日本Webリポート&ニュース

2007-11-05 (月)

お茶の間の邪馬台国論⑭

 しかし、なにも雨の夜道を行った訳でなく、やはり郡使の通行は早朝から日没までと考えるのが自然です。太陽と星の位置で、あやまらずに方角を認識できたことでしょう。たとえその日が雨で、方角の識別が困難だったとしても、案内に立った倭人に聞けば判るはずです。
 またこういう考えもできます。
すなわち、狗耶韓国~対馬国、対馬国~一大国、一大国~末盧国は、いずれも黒潮を横断する航路ですが、なぜか、対馬国~一大国しか方角の記載がありません。
 それはともかく、時速が最大7kmの海流を数時間かけて東南に乗り切ろうとすれば、40~50kmは東へ流されますから、舳先(へさき)は常に南へ向けて航行するはずです。
また末盧国~伊都国の場合は末盧国が呼子であれば、前半の行程は南行になりますし、奴国~不弥国は、不弥国の特定がされていませんから何とも言えません。
 宇美であれば東南と言えないこともありませんし、津屋崎あるいは遠賀川下流域説をとれば北東になります。
 このように一口に「南へ45度ずれて表記している」と言って、投馬国、邪馬台国の方角を東に振って、畿内にもっていくのはとても乱暴な話に思えるのです。

③伊都国から先は、直列に繋がるのではなく、伊都国→不弥国、伊都国→投馬国、伊都国→邪馬台国と放射状に考えるべきである。(九州説)

 中国の学者に言わせると、漢文にこういう読み方はないと断言します。またこう読んでも、肝心の投馬国と邪馬台国までの所要日数の説明は、かなり苦しいと言わざるを得ません。

④「水行十日、陸行一月」は帯方郡から女王国までの、全行程の所要日数である(九州説)

 
これも漢文の正しい読み方とは、とても言えないのだそうです
 また後で述べますが、当時の航海術では、時速7kmの速さでとうとうと流れる対馬海流をわずか十日で乗り切ることは、とても難しいことだと思います。

⑤倭人伝に表記している里数は、魏晋朝に一部でしようされた(と言う)短里(一里=約90m)によっていると思われる(九州説)

 短里があったかどうかは別にして、先にも触れたように、一国の軍事報告や公式の記録に、複数の里単位が使用されるようなことは、絶対に考えられないと思います。
 邪馬台国を九州に比定しようとすると、必ず「距離の暗礁」に乗り上げ、また畿内に比定しようとすると「方角の谷」に阻まれるのです。
 そこでいろんな説を考え出しては、涙ぐましい検証を繰り返してきたのですが、以上のように、畿内説にしても九州説にしても、「スポッ」と嵌る(はまる)もの、すなわち誰もが納得するような説明ができないでいるのです。
 それもこれもひとえに、倭人伝の表記には、邪馬台国の位置を決定づけるための必要十分条件が具備されていないと言うほかないのです。(以下次回に続く)

(以下の図はクリック→拡大してご覧ください)

         大邪馬台国.jpg          放射式読み方.jpg     

松戸:高見航毅

<関連記事>

この記事に投稿されたコメント

コメントを募集しています

コメントを投稿する

* コメントフィード

△画面トップにもどる

最近のコメント
最近の投稿
Calendar
« 2012 年 2月 »
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29        
QR Barcode
QR Code for お茶の間の邪馬台国論⑭
RSS Feed