お茶の間の邪馬台国論(最終回)

それでは最後に「卑弥呼の斎宮があった所」と考える、豊前の宇佐八幡宮についてご紹介し、この稿を締めくくりたいと思います。
 ご精読ありがとうございました。

 〔 宇佐八幡宮の起源 〕
諸説あって定説はありませんが、奥の院の御許(おもと)山(大元山)の巨石(メンヒル)信仰が始まりで、これが宇佐氏を始めとする周防灘沿岸の豪族連合の祖神、「比咩(ひめ)神」になったという説があります。
 比咩神は、天照大神と素戔鳴尊との天の安河原の誓約で、素戔鳴尊の十挙剣(とつかのつるぎ)から生まれた、多紀理媛(たぎりひめ)、多伎都(たきつ)媛、市伎島(いちきじま)媛の三女神のことで、宗像神社や広島の厳島(いつくしま)(安芸の宮島)の祭神でもあります。
 恐らく玄界灘から瀬戸内海にかけて勢力を振るった、海人一族の奉戴(ほうたい)する神だったのでしょう。あるいは先に「国生み」のところでふれた、頭に「天の」と冠する、九州周辺の海域に浮かぶ島々は、なべて比咩神を奉戴する海人が住んでいたのかも知れません。
 やがて「比咩神」は大陸からの帰化人(秦(はた)氏系の辛島(からしま)氏。後漢書に「女王国の東に秦王国あり」の記事がある。現在でも周防灘沿岸には秦(はた)姓が多い。)の奉ずる「辛国(からくに)神」と融合して「ヤバタの神」になります。
 「ヤバタの神」は「八幡」、つまり沢山の軍旗の意で戦の神、あるいは沢山の踏鞴(たたら)の意で製鉄の神として、古来から多くの信仰を集めました。
 一説では大和朝廷が成立する以前から、一大宗教王国が存在していたと言います。

 さらに応神(おうじん)天皇(誉田別(ほむたわけの)尊。河内の百舌野(もずの)の我国第二の規模を誇る古墳に葬られたと言う)を勧請(かんじょう)して、応神八幡神(後に我国最初の神仏混(こんこう)の本尊である八幡大菩薩になる)とし、AC725年(神亀2年)に現在の亀山(小椋(おぐら)山)に鎮座しました。
 その後、母后の神功皇后を合祀し、現在では第一殿が応神天皇、中央の第二殿が比咩神、第三殿が神功皇后となっています。

 〔 宇佐八幡の勢威 〕
全国におよそ11万社の神社がありますが、そのうちの35%の4万社が八幡宮で、宇佐八幡宮はその総本社です。
 古代には、皇室の祖廟である伊勢神宮と並んで、二所宗廟(にしょそうびょう)と崇(あが)められてきました。
 宇佐八幡宮は、とくに朝廷の政に重きをなした存在で、歴代天皇の即位にあたって奉幣(ほうへい)したり、また国が重大問題に直面したときには、上宮の本殿の前の春宮社において獣骨を焼き、外宮前の兆竹(きざしたけ)でつついて生ずるひび割れによって卜占(ぼくせん)(シャーマン)し、その結果を「宇佐使」が八幡神のご託宣として、朝廷に下しておりました。

 歴史上有名な、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が称徳(しょうとく)女帝の皇位を簒奪(さんだつ)しようと企てた事件では、勅使の和気清麻呂(わけのきよまろ)に譲位の不可なる神託を下し、皇室の危機を未然に防ぎました。

 また奈良東大寺の大仏建立にあたって、畿内の技術者*では10年経っても工事が進捗せず、頓挫(とんざ)する恐れが出始めたときに、八幡神のご託宣が下り、豊前地方の帰化人集団を総動員して、1年間で完成させました。
 この功により、八幡大菩薩は一品(いっぽん)に、比咩神は二品に叙され、さらに宇佐使には天皇と同じく、紫の輿(こし)の使用を許されました。この後、宇佐使がご託宣を奉じて朝廷に到着したときには、文武(もんぶ)百官が土下座をして迎えるようになったということです。
 また封戸(ふうこ)1400戸、位田(いでん)140町を賜り、その神領・神田は西日本の各地におよび、今も大貞(おおさだ)(大宇佐田)、神田の地名が残っています。
 当時の伊勢神宮の封戸が1000戸、位田が100町であったことを思えば、の威勢のほどが分かります。
 このように大和朝廷の成立以前から九州の豊前の地に威を張り、鬼道をもって国政を左右した宇佐八幡宮の正体は、一体何なのでしょう。(完)
 
                 *技術者集団 武蔵の国風土記には「用命天皇の頃、関東開発を急ぐために、畿内にいた高麗(こま)人1799人を武蔵の国高麗郡に移した」とあり、そのために畿内の技術者が払底(ふってい)していたと思われます。

松戸:高見航毅

宇佐神宮.jpg

 

お茶の間の邪馬台国論(36)

つぎに狗奴韓国は、従来「倭の北岸」の意味を「倭国の北辺の岸」という意味に解し、あたかも倭の領土のように思われてきましたが、確かに倭人も住んではいたものの、この頃の中国や韓国は「倭の北岸と海を挟んで相対する加耶(かや)という地域」という認識をしていて、必ずしも倭国の統治権が存在するという観念はなかったのではないでしょうか。後に加耶に置かれていた任那(みなま)日本府は、日本の大陸外交の足がかり的な出先機関だったのではないかと思います。

 

 対馬国から不弥国まではフェニキア的海洋国家で、玄界灘に臨んで大陸に往来し、また時によって、人によっては加耶地方に住み着いて、盛んに交易を行う、女王国とは同盟関係にあった国々だと思います。

 もとは、それぞれ王を戴いた独自の政権でしたが、大陸との交易が膨張し、また大陸からの人口流入が増加するなどで、互いの関係がバランスを失し、利害の衝突(倭国大乱)が頻発(ひんぱつ)したため、優れた巫女と評判の、卑弥呼のご託宣を奉じて政を行うようになったのだと思います。

 倭人伝に、とくに伊都国にのみ「世々王あり」と記されたのは、伊奴国王の先祖が後漢の光武(こうぶ)帝から金印(志賀島出土)を授与されたという記憶が、当時の魏の関係者にあったからでしょう。

 

 もともと金印は、他の例を見ても「漢の王」にしか与えられない印で、「漢の倭国の奴の王」のような陪臣(ばいしん)諸侯には、銀印か銅印が与えられると、詳細なデータをもとに展開した説論があります。

 また金印の「委」の字は「倭」に似ていますが、決して「わ」と読ませた例はなく、「い」としか読めないという論もありますし、逆に中国の金石文では、良く「へん・つくり」を省略するという反論もありますが、私は前記の論を支持したいと思います。従って、志賀島の金印は「倭の委奴国(伊那国)王」と読むべきであるとおもいます。

 

 そして邪馬台国は、豊国主尊以来の一族が徐々に周辺を侵し、3世紀の半ばには臨海部を除く、北部九州の大半を版図(はんと)としていました。本家は豊国主の嫡流(ちゃくりゅう)(豊の君=男弟)が行橋市にいて、卑弥呼は宇佐を斎宮(いつきのみや)としていたのです。

 宇佐は斎宮の所在地でしたから、近辺に大集落と言えるほどのものはありませんでした。宇佐氏が卑弥呼のご託宣を豊の君へ伝える役割でした。

 その他の領国はそれぞれ分割して、卑弥呼の頃の首長はつぎのようになっていたのではないかと思います。

 そして狗奴国との終戦後、卑弥弓呼との和解がなって、後顧(こうこ)の憂(うれ)いがなくなり、国力も充実しましたので、かねてから懸案の東征に踏み切ったのです。

 経済と人口の膨張とでエネルギーが充満し、周辺の後進地域の併呑戦争に駆り立てたのです。

 

五瀬命 - 八女地方を統治。筑紫の君。 東征のときの最初の司令官でしたが、激戦中に陣没。


 

稲飯命 - 遠賀川下流地方を統治。海人族の長である宗像の君。難波潟の海戦の指揮官として奮戦したが陣没。紀には難波の海が時化(しけ) て戦況が覚(おぼつか)ないので、「海神の娘を母と叔母にもつ我々を、海 はどうしてこのような迎え方をするのか」と叫んで入水したことになっ ているのです。

 

三毛入野命- 豊前地方を統治。豊の君の名代。豊前市の海辺の日豊線JR駅に、三毛門(みけかど)(三毛地方の入口の意?)の地名があります。紀の本文には三男とされていますが、別書には末弟としたものもあり名前に「稚(わか)が冠されています。初陣の少年将軍を彷彿(ほうふつ)させますが陣没したとの書もあります。そうだとすると、4人の将軍のうち3人までを失ったわけですから、東征戦は苛烈を極めたものだったのです。

 

神日本磐余彦尊-甘木地方を統治。東征のときに、五瀬命や稲飯命および三毛入野命の戦死後、司令官として全軍を率い、ついに大和地方の平定に成功した。
 

 神日本磐余彦尊は、粗末な武器ながら熟知した地勢を利してゲリラ戦を挑む、長脛(ながすね)彦の軍を遂に破り、大和の纏向(まきむく)(飛鳥地方)に本拠を据えて、大和朝廷の基礎固めを始めたのです。時あたかも3世紀の終末でした。その後の大和勢力の急伸に伴い、本家の九州勢力と齟齬することが多くなり、これが日本武(やまとたける)尊の征服戦や景行天皇の土蜘蛛(つちぐも)征伐、筑紫の磐井(いわい)の反乱などに繋がっていったのではないかと思います。

 また九州における神日本磐余彦の領国は甘木市周辺であったため、大和の地名に移植することが多かったのではないかと思います。

 

* 神護石   御所谷一帯の峰々を囲むように、数kmにわたって1m角程の列石が連なっています。同様の遺跡は、北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて、数多く見られますが、当初は大和の三輪山の環状列石と同じく、神域を画すものと考えられ、神護石と命名されました。しかし、その後の研究により、朝鮮式の古代の山城の遺構で、土塁の基礎部分ということが判りました。また作られた時期が、白村江(はくすきのえ)において、日本と百済(だら)の連合軍が、唐と新羅(しらぎ)の連合軍に大敗した直後と推定されるところから、その後の唐・新羅軍進駐の防ぎとして作られたと考えられています。(以下、次号に続く)

松戸:高見航毅

金印 国宝.jpg 

お茶の間の邪馬台国論(35)

〔 私の独り言 〕
 幕を下ろしたうえで、気楽な独り言に今少しお付き合いください。
 北部九州のどこにあったのか…。
 前出の北部九州の有力な比定地で、弥生時代および、それに続く古墳時代の遺跡が多い地域といえば、甘木市、八女市、遠賀川流域、行橋市などがあげられます。
 その中で、甘木市には、記紀の高天原に出てくる地名と、良く似た地名が多く残っています。たとえば、甘木=天(あめ)の城(き)、夜須川=天の安川、香(かぐ)山=天の香具山などがあります。おまけに、大和の飛鳥地方と良く似た地名が、飛鳥と相似形に存在することが、安本美典氏等により指摘されています。
 ここから東征した部族が、甘木の地形に似た大和のあちこちに、故郷を懐かしんで同じ名前を付けたからではないか…。
 全国に似た地名は結構多いため、単純に地名の類似だけでは考証するのは危険ですがなんとも魅力的な場所です。
 東征軍の大将神武天皇の、九州における領地ではなかったかと推量しています。
また遠賀川の流域では、上流の桂川(けいせん)町周辺には、弥生~古墳時代の遺跡が密集し、とくに王塚装飾古墳は有名です。
 私は飯塚市を含むこのあたり一帯を投馬国と推定しています。

 下流の「岡の水門」に比定される芦屋町には、最古の稲作の遺構があり、また宗像の君徳善(とくぜん)の墓という、宮地嶽古墳のある津屋崎にも近く、一帯は宗像氏(海人(あま)族)の勢力圏であったろうと思います。
 従って、豊玉姫、玉依姫の実家である海神(わだつみ)の国はここで、不弥国ではなかろうかと推測しています。

 八女市は筑後川の流域の肥沃な平野で、古代の遺跡が密集している地域です。
 とくに筑紫の君磐井(いわい)の墓とされる古墳や、石陣山(せきじんやま)古墳など、九州最大級の前方後円墳が多数存在しています。
 代々筑紫の君がいたところと言われています。
 行橋市は近年、市内下稗田(しもひえだ)から大規模な弥生集落遺跡が発掘され、弥生のクニの七つ道具が出揃いました。
 我国最古級の石塚山古墳(京都市苅田町)や、宮内庁所管になる重要古墳を始めとする古墳群、海彦山彦伝承地の蓑(みの)島、豊前国分寺、御所谷神護石(こうごせき)*など、古代から連綿と大きな権力が存在したことが窺われます。
 代々豊の君がいたところと言われています。
 ちなみに、市政がしかれる以前は、京都郡(みやこぐん)に属していました。

 宇佐八幡宮は、全国で4万余社を数える八幡宮の総本社です。
 鎮座する亀山は、卑弥呼の墓ではないかという説もある古式の前方後円墳で、近くの豊後風土記の丘には、これも我国最古級の赤塚古墳を始めとする古墳や方形周溝墓があり(こちらは莵狭都比古、莵狭都比売の墓所と言われています)、遺跡には事欠きませんが、弥生のクニの存在を示す集落跡が発見されていません。

 以上、北部九州における有力な比定地から、私の独断で5ヶ所選抜してみました。(以下、次号に続く) 下に地図あり。↓

松戸:高見航毅

新大和のまわりの地名.jpg甘木市のまわりの地名.jpg

 

お茶の間の邪馬台国論(34)

十一  エピローグ
 
 私の辿り着いた結論は、「邪馬台国は北部九州のどこかにあった」ということになりました。
 秦末から後漢末にかけて、大陸から大量の人口流入がありましたが、同時に彼らは大陸の進んだ文化や技術を齎(もたら)しました。
この頃に北部九州に伝わったと思われる鉄器は、軍事力のアップだけでなく、農業生産の飛躍的な向上を実現しました。
 北部九州への稲作の伝播(でんぱ)は畿内より100年は早いといいます。鉄器の普及と相俟(ま)って、爆発的な人口増加に十分耐えられたことでしょう。
 圧倒的な軍隊の保有能力(人口と食料)、かつ殺傷能力の懸絶(けんぜつ)した武器を持った北部九州の部族が、他の地域を制圧したと考えるのが自然でしょう。

 「それで北部九州のどこなの?」という質問が、当然飛んで来そうですが、残念ながら、現在提供される情報の中からでは、とても特定できないと思います。
 北部九州には、筑後山門(やまと)郡、甘木(あまぎ)市、八女(やめ)市、遠賀川下流域、遠賀川中流域、行橋市、宇佐市など、有力な比定地が目白押しですが、これらの中で「ここです」と、誰もが納得するような説明ができないのです。
 これまでに百出した諸論の中には、場所だけに限って言えば、すでに的中した論があったと思いますが、客観的な立論ができないために、「多くの説のうちの一つ」に終わっているのです。

 今後考古学上の新発見、たとえば卑弥呼が魏の皇帝からもらった、「親魏倭王の金印」でも出ないことには、永遠の歴史のロマンとして続くのではないでしょうか。
 そういう意味でも、現在天皇陵に比定されたり、あるいは神社仏閣の境内にあって学問的な調査・研究が拒否されている古墳に、科学のメスが入ることを願ってやみません。
 現在、古代の天皇陵は、江戸時代に書かれた「山陵記(さんりょうき)」とか、記紀の記事をもとに比定されたもので、学問的には疑わしいものが多く、また旧形を著しく損なってもいますので、「天皇陵を暴く」といった否定的な捉え方をせずに、「天皇陵の平成大補修」といったプラス思考で、調査・研究の機会が得られないものかと念じています。(以下 次回に続く)

松戸:高見航毅

 

お茶の間の邪馬台国論(33)

〔 神武天皇の東征 〕
 紀の巻第四、神武天皇紀に「太歳(たいさい)の甲寅(きのえとら)、十月十五日に天皇は自ら諸皇子・舟軍を率いて『東征』に向われた」と明確に記されています。
 さらにその行程にも「宮居(みやい)(?)を出立して、速吸之門(はやすいなと)(豊予(ほうよ)海峡)
を通り、宇佐(大分県宇佐)の足一騰宮(あしひとつあがりの)に立ち寄って、菟狭都日古(うさつひこ)、菟狭都比売(うさつひめ)の兄妹に東征の報告をし、十一月九日、岡の水門(みなと)(遠賀川の河口?)到着~十二月二十七日、安芸の国の埃(え)の宮到着~翌年三月六日、吉備(きび)の国の高島の宮に着いてしばらく駐屯された。
 戊午(つちのえうま)の年の二月十一日に吉備を出立~難波の埼を過ぎて~三月十日に河内の国草香(くさか)村の青雲の白肩津(しろかたづ)に上陸された」とあります。
 おそらく宇佐で託宣を受けた後に、岡の水門付近で、糾合(きゅうごう)した九州の豪族軍と落ち合い、途中瀬戸内海西部沿岸の豪族を吸収し、また制圧しつつ、すでに協力の約束を取り付けていた大国、吉備王国に駐屯して、大和進駐の作戦会議、兵の調練、兵站(へいたん)の確保、さらには瀬戸内海東部沿岸地域の掃討(そうとう)を行い、万端整って、二月十一日に吉備を出発、一瀉千里(いっしゃせんり)
で河内に上陸して作戦を開始したのではないかと思います。
 こう考えますと、天皇軍のとった道筋に矛盾はありませんし、遠賀川河口~岡山までに4ヶ月を要したこと、前線基地の吉備に長期間駐屯し、岡山から河内まで一ヶ月で急行した(前述の〔弥生の航海〕で鞆~難波までの概略所要日数が20~25日と推定しましたが、大部隊では約一ヶ月かかると思われます)ことも納得がいくと思います。また瀬戸内海沿岸地域の掃討作戦の痕跡が、先に触れた「焼亡した高地性集落」ではないかと思います。
 畿内論者の言うように、もともと大和に発祥した天皇家が後に九州他の各地を併呑していったのならば、何の必要があって、自分の出自(しゅつじ)が被征服地の「九州」と正史に記録しなければならなかったのでしょう。
 記紀に書かれていることの真偽は別にして、また神武天皇が実在した、しないにかかわらず、わざわざこのようなストーリーにしたのは、天皇の出自が九州であったほかには考えられません。
 なにしろ記紀の編纂を命じたのは、他でもない天皇家(天武天皇)であり、皇室にとって記紀は、言わば「自家の史書」だったのですから。
 この一点をもってしても、「畿内説は絶対に成り立たない」と言うほかはありません。

松戸:高見航毅

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