去年のNHK大河ドラマ「篤姫」。鹿児島県では、放送が終わった今でも、篤姫のブームが続いている。大河ドラマの放送にあわせて鹿児島市にオープンした篤姫館の入場者数は、今月13日に60万人に達した。60万人というのは、県庁所在地の鹿児島市の人口と同じ。篤姫館の実行委員会は、施設の開設期間を今年1月までとし、入館者の見込みを20万人と予想していた。予想を超える人気で、篤姫館は来月まで期間を延長することが決まっている。
「島津に暗君なし」。篤姫にとどまらず、明治維新の英雄、西郷隆盛や大久保利通らを輩出した鹿児島に伝わる、歴代の島津の殿を評する言葉だ。島津氏の歴史は古く、建久8年(1197年)に、島津忠久が源頼朝に薩摩国、大隈国(ともに現在の鹿児島県)の守護に任じられたことが始まりとされている。
泰平寺
時は流れて、血で血を洗う戦国時代。島津氏第15代当主の貴久が薩摩を統一する。この貴久は、薩摩島津氏の分家にあたる伊作島津氏の出身で、貴久の父・忠良は、島津中興の祖と称えられている。忠良は、その後の領国経営のあり方や家臣団編成など、島津氏が飛躍する基礎を築き上げた。また、「いにしえの道を聞きても唱えても 我が行いにせずばかいなし」で始まる「島津いろは歌」を創作し、これは薩摩武士の師弟教育の教典にもなった。
貴久の4人の子、義久、義弘、歳久、家久は、「島津4兄弟」として、戦乱の続く九州を駆け抜けた。彼ら兄弟の祖父・忠良は、「義久は三州の総大将たるの在徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と、それぞれの資質を評している。4兄弟は、祖父の評に恥じることなく、島津氏が悲願とした九州制覇に後一歩のところまで迫った。
しかし、豊臣秀吉の九州征伐で、4兄弟の野望ははかなく散ることになる。天正十五年(1587年)、日向国根城坂(現在の宮崎県木城町)で、当主の義久や次弟・義弘が率いた軍勢は、圧倒的兵数を誇る秀吉軍に敗北を喫する。九州制覇が成らなかった島津氏は、秀吉により薩摩、大隈、日向の一部の所領に押し込められてしまった。
県都・鹿児島市の北西に位置する人口約10万人の薩摩川内市。2004年3月に開通した新幹線の停車駅の1つで、その車両基地もある。鹿児島市のベッドタウン的性格を持ち、川内原子力発電所、京セラの工場などがある。薩摩川内市は、平成の大合併で川内市や樋脇町など1市4町4村が合併し、現在に至っている。旧川内市は、かつての薩摩国の中心であり、ニギノミコトを主祭神とし、アマテラスオオミカミとアメノオシホミミノミコトを祀った新田神社があることでも知られている。
この薩摩川内市に、不思議な像が存在している。川内駅から車で10分ほど行ったところに、奈良時代初期に女帝・元明天皇の即位とともに出された勅願で建立された、県内屈指の古刹、泰平寺が位置している。この泰平寺に隣接している公園内に、島津第16代当主・義久が、秀吉に“屈服”している像がある。ここには、秀吉が義久との和睦を祝して合わせたとされる「和睦石」も置かれている。
泰平寺は、秀吉が九州征伐で本陣を置き、ここで秀吉と義久が和睦の会見を行った。そのことを記念(?)しての像だが、これには違和感を覚えた。鹿児島といえば、島津の殿は敬意を払われる対象だと思っていたのだが、地元の人はそうでもないのだろうか。
泰平寺の和睦石
泰平寺の住職、羽坂光昭氏に、筆者が覚えた違和感や怒っている人がいないのかとたずねたところ、「あの像をけしからんと申し立てる人もいない」と、意外な答えが返ってきた。この像は未来に語る歴史像として、平成14年に創られた。像の説明文には、秀吉が薩摩に侵攻してきたというくだりがある。秀吉軍を“侵攻”と捉えるのであれば、このような像を創ること自体、郷土の偉人を蔑むことではないのだろうか。羽坂氏も、「予算・決定先行の田舎行政の仕事」と一刀両断。そして、「歴史や文化に『独自の誇りを持つ』というより前に、川内は自分の顔を持たないのだと思う。無いなら、新しくシンボルを作ろうとしても、どんな顔にして良いのかさえ思いつかないようだ」と呆れていた。
大久保利通像
鹿児島市を訪れると、市内のあちらこちらに像がある、西郷隆盛は言うまでもなく、西郷と同じ維新の英雄・大久保利通、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を日本海で撃破した東郷平八郎・・・。銅像のオンパレード。さすがに明治維新の原動力となった人材を輩出した鹿児島。と、感じる反面、戦国時代の島津の殿に対する印象は薄いようだ。タクシー運転手や市民に義久や義弘の話をたずねてみても、曖昧な返事ばかり。勝手な思い込みだが、南国の人はおしゃべりが多いという印象を持つ筆者にとって、この反応は、またしても意外だった。
ただ、義弘については、秀吉の朝鮮出兵で数万から20万の明・朝鮮連合軍を、6000の兵で打ち破った歴史的勝利や、関ヶ原の戦いで、1000ほどの軍勢で徳川家康率いる東軍の真ん中を突き破って退却するという「島津の退き口」で有名なこともあり、兄の義久よりは有名だった。ところが、義久は、泰平寺の羽坂氏の言葉を借りると、「その名も知らない人の方が多い」。
義久は九州統一を目指した、4兄弟のボスであり、島津家中のカリスマ的存在だった。義久が当主として構えていたからこそ、義弘、歳久、家久の弟たちが持てる才能を発揮することができたと評する史家もいる。それにもかかわらず、この義久の処遇は・・・。
島津義弘像
鹿児島中央駅から西へ、列車に揺られること17分。伊集院駅前には、義弘の勇壮な像がある。今にも敵に向かって駆けていかんとする印象を受ける。碑文には、義弘を称える美辞麗句が並んでいる。像の制作者は文化勲章を受賞者で、鹿児島市内に美術館もあるほどの有名人みたいだ。
義弘は、その戦国武者ぶりから、数々の出版物が刊行されている。伊集院駅がある日置市伊集院町には、義弘を祀った徳重神社、菩提寺の妙円寺が隣接してある。妙円寺では、毎年、義弘の奇跡的な関ヶ原からの生還を称える「妙円寺詣り」が行われており、武者行列を目当てに多くの観光客が訪れるという。
義弘にまつわる行事は多い。薩摩川内市で秋の伝統行事となっている「川内大綱引」は、義弘が出陣前に兵の士気を高めるために始めたとされている。県の中部にある加治木町では、朝鮮出兵の際、義弘が兵の士気を高めるために始めたとされる、2匹の蜘蛛を戦わせる「くも合戦」。くも合戦は、国の記録を残すべき無形民俗文化財にも指定されている。
義弘に比べると、義久は、泰平寺の像が象徴するように、あまりにも寂しい。義弘が神社で神として祀られている一方、義久は神となることもなかったという。再び、泰平寺の羽坂氏によると、「鹿児島の人の中でも、堂々と『秀吉と和睦した島津義弘』という人がいる」。郷土の歴史を正確な知識とし、理解することは、日本の課題だと指摘する声もある。この鹿児島は数々の歴史的偉業(何を基準とするかは難しい部分もあるが)を成し遂げた土地であるのに、こうした実態は筆者には理解しがたいと感じた。
羽坂氏は、この現実を「激動の幕末・維新後に革命をも起こそうとするエネルギーが西南戦争の敗北とともに、空虚感に変わり、それっきりあの素晴らしい鹿児島人は、何か呪縛のようなものに縛られ続けているようにも思う」と分析。そして、「自画自賛が強すぎて、他文化圏の人が聞いたら『退屈なマンガ』でしかない」とも指摘していた。確かに、鹿児島に馴染みがない筆者にとって、これまで仕入れてきた知識は、義弘や西郷の話がほとんどだった。戦国の義弘、幕末・維新の西郷、鹿児島の人たちは、この2人に縛られ、それを自賛することが多く、あとは“その他の人”扱いをしているのだろうか。
筆者は、鹿児島に馴染みはないが、思い入れはある。明治維新の中心的役割を果たした薩摩・鹿児島という地、人に触れたいという思いが強いからだ。羽坂氏の出身は福岡だが、様々な話を聞き、氏が鹿児島を愛していることを実感した。だからこそ、羽坂氏は、鹿児島の歴史に対する現状に、苦言を呈されているのだろう。
羽坂氏は、こうした現状を打破するために、鹿児島の様々な歴史を伝えようとしている。訪ねて行った際、「用務があるので、あまり時間はありませんが」との断りがあったが、1時間にもわたって、筆者の興味をかきたてる話をしてくれた。羽坂氏の思いが広く伝わることを願いつつ、合掌。
北海道:北の亀

鹿児島の観光スポットと温泉を紹介する拙HP「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/kagoonin.htm
内のサブ・コンテンツ「泰平寺訪問記」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/KAGKAN93.HTM
から貴サイトにリンクを張りましたので、その旨ご報告いたします。
今後ともよろしくお願いいたします。