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お茶の間の邪馬台国論(最終回)

それでは最後に「卑弥呼の斎宮があった所」と考える、豊前の宇佐八幡宮についてご紹介し、この稿を締めくくりたいと思います。
 ご精読ありがとうございました。

 〔 宇佐八幡宮の起源 〕
諸説あって定説はありませんが、奥の院の御許(おもと)山(大元山)の巨石(メンヒル)信仰が始まりで、これが宇佐氏を始めとする周防灘沿岸の豪族連合の祖神、「比咩(ひめ)神」になったという説があります。
 比咩神は、天照大神と素戔鳴尊との天の安河原の誓約で、素戔鳴尊の十挙剣(とつかのつるぎ)から生まれた、多紀理媛(たぎりひめ)、多伎都(たきつ)媛、市伎島(いちきじま)媛の三女神のことで、宗像神社や広島の厳島(いつくしま)(安芸の宮島)の祭神でもあります。
 恐らく玄界灘から瀬戸内海にかけて勢力を振るった、海人一族の奉戴(ほうたい)する神だったのでしょう。あるいは先に「国生み」のところでふれた、頭に「天の」と冠する、九州周辺の海域に浮かぶ島々は、なべて比咩神を奉戴する海人が住んでいたのかも知れません。
 やがて「比咩神」は大陸からの帰化人(秦(はた)氏系の辛島(からしま)氏。後漢書に「女王国の東に秦王国あり」の記事がある。現在でも周防灘沿岸には秦(はた)姓が多い。)の奉ずる「辛国(からくに)神」と融合して「ヤバタの神」になります。
 「ヤバタの神」は「八幡」、つまり沢山の軍旗の意で戦の神、あるいは沢山の踏鞴(たたら)の意で製鉄の神として、古来から多くの信仰を集めました。
 一説では大和朝廷が成立する以前から、一大宗教王国が存在していたと言います。

 さらに応神(おうじん)天皇(誉田別(ほむたわけの)尊。河内の百舌野(もずの)の我国第二の規模を誇る古墳に葬られたと言う)を勧請(かんじょう)して、応神八幡神(後に我国最初の神仏混(こんこう)の本尊である八幡大菩薩になる)とし、AC725年(神亀2年)に現在の亀山(小椋(おぐら)山)に鎮座しました。
 その後、母后の神功皇后を合祀し、現在では第一殿が応神天皇、中央の第二殿が比咩神、第三殿が神功皇后となっています。

 〔 宇佐八幡の勢威 〕
全国におよそ11万社の神社がありますが、そのうちの35%の4万社が八幡宮で、宇佐八幡宮はその総本社です。
 古代には、皇室の祖廟である伊勢神宮と並んで、二所宗廟(にしょそうびょう)と崇(あが)められてきました。
 宇佐八幡宮は、とくに朝廷の政に重きをなした存在で、歴代天皇の即位にあたって奉幣(ほうへい)したり、また国が重大問題に直面したときには、上宮の本殿の前の春宮社において獣骨を焼き、外宮前の兆竹(きざしたけ)でつついて生ずるひび割れによって卜占(ぼくせん)(シャーマン)し、その結果を「宇佐使」が八幡神のご託宣として、朝廷に下しておりました。

 歴史上有名な、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が称徳(しょうとく)女帝の皇位を簒奪(さんだつ)しようと企てた事件では、勅使の和気清麻呂(わけのきよまろ)に譲位の不可なる神託を下し、皇室の危機を未然に防ぎました。

 また奈良東大寺の大仏建立にあたって、畿内の技術者*では10年経っても工事が進捗せず、頓挫(とんざ)する恐れが出始めたときに、八幡神のご託宣が下り、豊前地方の帰化人集団を総動員して、1年間で完成させました。
 この功により、八幡大菩薩は一品(いっぽん)に、比咩神は二品に叙され、さらに宇佐使には天皇と同じく、紫の輿(こし)の使用を許されました。この後、宇佐使がご託宣を奉じて朝廷に到着したときには、文武(もんぶ)百官が土下座をして迎えるようになったということです。
 また封戸(ふうこ)1400戸、位田(いでん)140町を賜り、その神領・神田は西日本の各地におよび、今も大貞(おおさだ)(大宇佐田)、神田の地名が残っています。
 当時の伊勢神宮の封戸が1000戸、位田が100町であったことを思えば、の威勢のほどが分かります。
 このように大和朝廷の成立以前から九州の豊前の地に威を張り、鬼道をもって国政を左右した宇佐八幡宮の正体は、一体何なのでしょう。(完)
 
                 *技術者集団 武蔵の国風土記には「用命天皇の頃、関東開発を急ぐために、畿内にいた高麗(こま)人1799人を武蔵の国高麗郡に移した」とあり、そのために畿内の技術者が払底(ふってい)していたと思われます。

松戸:高見航毅

宇佐神宮.jpg

 

お茶の間の邪馬台国論(36)

つぎに狗奴韓国は、従来「倭の北岸」の意味を「倭国の北辺の岸」という意味に解し、あたかも倭の領土のように思われてきましたが、確かに倭人も住んではいたものの、この頃の中国や韓国は「倭の北岸と海を挟んで相対する加耶(かや)という地域」という認識をしていて、必ずしも倭国の統治権が存在するという観念はなかったのではないでしょうか。後に加耶に置かれていた任那(みなま)日本府は、日本の大陸外交の足がかり的な出先機関だったのではないかと思います。

 

 対馬国から不弥国まではフェニキア的海洋国家で、玄界灘に臨んで大陸に往来し、また時によって、人によっては加耶地方に住み着いて、盛んに交易を行う、女王国とは同盟関係にあった国々だと思います。

 もとは、それぞれ王を戴いた独自の政権でしたが、大陸との交易が膨張し、また大陸からの人口流入が増加するなどで、互いの関係がバランスを失し、利害の衝突(倭国大乱)が頻発(ひんぱつ)したため、優れた巫女と評判の、卑弥呼のご託宣を奉じて政を行うようになったのだと思います。

 倭人伝に、とくに伊都国にのみ「世々王あり」と記されたのは、伊奴国王の先祖が後漢の光武(こうぶ)帝から金印(志賀島出土)を授与されたという記憶が、当時の魏の関係者にあったからでしょう。

 

 もともと金印は、他の例を見ても「漢の王」にしか与えられない印で、「漢の倭国の奴の王」のような陪臣(ばいしん)諸侯には、銀印か銅印が与えられると、詳細なデータをもとに展開した説論があります。

 また金印の「委」の字は「倭」に似ていますが、決して「わ」と読ませた例はなく、「い」としか読めないという論もありますし、逆に中国の金石文では、良く「へん・つくり」を省略するという反論もありますが、私は前記の論を支持したいと思います。従って、志賀島の金印は「倭の委奴国(伊那国)王」と読むべきであるとおもいます。

 

 そして邪馬台国は、豊国主尊以来の一族が徐々に周辺を侵し、3世紀の半ばには臨海部を除く、北部九州の大半を版図(はんと)としていました。本家は豊国主の嫡流(ちゃくりゅう)(豊の君=男弟)が行橋市にいて、卑弥呼は宇佐を斎宮(いつきのみや)としていたのです。

 宇佐は斎宮の所在地でしたから、近辺に大集落と言えるほどのものはありませんでした。宇佐氏が卑弥呼のご託宣を豊の君へ伝える役割でした。

 その他の領国はそれぞれ分割して、卑弥呼の頃の首長はつぎのようになっていたのではないかと思います。

 そして狗奴国との終戦後、卑弥弓呼との和解がなって、後顧(こうこ)の憂(うれ)いがなくなり、国力も充実しましたので、かねてから懸案の東征に踏み切ったのです。

 経済と人口の膨張とでエネルギーが充満し、周辺の後進地域の併呑戦争に駆り立てたのです。

 

五瀬命 - 八女地方を統治。筑紫の君。 東征のときの最初の司令官でしたが、激戦中に陣没。


 

稲飯命 - 遠賀川下流地方を統治。海人族の長である宗像の君。難波潟の海戦の指揮官として奮戦したが陣没。紀には難波の海が時化(しけ) て戦況が覚(おぼつか)ないので、「海神の娘を母と叔母にもつ我々を、海 はどうしてこのような迎え方をするのか」と叫んで入水したことになっ ているのです。

 

三毛入野命- 豊前地方を統治。豊の君の名代。豊前市の海辺の日豊線JR駅に、三毛門(みけかど)(三毛地方の入口の意?)の地名があります。紀の本文には三男とされていますが、別書には末弟としたものもあり名前に「稚(わか)が冠されています。初陣の少年将軍を彷彿(ほうふつ)させますが陣没したとの書もあります。そうだとすると、4人の将軍のうち3人までを失ったわけですから、東征戦は苛烈を極めたものだったのです。

 

神日本磐余彦尊-甘木地方を統治。東征のときに、五瀬命や稲飯命および三毛入野命の戦死後、司令官として全軍を率い、ついに大和地方の平定に成功した。
 

 神日本磐余彦尊は、粗末な武器ながら熟知した地勢を利してゲリラ戦を挑む、長脛(ながすね)彦の軍を遂に破り、大和の纏向(まきむく)(飛鳥地方)に本拠を据えて、大和朝廷の基礎固めを始めたのです。時あたかも3世紀の終末でした。その後の大和勢力の急伸に伴い、本家の九州勢力と齟齬することが多くなり、これが日本武(やまとたける)尊の征服戦や景行天皇の土蜘蛛(つちぐも)征伐、筑紫の磐井(いわい)の反乱などに繋がっていったのではないかと思います。

 また九州における神日本磐余彦の領国は甘木市周辺であったため、大和の地名に移植することが多かったのではないかと思います。

 

* 神護石   御所谷一帯の峰々を囲むように、数kmにわたって1m角程の列石が連なっています。同様の遺跡は、北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて、数多く見られますが、当初は大和の三輪山の環状列石と同じく、神域を画すものと考えられ、神護石と命名されました。しかし、その後の研究により、朝鮮式の古代の山城の遺構で、土塁の基礎部分ということが判りました。また作られた時期が、白村江(はくすきのえ)において、日本と百済(だら)の連合軍が、唐と新羅(しらぎ)の連合軍に大敗した直後と推定されるところから、その後の唐・新羅軍進駐の防ぎとして作られたと考えられています。(以下、次号に続く)

松戸:高見航毅

金印 国宝.jpg 

お茶の間の邪馬台国論(35)

〔 私の独り言 〕
 幕を下ろしたうえで、気楽な独り言に今少しお付き合いください。
 北部九州のどこにあったのか…。
 前出の北部九州の有力な比定地で、弥生時代および、それに続く古墳時代の遺跡が多い地域といえば、甘木市、八女市、遠賀川流域、行橋市などがあげられます。
 その中で、甘木市には、記紀の高天原に出てくる地名と、良く似た地名が多く残っています。たとえば、甘木=天(あめ)の城(き)、夜須川=天の安川、香(かぐ)山=天の香具山などがあります。おまけに、大和の飛鳥地方と良く似た地名が、飛鳥と相似形に存在することが、安本美典氏等により指摘されています。
 ここから東征した部族が、甘木の地形に似た大和のあちこちに、故郷を懐かしんで同じ名前を付けたからではないか…。
 全国に似た地名は結構多いため、単純に地名の類似だけでは考証するのは危険ですがなんとも魅力的な場所です。
 東征軍の大将神武天皇の、九州における領地ではなかったかと推量しています。
また遠賀川の流域では、上流の桂川(けいせん)町周辺には、弥生~古墳時代の遺跡が密集し、とくに王塚装飾古墳は有名です。
 私は飯塚市を含むこのあたり一帯を投馬国と推定しています。

 下流の「岡の水門」に比定される芦屋町には、最古の稲作の遺構があり、また宗像の君徳善(とくぜん)の墓という、宮地嶽古墳のある津屋崎にも近く、一帯は宗像氏(海人(あま)族)の勢力圏であったろうと思います。
 従って、豊玉姫、玉依姫の実家である海神(わだつみ)の国はここで、不弥国ではなかろうかと推測しています。

 八女市は筑後川の流域の肥沃な平野で、古代の遺跡が密集している地域です。
 とくに筑紫の君磐井(いわい)の墓とされる古墳や、石陣山(せきじんやま)古墳など、九州最大級の前方後円墳が多数存在しています。
 代々筑紫の君がいたところと言われています。
 行橋市は近年、市内下稗田(しもひえだ)から大規模な弥生集落遺跡が発掘され、弥生のクニの七つ道具が出揃いました。
 我国最古級の石塚山古墳(京都市苅田町)や、宮内庁所管になる重要古墳を始めとする古墳群、海彦山彦伝承地の蓑(みの)島、豊前国分寺、御所谷神護石(こうごせき)*など、古代から連綿と大きな権力が存在したことが窺われます。
 代々豊の君がいたところと言われています。
 ちなみに、市政がしかれる以前は、京都郡(みやこぐん)に属していました。

 宇佐八幡宮は、全国で4万余社を数える八幡宮の総本社です。
 鎮座する亀山は、卑弥呼の墓ではないかという説もある古式の前方後円墳で、近くの豊後風土記の丘には、これも我国最古級の赤塚古墳を始めとする古墳や方形周溝墓があり(こちらは莵狭都比古、莵狭都比売の墓所と言われています)、遺跡には事欠きませんが、弥生のクニの存在を示す集落跡が発見されていません。

 以上、北部九州における有力な比定地から、私の独断で5ヶ所選抜してみました。(以下、次号に続く) 下に地図あり。↓

松戸:高見航毅

新大和のまわりの地名.jpg甘木市のまわりの地名.jpg

 

お茶の間の邪馬台国論(34)

十一  エピローグ
 
 私の辿り着いた結論は、「邪馬台国は北部九州のどこかにあった」ということになりました。
 秦末から後漢末にかけて、大陸から大量の人口流入がありましたが、同時に彼らは大陸の進んだ文化や技術を齎(もたら)しました。
この頃に北部九州に伝わったと思われる鉄器は、軍事力のアップだけでなく、農業生産の飛躍的な向上を実現しました。
 北部九州への稲作の伝播(でんぱ)は畿内より100年は早いといいます。鉄器の普及と相俟(ま)って、爆発的な人口増加に十分耐えられたことでしょう。
 圧倒的な軍隊の保有能力(人口と食料)、かつ殺傷能力の懸絶(けんぜつ)した武器を持った北部九州の部族が、他の地域を制圧したと考えるのが自然でしょう。

 「それで北部九州のどこなの?」という質問が、当然飛んで来そうですが、残念ながら、現在提供される情報の中からでは、とても特定できないと思います。
 北部九州には、筑後山門(やまと)郡、甘木(あまぎ)市、八女(やめ)市、遠賀川下流域、遠賀川中流域、行橋市、宇佐市など、有力な比定地が目白押しですが、これらの中で「ここです」と、誰もが納得するような説明ができないのです。
 これまでに百出した諸論の中には、場所だけに限って言えば、すでに的中した論があったと思いますが、客観的な立論ができないために、「多くの説のうちの一つ」に終わっているのです。

 今後考古学上の新発見、たとえば卑弥呼が魏の皇帝からもらった、「親魏倭王の金印」でも出ないことには、永遠の歴史のロマンとして続くのではないでしょうか。
 そういう意味でも、現在天皇陵に比定されたり、あるいは神社仏閣の境内にあって学問的な調査・研究が拒否されている古墳に、科学のメスが入ることを願ってやみません。
 現在、古代の天皇陵は、江戸時代に書かれた「山陵記(さんりょうき)」とか、記紀の記事をもとに比定されたもので、学問的には疑わしいものが多く、また旧形を著しく損なってもいますので、「天皇陵を暴く」といった否定的な捉え方をせずに、「天皇陵の平成大補修」といったプラス思考で、調査・研究の機会が得られないものかと念じています。(以下 次回に続く)

松戸:高見航毅

 

お茶の間の邪馬台国論(33)

〔 神武天皇の東征 〕
 紀の巻第四、神武天皇紀に「太歳(たいさい)の甲寅(きのえとら)、十月十五日に天皇は自ら諸皇子・舟軍を率いて『東征』に向われた」と明確に記されています。
 さらにその行程にも「宮居(みやい)(?)を出立して、速吸之門(はやすいなと)(豊予(ほうよ)海峡)
を通り、宇佐(大分県宇佐)の足一騰宮(あしひとつあがりの)に立ち寄って、菟狭都日古(うさつひこ)、菟狭都比売(うさつひめ)の兄妹に東征の報告をし、十一月九日、岡の水門(みなと)(遠賀川の河口?)到着~十二月二十七日、安芸の国の埃(え)の宮到着~翌年三月六日、吉備(きび)の国の高島の宮に着いてしばらく駐屯された。
 戊午(つちのえうま)の年の二月十一日に吉備を出立~難波の埼を過ぎて~三月十日に河内の国草香(くさか)村の青雲の白肩津(しろかたづ)に上陸された」とあります。
 おそらく宇佐で託宣を受けた後に、岡の水門付近で、糾合(きゅうごう)した九州の豪族軍と落ち合い、途中瀬戸内海西部沿岸の豪族を吸収し、また制圧しつつ、すでに協力の約束を取り付けていた大国、吉備王国に駐屯して、大和進駐の作戦会議、兵の調練、兵站(へいたん)の確保、さらには瀬戸内海東部沿岸地域の掃討(そうとう)を行い、万端整って、二月十一日に吉備を出発、一瀉千里(いっしゃせんり)
で河内に上陸して作戦を開始したのではないかと思います。
 こう考えますと、天皇軍のとった道筋に矛盾はありませんし、遠賀川河口~岡山までに4ヶ月を要したこと、前線基地の吉備に長期間駐屯し、岡山から河内まで一ヶ月で急行した(前述の〔弥生の航海〕で鞆~難波までの概略所要日数が20~25日と推定しましたが、大部隊では約一ヶ月かかると思われます)ことも納得がいくと思います。また瀬戸内海沿岸地域の掃討作戦の痕跡が、先に触れた「焼亡した高地性集落」ではないかと思います。
 畿内論者の言うように、もともと大和に発祥した天皇家が後に九州他の各地を併呑していったのならば、何の必要があって、自分の出自(しゅつじ)が被征服地の「九州」と正史に記録しなければならなかったのでしょう。
 記紀に書かれていることの真偽は別にして、また神武天皇が実在した、しないにかかわらず、わざわざこのようなストーリーにしたのは、天皇の出自が九州であったほかには考えられません。
 なにしろ記紀の編纂を命じたのは、他でもない天皇家(天武天皇)であり、皇室にとって記紀は、言わば「自家の史書」だったのですから。
 この一点をもってしても、「畿内説は絶対に成り立たない」と言うほかはありません。

松戸:高見航毅

お茶の間の邪馬台国論(32)

〔 銅鐸文化圏 〕
 記紀の描く高天原の社会は、銅剣・銅矛文化圏の様子であると良く言われます。
 弥生時代の遺跡から出土する物に、銅剣、銅矛、銅戈(どうか)などの銅製武器や、馬鈴の変化したものと思われる銅鐸、それに鏡、玉などの装身具がありますが、銅製武器と銅鐸とは、その分布にはっきりとした違いがあることは周知のとおりです。
 銅剣は、北部九州、中国地方、それに四国の瀬戸内地区で出土しています。
また銅戈は主として北部九州ですが、大阪湾型と呼ばれるものが、河内地区と和歌山県北部で出土しています。
 それに銅矛は北部九州と四国の西部といった具合に、銅製武器の分布は北部九州と島根県・岡山県を東限とする中国地方、それに南西部を除く四国地方に限られます。
 
 一方銅鐸は、小型の実用品(馬鈴)は北部九州でも2~3例ありますが、祭祀用と思われる大型化したものは、島根県と岡山県の中部と、愛媛県の東端を結ぶ線から東を限度として分布しています。
 このように明らかな違いがあるところから、弥生時代の日本には、異なった文化圏が存在したことが推定される訳です。

 銅製武器の多くは、弥生時代の埋葬施設から出土していますが、昭和の末期に、島根県の荒神谷(こうじんだに)遺跡(山襞(ひだ)の奥まった谷の傾斜地で、どちらかというと銅鐸の出土地に相応(ふさわ)しい環境)から、これまでに全国で出土した合計数を凌ぐ358本の銅剣が、数基の銅鐸を伴って出土しました。島根県は銅製武器文化圏と銅鐸文化圏の相乗部にあたり、他の地方にはない特異な祭祀形態が行われていたのではないかと注目を浴びました。

 銅鐸は山の中とか畑の中など、集落遺跡から離れた所で、忘れられたように埋められています。どのような使われ方をしていたのか、銅鐸の謎の一つです。
 一説には、意匠の良く似た東南アジアの銅鼓(どうこ)の例があげられます。この銅鼓は普段は悪霊が取り憑(つ)かないように土中に埋めておき、祭礼のときにだけ掘り起こして使う風習があります。本邦でも、熱田神宮に伝わる三種の神器の一つ、草薙(くさなぎ)の剣は、土中に埋められて伝えられたと聞いたことがあります。
 また埋められたまま祭祀が絶えて、長い間忘れられてきたということは、そういう部族が消滅したからにほかなりません。
 古来、征服者が被征服者に、自らの信仰を強制するのが通例です。敗北した部族が祀る神々は、古今東西を通じて、常に追放される運命をに辿っているのです。
 
 弥生時代のいつの頃か、北部九州を中心とした銅製武器をトーテムとする部族と、銅鐸をトーテムとする東方の部族とが交戦状態となり、結局、前者が後者を討滅するに至りました。敗者は急追する敵手を逃れるため、除霊のために山間部の聖地に埋納していたトーテムを掘り起こす暇(いとま)とてなく、放棄したまま逃散(ちょうさん)してしまいました。
 やがて時が経ち、誰も祀る人のない銅鐸は、人々の記憶から消えてしまい、また聖地も荒れるにまかせ、ついにはその痕跡さえさだかではなくなりました。
 以上のような推理は如何でしょう。
 記紀は銅鐸については何も語ろうとはしませんが、記紀を編纂した部族は、銅鐸を遺棄した部族ではないはずです。
 瀬戸内沿岸に点在する、火災を被った痕のある高地性集落*は、このときの動乱を物語るものではないでしょうか。
*高地性集落  弥生時代の後期の遺跡として、瀬戸内沿岸に多く見られます。
    漁場や農耕地などの日常生活の場から遠く離れた丘陵上に、あたかも「隠し砦」のように築かれ、その多くが焼亡した痕跡を残しています。
    神武の東征軍との交戦の跡だとか、後漢書の「桓霊の間倭国大乱」に比定する人もいます。   
(以下次号に続く)

松戸:高見航毅

 銅鐸.jpg青銅文化圏の対立.jpg

お茶の間の邪馬台国論(31)

〔 天照から神武へ 〕

 ここに安本美典氏が説く、興味ある「古代の天皇の平均在位年数」を紹介しましょう。

 記紀に記す神武天皇の即位はBC660年ですが、その後の各天皇の在位年数が異常に長いため、氏の専攻する統計学の手法で解析を加えたところ、古代においては洋の東西を問わず、大体10年強/人という結果が得られたというものです。

これを在位期間のはっきりしている用命(ようめい)天皇(聖徳太子の父帝)を起点に遡りますと神武天皇は280~290年頃に在位したことになり、さらに五代50年を遡って、230~240年というとぴったり卑弥呼の時代になるというのです。

 つまり卑弥呼=天照大神ということになります。

 そうなると、以前から一部の学者が言う「天照大神と素戔鳴尊の争い~天安河原(あめのやすかわら)の誓約(うけい)は、卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼との争いを、天の岩戸は卑弥呼の死を反映したもの」という説が、がぜん光彩を放ってくるではありませんか。

 

 しかし古代の天皇には、その実在性が疑わしい方が何人もいる、という指摘があります。主としてその疑いは「記紀に詳しい事績が記載されていない方」に向けられています。当然といえば当然ですが、それは中世以後の、武士に政治を委ねた頃の天皇の多くも同様です。

 私は「トロヤの奇跡」を、信じたいと思います。誰もが「架空の事件」として疑わなかったトロヤを、シュリーマンが見事に実証しました。

 

 また19世紀末、中国の江南省安陽県で殷墟(いんきょ)が発掘され、夥しい甲骨文字が出土しました。殷(商)はBC十七世紀からBC十一世紀まで続いた王朝ですが、司馬遷(しばせん)の史記には、17世紀30王が君臨したと、歴代の王の名前さえ記されているのです。

 史記は世界的に有名な史書ですが、甲骨文字が解読されるまでは、殷の実在自体が疑われていたのです。もちろん王の名前なんか、お伽(とぎ)話以外の何ものでもありませんでした。なにしろ司馬遷が史記を著したのがBC一世紀のことなのですから、殷が滅んでからすでに1000年も経っています。

 ところが解読が進むにつれ、甲骨文字の記録する王の名と、史記のそれとが、ほとんど合致することが判ってきました。継承の順序もほぼ同じでした。

 古代の伝承を頭から否定してしまうのが、いかに危険なことか、現代の私達は肝に銘じなければなりません。

 

次に天照大神から神武天皇にいたる系譜を、参考までに記載します。

 

 (貼付 系譜138ページ)

 

 木花開耶姫の別名、鹿葺津姫と、豊前の国風土記にある「第十二代景行(けいこう)天皇が土蜘蛛(つちぐも)(天皇にまつろわぬ部族の総称)征伐のときに、福岡県平尾台の山上より海路を指し示して導いたという、香春地方の女酋「夏磯城(かしき)姫」(周防灘の対岸の山口県防府市に彼女の墓という車塚古墳がある。)の名前とが酷似しているのが気になります。

*火蘭降命 海彦山彦説話で有名な兄の命です。大事な釣針をなくされてちょっと意地悪しただけなのに逆に攻め殺されてしまいます。私達はむしろ皇統を受け継いだ、弟の峻烈さを非難したい気持ちです。この説話はいったい何のでしょう。海の民(周防灘沿岸に住み着いた先進文化人の秦(はた)氏一族)を、土着の山の民である邪馬台国連合が圧伏した記憶ではないかと密かに考えています。周防灘の南端、大分県の香々地(かがち)町に古くから伝わる「けべす祭り」は、正体不明の「けべす(えべす=夷=外敵・侵略者?)」が火(鉄を溶解する踏鞴(たたら)の火?)を奪いに来るのを、村人が懸命に防ごうと渡り合う所作をするお祭です。「火のすせり」とは火が激しく燃え盛る様をいうのです。

  お茶の間の邪馬台国論 138ページ系譜.jpg

お茶の間の邪馬台国論(30)

十 日本書紀と古事記
 
 日本書紀は720年に編纂されました。
 わが国初の官選の史書ですから、いささか肩肘を張って、おまけに新生日本の理念みたいなものを反映していて、ちょっと堅苦しい感じがします。
 一方、ほぼ同時期に編纂された古事記は、当時一般に流布していた、伝承や歌謡の類を収録・編纂したもので、こちらはなんとなく親しみやすさがあります。
 
〔 天地開闢(かいびゃく)〕
 あめつちの開けるときに、まずつぎの七柱の神々が現れました。
 最後の伊奘諾尊(いさなぎのみこと)と伊奘冉(いざなみ)尊の夫婦の神を除いて、あとの六柱の神々はすべて男性の一人神で、ただ登場するだけで何もせずに隠れてしまわれます。
 ― 神世七代 ―
 天常立(あめのとこたち)尊 ― 可美葦牙彦舅(うましあしかびひこじ)尊 - 国常立(くにのとこたち)尊 - 国狭槌(くにのさっち)尊 - 豊国主(とよくにぬし)尊 - (略) -伊奘諾尊・伊奘冉尊

 書によって順序が変わったり、神が入れ替わったりしますが、おおむねこのようになっています。
 豊国主尊および夫婦神以外は、いずれも天地や自然現象の神格化にほかならないのです。でもなぜこんなところに「豊の君」を連想させる豊国主尊(書紀に「尊(みこと)は皇位に就かれるような特に尊い方。命(みこと)はこれに次ぐ」と断りがあります。)が登場するのでしょう。

〔 古事記の天地開闢 〕
― 別天つ神 -
 天之御中主(あめのみなかぬし)神 - 高御産巣日(たかみむすび)神 - 神産巣日(かみむすび)神、
以上紀では高天原(たかまがはら)にいることになっている神々です。
 続いて、宇摩志阿志訶備比古遲(うましあしかびひこじ)神 - 天之常立神で五柱。
 さらに、神世七代の国之常立神 - 豊雲野(とよくもの)神 ― (略) -伊邪那岐(いざなぎ)神・伊邪那美(いざなみ)神になっています。
〔 国生み 〕
さて伊奘諾・伊奘冉の国生み神話は、日本書紀では、矛の先から滴った潮が固まって「おのごろ島」ができ、これを国中(くになか)の柱として、互いにその周りを巡って、国生みをされるというところから始まります。
 (淡路洲)-大日本秋津洲(おおやまとあきつしま)(本州)- 伊予二名洲(いよふたなのしま)(四国)- 筑紫洲(つくしのしま) - 億岐洲(おきのしま)(隠岐)- 佐度洲(さどのしま)(佐渡、隠岐と佐渡は双子)- 越洲(こしのしま)(北陸)-大洲(周防(すおう)大島)- 吉備子洲(きびのこじま)(岡山県児島)、以上淡路島を除いた八島を大八洲(おおやしま)と総称します。
 また対馬洲、壱岐洲ほかの小島は、潮や水の泡が固まってできたという説明になっています。国生みの順序に意味があるのでしょうか、さらにまた大陸との交流の足がかりになり、かつてはクニや官が存在していた対馬や壱岐が、大八島に入っていないのはなぜなのでしょうか。

 ちなみに記の国生みを見てみましょう。
 淡道穂狭別(あわじのほのさわけ)島 - 伊豫二名(いよのふたな)島 - 隠伎三子(おきのみつご)島(天之忍許呂別(おめのおしころわけ))- 筑紫島 -伊伎(いき)島(天比登都柱(あめのひとつはしら))- 津(つ)島(天之狭手依比賣(あめのさでよりひめ))- 佐度島 - 大倭豊秋津(おおやまととよあきつ)島(天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ))以上を大八島国といい、さらに吉備児島、小豆(あずき)島、大島、女(ひめ)島(=姫島、天一根(あめのひとつね))、知訶(ちかの)島(=五島列島、天之忍男(あめのおしお))、ならびに両児(ふたごの)島(=男女群島、天両屋(あめのふたや))を生んだと記されています。
紀との食い違いの理由は良く判っていませんが、「物語」の展開としては最後に目玉の秋津島を生んだというのは面白いし、反対に「国史」としては、日本国の中心島(日本書紀編纂時は、明らかに畿内に朝廷が存在した)を最初に据えるのが当然と考えますがどうでしょう。
 本州島のほかに、九州周辺の島々の別名に、とくに「天の」と冠した特別な意味があるのでしょうか。隋書に「日本国の皇室の苗字は『アメ』」と書かれているのとは何か脈絡があるのではないのでしょうか。
 
 さて夫婦の神は、その後もさまざまな神を生んだ後、最後にこの大八島を統べる神々を生んでお隠れになりますが、そのお子達が天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読(つきよみの)尊、素戔鳴(すさのうの)尊の三柱です。中でも最も出来の良い天照大神を日の神とし、高天原の統治が任されました。 (以下 次号に続く)

松戸:高見航毅   

お茶の間の邪馬台国論(29)

― 古墳について -
 古墳というと、我国では前方後円墳と円墳とが最もポピュラーですが、ほかにも前方後方墳、前円後円墳、方墳、上円下方墳、上方下方墳、集合墳などがあります。
 方墳や円墳の起源は恐らく大陸でしょうが、前方後円墳は今のところ我国発祥のものというのが定説です。韓国の全羅南道(ぜんらなんどう)に、前方後円墳とみられるものが幾つかありますが、これまでの調査では、いずれも5世紀を遡るものではないとされています。
 我国の前方後円墳の発祥については諸説ありますが、3世紀後半あるいは終末から4世紀の初頭と言われています。

 前方後円墳は通常、きちんと左右相称に築造され、当時すでに、非常に高い水準の土木技術をもっていたことを窺わせるものが少なくないのですが、近年畿内で不整形の古墳が発見されて話題となりました。整形の古墳の揺籃(ようらん)を示すものだ、やはり前方後円墳は畿内が発祥地だと、一時は大騒ぎになりましたが、やがて福岡県小郡市津古生掛(つこしょうがけ)1~3号墳、同県筑紫野市原口古墳、福岡市那珂(なか)八幡古墳、名島(なじま)1号墳等が続々と発見され、詳しい調査を始めた結果、起源はむしろ北部九州で、整形の古墳に先立つものではあるが、両者の相関関係は明確ではない、という結論になったようです。

 前方後円墳の独特の形状については、中国の秦の始皇帝や、漢の武帝が行った奉禅(ほうぜん)の儀式*に関係があるのではないかとか、後円部は埋葬施設で、前方部は祭祀を行う舞台であるとか、諸説ありますが、定説らしきものはありません。
 弥生時代の方形周溝墓から発展的に移行*したもので、前述のように、卑弥呼の葬送のときに高塚化・大型化したものではないでしょうか。
 ちなみに、古墳の築造年代を推定するポイントは次のとおりです。
 一つは墳丘の形です。

〔柄鏡(えかがみ)形〕  後縁部が比較的大きい。前方部は細くて長く、末端がやや開く。 標高も後円部の方が前方部を上回る。最も古い形とされる。

〔帆立貝形〕  後円部が圧倒的に大きく前方部が小さいため、平面が帆立貝の形に似る。

〔撥(ばち)形〕  前方部が平面・標高とも後円部を凌ぐ。比較的新しい形。 二つ目は埋葬部の構造です。

〔竪穴(たてあな)式石室〕  墳頂部に竪穴を掘り、積み石の石室を設け、その中に木棺などを埋葬する。倭人伝の「棺はあって、槨(かく)なし」に符号する。

〔横穴式石室〕  古墳時代後期になると、墳丘の側面にトンネル(羨道(せんどう))を掘削し、その奥に玄室(げんしつ)を設け、そこに家形石棺などを埋葬する。
巨石で羨道と玄室とを築いた古墳を、特に巨石墳というが、現在墓室が確認できる巨石墳では、大和の見瀬(みせ)丸山古墳が最大で、福岡県の宮地嶽(みやじだけ)古墳(火葬のため棺はなく玄室は小さい)、同県行橋市の綾(あや)塚古墳と橘(たちばな)塚古墳、飛鳥の石舞台古墳がこれに次ぐ。

 三つ目は副葬品の内容です。
〔前 期〕  鏡・玉・釧(くしろ)・剣等の副葬品のうち、最も年代の新しいもので判断する。
〔後 期〕  突如として、ほとんど革命的に馬具、武具の副葬品になる。江波氏の「騎馬民族征服説」の論拠になった。

 箸墓とならんで、卑弥呼の墓に比定される古墳が大分県にあります。
 宇佐八幡宮の鎮座する亀山古墳がそれです。前方部に外宮が、後円部に上宮が鎮座しています。前方部と後円部とに、それぞれ埋葬施設と人骨の存在が認められていますが、神宮域のため詳しい調査がなされていません。
 しかし、八幡宮の歴史や権威から推定すると、もっと踏み込んだ調査が期待されます。
 墳丘は自然の独立丘である亀山の上部に盛り土をした、最も古い形の築造になっており、墳長はざっと150mを超えるだろうと思われます。

*奉禅(ほうぜん) 中国の古代から聖天子だけに許されると伝わる儀式で、泰山(たいざん)を登って天を祀り、麓に下りて地を祓うものである。秦の始皇帝や、漢の武帝が行ったと伝えられるが、儀式の詳細は絶えて不明になっている。
*方形周溝墓   方形の墓地の周囲を溝で囲んだもので、四隅が突起状になっているものを「四隅突起形」という。
岡山市の楯築(たてつき)遺跡は大型の四隅突起形として有名で、特に内区に1m前後の盛り土が認められるところから、高塚古墳への移行を示すものではないかという説もある。 
 
 以上「魏志倭人伝」を読んでまいりましたが、どうやら「邪馬台国は北部九州のどこかにあった」という印象が強くなったようです。
 しかし、「北部九州のどこ?」という疑問は解けていませんので、つぎに我国の文献である「記紀」の記述に、なにか示唆するものがないか、捜してみることにしましょう。(以下次回に続く)

松戸:高見航毅

お茶の間の邪馬台国論(28)

〔 卑弥呼の墓は径百余歩の冢 〕
 定説では、卑弥呼の死んだ頃(287年)は、まだ高塚古墳は出現しておらず、早くても3世紀最終末期か4世紀の初頭とされています。
 しかし最近、奈良の黒塚古墳の周濠(しゅうごう)の中から、3世紀半ばといわれる土器の破片が(おそらく祭祀に使われたと思われる)出土して、「高塚古墳は3世紀半ばに大和で発生した」という説が出されました。
 畿内説の大きな味方となり得るもので、古墳築造が卑弥呼の時代まで遡(さかのぼ)ると、古くから言われてきた、大和の箸墓(はしはか)古墳=卑弥呼の墓、を否定する積極的な根拠はなくなります。「径」は円形をイメージするのが自然ですし、「百余歩」は約130~140m位ですが、箸墓古墳の後円部の直径はおよそ150mですし、「百余歩」はまた「長大」という意味でも使われます。
 
 一方、土器を伴う発掘品の、土器による年代比定は、10年や20年という限定されたスパンではできない、という異見もあります。
 当時の土器の製作技術からいって、現代のように新しい物が流行ったら、短期間でそれに替わるということはなく、古い物も使えるうちは使ってと、ある程度伝世された可能性もあり、また祭祀用として、ある程度まとめて作って在庫しておいたといったことも考えられます。
 また古墳の周濠に投げ込んだのは間違いないのでしょうか、ずっと遡った時期に祭祀が行われた場所に、古墳が築造された可能性はないのでしょうか。
 奈良の大安寺付近では、古い古墳を壊して、その上に新しい古墳を築いた後が確認されています。
 可搬物である以上、さまざまなケースで紛れ込む可能性があり得る訳です。
 また土器の年代比定の物差しは、とくに畿内論者と九州論とでは整合されていないのが現状です。まったく同一様式なのに、土器の名称も時代比定も異なるのです。
 一日も早く統一して、互いに協力して真実を追究するようにして欲しいものです。
 とにかくこの説は、炭素測定と同じく、まだ事例が少ない上に、詳しい報告も一般には知られていませんので、今のところは参考程度に留めておきましょう。

 高塚古墳は卑弥呼の死を契機に出現した。こう考えて見てはどうでしょう。
 ここに来て神憑(かみがか)りの力が衰えたとはいえ、卑弥呼が邪馬台国連合に果たした功績は誰もが認めるところでした。一時は鬼道による祭政一致社会の招来を声高に唱えた人々も、その後の内乱、そして台与の擁立による社会の安寧と経済の増進は、卑弥呼を死に追いやったことに対する自責の年を深いものにしたはずです。
 壮麗な葬送を行うことに衆議一決しました。先進の中国や三韓にもないユニークな墓制が検討され、ついに前方後円墳の出現を見たという推理です。
 卑弥呼が死んで、内乱を経、台与を擁立してから数年後と考えますと、もう、2,3年で4世紀が始まる頃になります。

松戸:高見航毅

 上:宇佐八幡宮亀山(大分県宇佐市) 下:津古生掛古墳…不整形古墳(福岡県)
新宇佐八幡.jpg
上:石塚山古墳(福岡県苅田市) 下:箸墓古墳(奈良県明日香)
新箸墓古墳.jpg

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