人の妻を持ち、そうでない人でも2~3人の妻を持っている人がいます。婦人は浮気もしないし、むやみに嫉妬もしません。また盗みもしないし、従って訴訟ざたになることは滅多にありません。もし法を犯すと、罪の軽いものはその妻子を没収され、重罪の者は其の家を断絶されるのです。

 また一族の中にも序列がきちんとあって、それぞれに心服し合っています。

 租税や賦役もちゃんと納められており、それを収納する府庫があります。

 国々には市が開かれて、盛んに交易がなされていますが、トラブルの起きないように、国では大倭(だいわ)という官吏を派して、監督させています。

 

 前項と並んで、この辺りはちょっと現実離れのした、理想社会が描かれています。

 前出の孔子の「道の行われる国」、或いは中国に古くからある「東方は神仙の国」という、中華の人々の憧憬(どうけい)が反映しているのではないかと言われていますが、私はもう一つ、陳寿、張華などの「倭はすばらしい君子の国」という作為が働いているのだと思います。

 

  女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国、これを畏れ憚る。常に伊都国に治し、国中に於いて刺史の如きあり。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣らしめ、及た郡の倭国に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・腸遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。 

 女王国より以北の国々とは、前出の対馬国~投馬国と考えるのが自然でしょう。

 それらの国々は、伊都国に常駐する一大率によって検察されていますが、一大率は中国でいう刺史(しし)(中央政府が派遣する郡県の検察官)のようで、諸国に畏(おそ)れ憚(はばか)られています。一大率は、女王が洛陽や帯方郡、あるいは三韓の諸国に使いを派遣するとき、また帯方郡司が倭国に使いを遣したときには、港で荷の査察を行い、文書や賜り物が間違いなく女王の手元に送達されるよう検察するのが役目です。

 

 一大率の派遣者が女王ではなく、帯方郡司ではないかという説があります。

 私は「刺史の如きあり」と中国の官名に例えているわけですから、やはり女王国が派遣した「倭国の官」と読むのが妥当であると思います。

 また洛陽、帯方郡の朝貢氏や、三韓への使い、および帯方郡から女王への使臣等(の荷物)を、臨海地で検察するというのですから、一大率は今でいう税関に相当する役目を負わされていたのではないでしょうか。

 後出の「倭国乱れ、相攻伐すること歴年」の主な原因は、非常に旨味のある中国や三韓との交易に関わることではないでしょうか。とくに後漢朝や魏朝との交易は(入貢)、わずかな貢物で豪華な下腸品が手に入るため、倭の臨海の諸国は、大陸の情報に耳を欹(そばだ)て、熾烈(しれつ)な競争を展開していたことでしょう。そこに利害の衝突が頻繁にあって、ときには戦におよぶこともあったでしょう。

 そのうち一定のルールが生じ、邪馬台国を盟主とした連合体制によって運営されるようになり、互いにルール違反をすることのないように検察するため、一大率が置かれたと思うのです。

 

  下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入る。辞を伝え事を説くに、或は蹲り、或いは跪き、両手は地に拠り、これが為に恭敬す。対応の声を「噫」と曰い、比するに然諾の如し。 

 身分の低い者が身分の高い者に道で会うと、あわてて道を譲って、道端の草の中に入り、何かをお願いしたり、伝えたりするときは蹲(うずくま)ったり跪(ひざまず)いたりして、両手を地につけて恭(うやうや)しい態度をとります。

 「あい」と相槌(あいづち)をしていますが、どうやら「分かりました」という応諾の意味らしい。(以下次号に続く)

松戸:高見航毅

 

お茶の間の邪馬台国論(22)

 其の往来・渡海して中国に詣るに、恒に一人をして頭を梳らず、蝨を去らず、衣服垢汚し、肉を食らわず、婦人を近づけず、喪人の如くせしめ、これに名づけて持衰と為す。若し行くこと吉善なれば、共に其の生口・財物を顧み、若し疾病あり、暴害に遭えば、便ちこれを殺さんと欲す。其の持衰謹まずと謂えばなり。

 中国にはない持衰(じさい)の風習を紹介しています。

 倭国から中国への遣使団等には、必ず持衰と称する人が一人決められるのですが、持衰は遣使団が往復して帰ってくるまでは、髪を梳(くしけず)ることなく伸び放題にし、体も洗わず、蚤(のみ)や虱(しらみ)を駆除することもせず、衣服も汚れるにまかせて、肉食も避け、もちろん婦人を近づけるようなこともせず、あたかも喪中の人のような毎日を強いられるのです。

 もし遣使団が往還何事もなく無事に生還すれば、生口(奴隷)や財物が支給され、反対に何か事故があったり、病に倒れる人がいたら、持衰の謹みが足りなかったということで、殺されることもあるのだそうです。

 この持衰が一行に随行するのか、また居残って待つのかは、意見の別れるところですが、南洋の島々では最近まで同様の風習が行われていました。

 また後に出てくる狗奴国との戦争において、女王国が負けたという説をなす人々がいます。この人達はその後の卑弥呼の死亡記事について、卑弥呼は持衰の役割を担っていて、負けたがために殺されたのだと解釈しています。  

 真珠・青玉を出だす。其の山に丹あり、其の木に(?つくり・冉)・杼・橡樟・櫪・投橿・烏号・楓香あり。其の竹に篠・桃支あり。薑・橘・椒・襄荷あるも、以て滋味と為すを知らず。猿・黒雉あり。

 倭国の産物と植生を紹介していますが、それぞれの読みと解釈に諸説あります。

 宝玉の類は真珠とヒスイを産出します。

 野や山にはタブの木や、トチ、クヌギ、ナラ、クス、スギ、カシ、ヤマグワ、カエデ等、ほぼ現代の日本と同じ、温帯樹林に近い植生であったことが窺い知れます。

 ただ私達に縁の深い松が書かれていません。一説によると松は温帯照葉樹林が後退するときに、替わっていち早く進出してくるので、邪馬台国のときが丁度、気候の変動期に当るのではないかという人もいます。

 ほかに生姜(しょうが)、橘、山椒(さんしょ)、茗荷(みょうが)等も自生するけれども、倭人はまだ食用とする道を知らない。また猿や雉(きじ)も住んでいると報告されています。

  其の俗、ことを挙い、行き来し、云為する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占う。まず卜する所を告ぐ。其の辞は令亀の法の如く、火を視て兆しを占う。

 倭人は何かをやろうとするときに、それぞれ異なる意見が出た場合には、獣骨を焼いて、その良し悪しを占います。その占い方は中国の亀卜(きぼく)のやり方のように、まず何を占いたいかを告げ(貞問(ていもん)の辞)、火によるひび割れをみて、ご託宣(辞(ようじ))とするのです。この辺りの記述はまったくシャーマンであり、大分県宇佐八幡宮に伝わる、兆(きざ)し竹による占卜のやり方と同じです。

  其の会同に坐起するに、父子、男女、別なし。人性、酒を嗜む。大人の敬する所を見れば、但だ手を搏ちて、以て跪拝に当つ。その人の寿考、或いは百年、或いは八九十年。

 集会などで大勢集まるときには、その席次に長幼や男女の別はありません。

 また人々は酒を好み、良く飲みます。

 身分の高い人に敬意を表するときも、ただ拍手(かしわで)を打つのみで跪(ひざまず)くことまではしません。倭人の寿命は八九十歳から百歳と大変な長寿です。

 

 なんとも陽気で闊達な社会が描かれています。儒(じゅ)の理想社会を反映しているのでしょうか。しかも大変な長寿社会です。もっとも倭人は春と秋で二歳、つまり年に二歳でカウントしていたからだという説もあります。

松戸:高見航毅

お茶の間の邪馬台国論(21)

  禾稲・紵麻を種え、蚕桑、緝績し、細緝、緜を出す。その他、牛・馬・虎・豹・羊・鵠なし。

 

 倭国の農業と、倭国には生息しない動物の記事です。

 稲や麻を栽培し、養蚕もして絹糸や綿糸を紡いでいます。

 また生息しない動物として、牛や馬をあげていますが、弥生時代後期の遺跡からは牛馬の骨が出土していますので、この頃は当然渡来していたと想定できますが、如何なものでしょう。

 これまでの風俗記事からは、邪馬台国が畿内にあったのか、また九州北部にあったのか、素人の私にはそれを嗅ぎ分けるヒントはまるで見当たりません。

 

 兵には矛・楯・木弓を用う。木弓は下を短くし上を長くし、竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃なり。有無する所は耳・朱崖と同じ。

 

 兵器についての記事です。矛(ほこ)・楯(たて)・木の弓を持った兵士の絵は、弥生時代の土器等に描かれています。とくに下が短く、上が長い弓の絵は、北部九州の古墳の壁画にも見ることができます。

 また大変に重要なことですが、鏃(やじり)について書かれています。

 倭人伝には、女王国ではすでに鉄器の文化が普及し始めていると、記述されています。しかも単純・簡潔な文章からは、鉄鏃(てつぞく)の割合がほんのわずかとは読み取りにくく、少なくとも五分五分以上と理解しても良いように思えます。

 弥生時代には、北部九州で鉄器の文化が始まっていたことが、200近い遺跡の発掘で判っています。三国志の東夷伝の馬韓の条にも、「馬韓は鉄を産出するが、馬韓人をはじめ、辰韓人、弁韓人それに倭人も混じって採取している」旨の記述があります。ところが畿内周辺からは、弥生の鉄遺跡といえるものが、ほとんどありません。

 畿内では4世紀の初頭、古墳時代になって、やっと鉄器が普及し始めたことが窺えるのです。

鉄は地中の酸によって腐食し易く、痕跡(こんせき)が残りにくいのですが、北部九州と畿内とで、そんなに土質に違いはありません。北部九州では残って、畿内では痕跡も残さないほどに腐食して消滅した、ということは考えられません。

 もし畿内論者の言うように、邪馬台国が畿内にあって日本の大半(例えば尾張以西)を統()べる政権だったとしたら、日本のどこよりも、鉄器による鋭い利器や農機具が普及していて、周辺を凌駕(りょうが)する軍事力や農業生産力を保持し、はたまた鉄釘を使用して頑丈な準構造船を作り、外洋に乗り出して莫大な交易の利をあげていたことでしょう。

 しかるに、鉄器文化の浸透が北部九州にはるかに遅れている事実をどう説明すれば良いのでしょうか。

 

 倭の地は温暖にして、冬夏、生菜を食らい、皆徒跣なり。屋室あり、父母兄弟、臥息するに処を異にす。朱丹を以て其の体に塗ること、中国の粉を用うるが如きなり。

 食飲には豆を用い、手もて食らう。


 

 倭国は温暖だから、一年中生野菜が食べられ、皆裸足で過ごしています。住宅内はいくつかの部屋に分かれていて、父母兄弟でも別々の部屋で寝起きしています。

 また丁度中国のお化粧のように、朱を体のあちこちに塗っています。

食物はたかつきに盛って出されていますが、食べるときは手掴みです。

 

 その死するや、棺ありて槨なく、土を封りて冢を作る。始め死するや、喪を停むること十余日、時に当りて肉を食らわず、喪主、哭泣し、他人、就来て歌舞飲食す。己に葬れば、家を挙げて水中に詣りて澡浴し、以て練沐の如くす。

 

 その葬送(そうそう)にあたっては、墓は棺(ひつぎ)だけで外郭(かく)は作らず、盛り土をして冢(ちょう)を築くとあり、あたかも竪穴(たてあな)式の古墳を思わせる描写ですが、古墳の発生はもう少し後と言うのが、今のところ定説となっており、中国では「冢」も「塚」とは墳丘の高さによって使い分けされ、1mに満たない低い盛り土だという説もあります。

 北九州に覆い甕棺(かめかん)墓や支石(しせき)墓、それに方形周溝墓(しゅうこうぼ)のどれかが、これに当るのでしょうか。岡山市の楯築(たてつき)遺跡の弥生墓、四隅突起形方形周溝墓には1mくらいの封土があったことがわかっています。 
   死者が出ると、喪主以下その家族は、十日余り喪に服し沐浴(もくよく)潔斎(けっさい)をし、死者を悼んで嘆き過ごすのですが、弔問に訪れた人々には酒食がふるまわれて、ついには歌い踊り出すのです。このあたり現代の通夜に通ずるものがあります。

 また東夷伝には、他の韓の国々にも似通った風習があったように記されています。(以下、次回に続く)

松戸:高見航毅

  新規邪馬台国21.jpg

お茶の間の邪馬台国論(20)

八 魏志倭人伝 風俗記事
 
 男子は大小となく、皆鯨面文身す。古より以来、其のえw使の中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身して、以て蛟龍の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕らえ、文身して亦た以て大魚・水禽を厭わしむるに、後稍く以て飾りと為す。諸国の文身、各おの異なり、或いは左にし或いは右にし或いは大にし或いは少にして、尊卑に差あり。

 中原の人々にとって、鯨面文身(げいめんぶんしん)(刺青)はとても珍しい風俗に映ったようで、多くのスペースを割いています。
 まず、大夫(たいふ)と自称して帯方郡司を訪れたことのある高官でさえ、男は皆刺青(いれずみ)をしているのに驚いています。
 
 太古の昔、夏王朝の六代の天子少康(しょうこう)が、会稽(かいけい)で没した租王の禹(う)の祭祀(さいし)が絶えぬように、子の無余(むよ)を会稽に封じると、無余は現地人に倣って刺青をし、彼らに交じって海に潜り、大魚や鮫に襲われるのを防いだという伝承があります。(別に、周の太伯(たいはく)が父王が弟の方に譲位したいと思っているのを知り、会稽の東夷の中に紛れ、文身して帝位を継ぐ意思のないことを体現したという故事もある。)
 倭人も初めは同じく護身のために刺青をしていたが、今ではただの飾りのためにやっているらしい。

 その道里を計るに、当に会稽・東冶の東にあるべし。

 女王国は、ちょうど中国の会稽・東冶(とうや)の東の海中にあると推定しています。
 ここで唐突に女王国の位置に関わる記事が出てきますので、文章にうるさい方は、「おやっ?」と思われるでしょう。
 行程記事が一応完結して、海に潜ったり、刺青をしたりなど風俗記事が始まったのに、また行程記事に逆戻り。「陳寿というのは案外悪文なんだ」と思われた方も多いでしょう。
 しかし読み進んでいくうちに納得されるはずです。
 陳寿がここで言いたいのは、女王国はかなり温暖で「南国の気候・風土である」ということなのです。
 どのくらい温暖なのか?
 すなわち「倭の地は温暖にして、擔耳(たんじ)・朱崖(しゅがい)と同じ(後出)」にかかることは明白で、中国の海南島付近に比しているのです。
 なお紹興本等では東「治」と記されていますが、「冶」の間違いとするのが定説のようです。東治という地名は中国の地名にありませんし、古田氏の「地名ではなく、少康の子の会稽王の治績を言う」というのも、あまりに穿った考えだと思います。
 またこの記事のせいで、一部の人々が誤解したのでしょうか。ずっと後の明代の建文四年(1402年)に、朝鮮で書かれた東アジア地図「混一彊理(こんいちきょうり)歴代国都の図」には、朝鮮半島の南に九州があって、本州、四国、佐渡、隠岐と思しき島々が、南のほうへ逆立ちして描かれています。
 
 其の風俗は淫ならず。男子は皆露?し、木緜を以て頭に招け、其の衣は横幅、但だ結束して相い連ね、略ね縫うことなし。婦人は被髪屈?し、衣を作ること単被の如く其の中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。

 倭人の服装です。
 男子は冠をつけることなく、木綿の布をターバン様に巻き、衣は幅広の長い布を縫い合わせることなく体に巻きつけて、丁度現代のインド人のような格好をしていたようです。
 女子は髷(まげ)を結って、単(ひとえ)の着物の真ん中に穴を開けて、被るようにしているというのです。こちらはまさしく貫頭衣(かんとうい)に違いありません。 
 今日の、熱帯から亜熱帯付近の風俗を彷彿(ほうふつ)とさせます。(以下次回に続く)

松戸:高見航毅

 邪馬台国20.jpg

お茶の間の邪馬台国論⑲

 さて弥生の航海はどのくらいかかったのでしょう。
 邪馬台国の時代から約400年後の7世紀末、柿本人麻呂が宮廷歌人として活躍していた頃は、「難波から播磨まで舟で5日の泊まり」というのが一般の概念でした。
 現代の大阪市難波付近から出発して、兵庫県の室津あたりまで行くのに、5日を要したというのです。つまり当時の舟行速度は、難波~室津100km÷5=20kmと、一日に約20km位だったと思われます。
 遣唐使船や遣新羅船などの、3世紀の弥生舟に比べれば、かなり発達した構造船でした。それにこの5日には潮待ち日数が入っていないように思えます。何しろ畿内の目の前の、常に往来している、言わば庭のような海のうえに、出発のときには、数日間は日和の良いときを選んだと思うからです。
 また難波~室津間は、家島諸島付近のほかには瀬や島の多い海域はありません。急潮の難所も、明石海峡一ヶ所です。
 それに比べ、室津から上関に至る約400kmの瀬戸内海は、瀬や島が多く、現代でも難所に指定される有名な海峡がいくつもあり、最後は名にし負う関門海峡、それに続いて玄界灘と、航行困難な海域が連続しているのです。
 とても室津までの速度は維持できなかったでしょう。日和待ちのロスを勘案して、15km/日がやっとだったのではないでしょうか。
 そこで、博多(奴国)~鞆(投馬国に比定する説もある)に約500km÷15=33日かかり、鞆~難波(難波から陸行一月で邪馬台国という)に約250km÷15=17日かかる計算になります。さらにこのときから400年前の、邪馬台国の準構造船と誘導設備の不備などを考え合わせると、奴~鞆に35~40日、鞆~難波には20~25日位は要しただろうと思います。
 博多~出雲(投馬国に比定する説もある)の約400kmと、出雲~敦賀間の約350kmの外洋周りは、日和待ちの日数が増えて、もっとかかったであろうと考えられます。
 つまり倭人伝の行路記事では、畿内説も九州説も成り立たないことが判ります。
 最後にもう一つ疑問が湧いてきました。狗耶韓国から対馬~壱岐~呼子(唐津)~前原~博多と、途中の立ち寄ったクニごとに紹介がなされているのに、もし投馬国や邪馬台国が鞆や出雲、それに畿内であったのなら、なぜまだ何倍も残っている道中のクニグニの紹介が、大きく跳んでいるのでしょう。
 毎夜、津々浦々を泊まり継いで行く弥生の航海ですから、初めての中国人にとっては、湊々ごとに土産話に持って帰りたくなるような、珍奇な風俗や文物に出くわしたはずです。
 一説にあるように、郡使は伊都国から先へは行っていないのでしょうか。
 仮にも魏の天子の使臣が訪ねて来たのに、卑弥呼が女王ではなく、単なる巫女だったから直接引見することがなかったとしても、都から遠く離れたところ(もし都が畿内であったなら、後の「遠の朝廷、大宰府」のような辺りに)留めておくような応接をしたとはちょっと考えられないことです。
 やはり私は、投馬国や邪馬台国が、伊都国や奴国の南方に連接していたような感じがしてなりません。 (以下、次号に続く)

松戸:高見航毅

お茶の間の邪馬台国論⑱

[弥生時代の航海

 弥生時代後期には、原始的な刳()舟や独木(どっこ)舟から、準構造船の時代になっていたものと思われます。

 これは、北部九州の装飾古墳の壁画や、各地から出土する舟形埴輪(はにわ)、それに事例は少ないのですが、弥生舟の出土例によっても確認されています。

 また準構造船の出現は、釘などの鉄金具の普及も意味しますが、このことはまた後で触れることにします。

 これにより、ある程度の外洋航海も可能にし、四方を海に囲まれた倭人の活動範囲を、飛躍的に広げたことは想像に難くありません。

 しかし現代のように、いつでもどこへでも行けるというものではありません。

 魏志倭人伝の航海記事が、非常にあっさりと、まるで飛び石伝いに行けるように書かれているため、単純に〔全体の距離÷一日の航海距離=所要日数〕と考察していることが多いのです。

 

 でも弥生時代の準構造船ですから,いくら外洋航海が可能になったからといって、耐えられる波高には自ずと制限があります。

 現在でも玄界灘の漁船と、瀬戸内海の漁船とでは構造的に違いがあります。

 前者は3m近い波浪でも出船しますが,後者は1.5mを超えると、船頭が沖に出るのを逡巡するのです。

 玄界灘では夏の一時期を除き、1.5m~3mの波高が常態的ですし、内海はこれに比べて、おおむね1m前後と波が静かだからにほかなりません。

 なるほど瀬戸内の船は、舷側(げんそく)から手を伸べると、海面に届くほどですが、玄海の船は波浪を被るのを防ぐため、ずっと高く造られています。

 弥生の船はもっと波に弱かったでしょう。

 また帆走か手漕ぎによったわけですから、場合によっては、実航海日数よりも「潮待ち」「風待ち」日数の方が、よけいにかかることもしばしばだったでしょう。

 もちろん羅針盤(らしんばん)や海図もなく、航路の誘導設備や陸上の照明もまったくない時代ですから、とくに潮流が早い海域や、瀬や島の多い海域では、夜間の航海はとても不可能で、たとえ昼間でも、難儀を極めたものであったに相違ありません。

 たぶん陸沿いに、早暁から夕方まで走ったら、夕方は早めに陸に上がり、船の点検・修理や翌日の薪水の調達に、忙しく奔走したことでしょう。

 

 1300年も後の豊臣秀吉の時代、朝鮮からの通信使の航海日誌によると、依然として帆走・手漕ぎとはいえ、段違いの大型の構造船になっているのにもかかわらず、対馬海流を乗り切る釜山~名護屋間に1ヶ月も要しています。

 実際に航海した日数は、釜山~対馬で1日、対馬の西浦~府中で1日、対馬~壱岐で1日、壱岐~名護屋で1日の計4日だけで、後の20数日は「日和待ち」だったのです。何と言っても、時速7km

近くで涛々と流れる黒潮を乗り切るには、とても手漕ぎでは無理で、強い北風の力で帆走しなければならなかったに相違ありません。

 波高が常に3m近くで、航海の難しい冬季は除いて、「天気晴朗で北風が終日強く吹く日」は、この海域では今も昔もそう度々はなかったことでしょう。

 内海に入ってからはさすがに、名護屋(なごや)~博多~藍の島(あいのしま)(関門)~下関~上関(かみのせき)(柳井)~蒲刈(かもがり)(広島)~鞆(とも)(福山)~水島(笠岡)~下津井(そもつい)(岡山)~牛窓(備前)~室津(むろのつ)(姫路)~神戸と順調に泊まりを重ねてそれでも18日を要しているのです。

 使命は講和条約の締結のためで、朝鮮海峡横断に日を費やしていましたから、この内海航路はかなりの強行軍を余儀なくされたようで、「深更(しんこう)に着く」といった記述が何度も出てきます。

 実に1日に役40kmを超えるスピードで進んだことになります。(以下次回に続く)

松戸:高見航毅

お茶の間の邪馬台国論⑰

 倭国が大月支国よりずっと近くにあって、はるかに後進の小さな国であることは、倭国の使臣の粗末な服装(漢墓の壁画に描かれた外夷の弔問使の中に、倭国の使臣と思しき粗末な服装をした人の姿があります)帯方郡からの報告で、要職の人々はおおよそ知っていたでしょう。
 そこで張華と陳寿の手によって、倭人伝の行程距離と、倭のクニグニの人口の改竄が行われたのではないかと疑われるのです。
 すなわち倭国を、「(曹真が働いた大月氏国より)遥かに遠く、大きな宮殿等を備え、そして多くの人口を有する立派な国」に仕立て上げるためでした。
 ひょっとすると貴字である「臺」を用いた事情も、この辺りにあるのかもしれません。

 後漢の班勇*(はんゆう)の報告書には、洛陽から大月氏の居城、藍氏城(らんしじょう)までは16370里とあります。これに対し洛陽から邪馬台国までは、洛陽→楽浪郡5000里、楽浪郡→帯方郡550里、帯方郡→邪馬台国12000余里で、計17550里となります。
 街の大きさ=人口の稠密度(ちゅうみつど)も、大月氏国の戸数10万戸、人口40万人に対して、女王国連合の戸数は15万戸(推定人口60万人)という、途方もない数字になっているのです。

 ここで参考に、三国志以前に成立した漢書(前漢の史書)の西域伝に記された、前漢の都長安から西域の各国までの距離をご覧ください。(洛陽からはプラス1000里)
 けい賓(ひん)国(現カシミール)            12200里
 烏弋山離(うよくさんり)国(現アレクサンドリア)   12200里
 安息(あんそく)国(現ペルシャ)            11600里
 大月支国(現アフガニスタン)              11600里
 康居(こうきょ)国(現キルギス)            12300里
 大宛(だいえん)国(現タシケント)           12550里

 もっともらしい12550里というのもありますが、無論この距離が正確な実測に基くものとは,誰も思わないでしょう。
 ではなぜ、ことごとく判で押したように12000里内外なのでしょう。
 中国の古代には、天は丸く、地は方形であるという考えがありました。これは最古の地理書である山海経(さんがいきょう)などでも明らかです。
 地の中央に中華の王城(王畿[おうき]、九州)があって、その周辺に諸侯、士大夫の封地,されにその外に民衆、蛮夷が住んでいるという概念があったのです。
 方形の地の果て、蛮夷が住むところは、、なべて王城から12000余里。古代の中華人の多くがもっていた教養をもとに、作為された距離ではないかと思われます。
 さらに陳寿の頃には、班勇の実地踏査に基く新たな常識がありましたから、洛陽~大月支城=16370里を上回るような(一部にわざわざ曖昧な表現をしてまで)距離に設定したのではないかと思うのです。
 もう一つ、以前から指摘されているように、倭国の風俗が異常に良く書かれているのは、「倭国は孔子が憧れたように、未だ礼節が行われている立派な国である。そんな国までが、司馬氏の肝いりで魏の皇帝に朝貢してきた」という宣伝をしたかったのだと思います。
 このように私達は1800年近くも、全く陳寿の術中に陥っていたのです。
 残念ながら私の推論には、状況証拠ばかりで物的証拠は何もありません。
 でもこのように考えると、これまでどのように考えても解けなかった行程記事の謎が、すっきりと氷解すると思いますが如何でしょう。(以下、次回に続く)
       
           *班勇  漢書の編者として有名な、班固(こ)・班昭(しょう)の兄。
                 父班彪(ひょう)は西域を回復した大将軍として有名。
                 班固もまた後漢の順帝(125~144)の命により、
                 後漢最後の西域経営を行い、後漢書の西域記事は
                 彼の帰朝報告がもとになっている。

                                            魏・晋 年表

              216年 曹操、自ら魏王となる

              220年 曹操没し、子の曹丕継ぐ
                    曹丕、後漢の献帝から禅譲を受けて帝位に就く。
                    魏の文帝曹真の働きで、西域諸国の入朝始まる

              221年 劉備、漢の昭烈帝となる

              223年 昭烈帝没し、子の劉禅(後主)即位する

              226年 魏の文帝没し、二代明帝即位する

              229年 孫権、呉の大帝となる
                    曹真の働きで、大月支国が入朝

              238年 司馬懿、遼東の公孫渕を討ち、東北地方を手中にする

              239年 倭の女王卑弥呼の使臣が入朝
                    魏の明帝没す

              249年 司馬懿、クーデタを起こし、曹一族を滅ぼす

              255年 司馬懿の長男、相国司馬師没し、弟の司馬昭、大将軍となる

              263年 劉禅(後主)、魏に下り、蜀滅ぶ

              264年 司馬昭、自ら晋王となる

              265年 司馬昭没す
                     子の司馬炎、魏の元帝から禅譲を受けて帝位に就く。晋の武帝

              280年 呉王下り、呉滅ぶ

              297年 陳寿没す
                    三国志が国史として認められる

              300年 八王の乱起こる
                    張華没す

              316年 西晋滅ぶ

松戸:高見航毅

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