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2012-01-25 (水)

震災日誌in仙台(1月前半)

1月10日  野田総理 石巻へ~鈍感であることが政治家の要件? <<   作成日時 : 2012/01/12 23:00   >>

じょう総理、野田総理が宮城、岩手の被災地にやって来た。
初めてなのかと思ったが、就任後では昨年9月以来という。12月に来る予定が北朝鮮の王朝の異変で今回になったという。しかし、各種の世論調査で内閣支持率が急落した直後。支持率アップをねらったパフォーマンスではとの疑いをぬぐいきれない。どじょうの笑顔は終始引きつっていた。

石巻市の水産加工場を視察した。「あちこち煙突から煙が出ているのを見て心強かった」という。冗談じゃない。視察した工場は200余りある水産関連の工場の中で、わずかに操業再開にこぎつけたひとつ。中小企業の復旧を支援する国の制度は、採択になるまでの条件が厳しい。その上、手続きは役人好みに複雑にできている。
石巻市はおろか、商工会議所、宮城県の担当部局が理不尽ともいえる手続き突破するため、総がかりで書類を作った。最初の申請は却下。3次の申請で国の補助制度をようやく受けることができた。
このほかの多くの水産加工の企業は制度の壁に立ち尽くしている。どじょう総理は果たして、こうした事情を知っていたいただろうか?
この地域fでは、雇用の確保には水産関連企業の再建が欠かせない。中央官庁の役人も知らないはずはない。なのに、地元の事情に応じて再建を促進する制度をどうして作れないのだろう?公平性とか、整合性など理屈は様々あるのかも知れない。しかし、つまるところ彼らが信奉するのは自分たちの作った制度の無謬性である。現場はもともと信用できないというのが、彼らが手放さない信条なのだ。
官僚の手のひらから抜け出ることができない、どじょう総理の頭の中もおそらく同じであろう。(本ブログ、12月17日の項、片山義博前総務相の発言を参照)

震災復興がなぜ進まないかを検証する番組で、私のNHK時代の同期記者、五十嵐公利氏は実に正鵠をえた指摘をした。
「日本は江戸時代から住民自治の伝統を持っていた。維新後の明治国家がそれを壊し、中央政府がすべてに優先する社会を作ってしまった」(NHKスペシャル「日本復興のために」1月9日放送)
私たちがあまり知らないことだが、江戸時代の社会は名主などを札入という選挙で選んでいた。女性も地域によっては参加したという記録もある。女性参政権は西欧に先駆けていた。
明治以降の公教育はこうした事実を抹殺してきた。明治の藩閥政府は自らの正統性(レジテイマシー)を強調するため、先立つ江戸時代を暗黒の時代に仕立てる必要があったからだ。

藩閥政府は自治の伝統を圧殺して、ひたすら中央集権の国家作りを急いだ。近代化と富国強兵には手っとり早かったからである。結果、中央政府の”政策”が地方の実情に優先する国家が出来上がった。
現場の実情、事情は2の次なのだ。官僚が中心となって作り上げた”政策”に、現場が身の丈を切ったり、縮めたりして合わせるといういびつな体系が出来上がった。
”民主化”された1945年以後も、この体系は頑として変わらなかった。

総理はこの後、石巻市内の仮設住宅団地に向かった。500世帯余が暮らす大橋地区の団地である。市街地に近い。しかし、仮設住宅団地の多くは用地がなく、市街地に遠く離れた地に建てられた。
住民との懇談で、「買い物にも、病院通いにも便利なここではなく、遠くの団地を見るべきだ」との声が出たという。地元の役人がセットしたコースを見ただけでは、被災者の苦しみは分からない。口下手な東北の人々が必死で抗議したのだろう。
テレビで流れた総理のコメント。「自分たちも苦しいのだろうが、全体を考えようということに感動した」
ずれていないだろうか。素直に感動することは悪いことではない。しかし、住民の言葉には政治のあり様に対する必死の抗議がこめられていたはずである。これまで10か月、被災者を見据えた施策に一向に力を尽くしてこなかった政治にである。
分かっていて受け流したのか?いや、この人には住民の必死の思いは通じていなかったのだと思う。
多くの福島の人々が流浪の旅を続けざるをえない中、平気で原発事故の「収束」を口にする人である。
鈍感でなければ総理は、政治家は務まらないのだろうか。人々の苦しみに鈍感な人物をリーダーにいただく、この国の不幸を思う。(了) 

 

1月9日 神戸の悲劇を繰り返すな!~あすと長町仮設住宅団地・奮闘する住民たち <<   作成日時 : 2012/01/11 21:55   >>

JR長町駅に隣接する「あすと長町」仮設住宅団地。233戸の住宅が建ち並ぶ、仙台市内で最大の仮設団地である。JRの貨物操車場だった。仙台市はここを副都心と位置づけ再開発をはかったが、思うように企業の進出が進まなかった。広大な空き地に仮設住宅の大団地が誕生した。
団地の運営委員会のリーダーを訪ねた。会長の鈴木良一さん(69)と、飯塚正広さん(50)の2人だ。11月2日の項で当団地を「住んでいる方々には申し訳ないが”異様”だ」と書いた。まず、そのことを詫びる。「いやいや、私たちもそう思っています。住宅というより作業小屋に見えますから」とお二人。ほっとする。

 

団地の南端にある集会室で話を伺う。左が飯塚さん、右が鈴木さん。
神戸の悲劇を繰り返したくない。開口一番、お二人がそろって言う。副都心に予定していただけあって、交通の便はいい。買い物にも困らない。ロケーションは抜群なのに、何故?団地の成り立ちを聞いて納得できた。
5月に入居が始まった。宮城県内でも最も早い方だ。用地はもともとあったのだから、建設が早く進んだためだ。阪神淡路大震災では被災者の入居を急ぐため、抽選で当たった人からどんどん入居させた。結果、団地内の人間的なつながりが希薄になり、孤独死が社会問題となった。
これを防ぐため当初は10世帯がまとまって入居するのが条件だった。鈴木会長は第1グループで入居した。5グループ45世帯までは、元のコミュニテイのつながりを残して入居した。ところが、応募がぱったり途絶えた。沿岸部の被災者の多くが元の土地に近い場所での入居を希望したためである。何世帯かまとまるという条件は撤廃。単独でも希望者を入居させた。
団地は埋まった。しかし、大半の住民がお互い見ず知らずという状態になった。このままではドヤ街になりかねない。

危機感を強めた鈴木さんたちは、8月運営委員会を立ち上げた。全世帯のアンケートを配布した。90世帯が賛同。半数にも満たない任意団体だが、住民の絆を新たに作るという重い課題はこの委員会の肩にかかることになった。
様々な壁があった。まず、個人情報保護という代物だ。団地に入居した世帯名も、家族の人数も行政側~この場合太白区~から一切提供されない。個人情報の保護が名目だ。この事態は今もって変わらない。隣に住む人が単身なのかどうかすらも分からない。
これは、かつて身を寄せていた避難所でも同様だったという。避難所の管理者は避難者の名簿を作る。学校などの避難所では、管理者である校長が名簿を入口に貼り出して安否を確認に来た人の便宜を図っていた。しかし、体育館などの区の施設では、誰が避難しているか問い合わせなどにも一切答えなかったという。鈴木さんは言う。「私は数か月、氏名不詳の避難者でした」
住民組織を作るための基礎資料である。太白区が入居者台帳(当然ながら持っている)をもとに、情報提供について本人の意思確認をした上で委員会に提供する。こんな方法もあるはずだ。役所とはこれほどまでに頑迷なものだろうか。それとも被災者のことには関わりたくないというのだろうか。

委員会のメンバーは工夫した。衣類や家庭用品などの支援物資が全国から寄せられる。全戸に配布する。その際の受領証替わりのアンケートに、氏名とできれば家族構成を書いてもらった。何回か繰り返すうち、数軒ブランクはあるが住民名簿はおおよそそろった。
委員会結成に賛同した90世帯がとりあえず対象だが、11のグループに分け28人の役員を決めた。定例の役員会も軌道に乗り始めた。まず取り組んだのが、駐車場のルール作りと、ゴミ出しの規則の徹底。集会場を使った住民同士の交流の輪も拡がってきた。カラオケサークルはじめ、農園作り、フランス語教室などのグループもできた。

しかし、交流の輪の外にいる世帯の方がまだ多い。
行政の支援は相変わらず心もとない。一人暮らしのお年寄りがどこに入居しているか、委員会でも正確にはつかめていない。こうした独居世帯の支援をするのは民生委員のはず。しかし団地は民生委員ゼロ地帯だ。孤独死防止のために看護師が巡回している形跡もない。花壇作り、もちつきなどの行事も行われるようになった。絆を全戸に拡げたい。新しいコミュニテイを作り上げたい。


ついに心配していた事件が起きた。
11月下旬のことだ。以前から昼間から酒を飲んでは奇声をあげたりしていた人物がいた。60歳、一人暮らし。この日、ボランテイア団体の男性を蹴飛ばし怪我を負わせた。それから数日、連日委員会の役員の胸ぐらをつかんだり、防寒工事に男性に殴りかかったりの暴力行為が続いた。11月26日、男性は警察に逮捕された。
仮設住宅団地始まって以来の刑事事件だった。

住民のショックは大きかった。新たなコミュニテイどころではない。不安をなくすには?運営委員会は警察を交え、太白区と今後の対策について話しあった。行政側からの提案は「自警団を組織して対処してほしい」住民たちは言葉を失った。「あなたたちが楯となってください」ということなのだ。
男性はどう考えても、もともと集団に溶け込めなかった性格の人物だったようだ。元からのコミュニテイとは関係なく、行政の都合で入居してきた。新たなコミュニテイ作りに歩みだそうとしていた住民たちにとっては、残念ながら異分子と考えざるをえない。
「強制退去」まではできないにしても、行政側が住民の安全を確保するため、何らかの施策を講じるべきだ。これが住民たちの願いだ。
団地に新たなコミュニテイを作るため、すでにブログ「あすと長町運営委員会奮闘日記」を立ち上げた。住民同士の意思疎通が大事だと考えるからだ。ブログはインターネットに疎いお年寄りには読んでもらえない。近く、一枚刷りのコミュニテイ紙を発行の予定だ。

集会室の入り口は仙台市内の子どもたちの作ったカラフルな工作で飾られていた。
仮設住宅の1棟の壁がペイントで明るい花などに塗られていた。子どもたちの絵画教育をしているNPO法人の協力だ。このあと順次、団地の周囲の壁をペイントで塗っていくという。灰色の無機質な仮設住宅の壁。”異様な”団地は間もなく花模様の明るい団地に生まれ変わる。

私たちは見捨てられた団地ではないか。太白区は内陸部にあり津波の被害を目の当たりにしていない。ひょっとして、私たちを「余計な」ものがやってきた、と考えているのではないか。
そうした想いとは別に、神戸の悲劇を繰り返さない。新たなコミュニテイを作る。これが私たちのなすべきことです。
鈴木会長、飯塚副会長のお二人はさわやかに話した。(了)

 

1月6日 その2  瓦礫の街で守る雄勝硯~半島の山中の桃源郷、そして街が消える不安 <<   作成日時 : 2012/01/10 19:12   >>

雄勝硯の工人遠藤弘行さんの先代、故盛行さんの遺した名品が展示されている所があるという。雄勝の中心街から車で15分、雄勝半島の海沿いを走る道路に別れて、山のなかの道をたどる。雄勝湾を見はらす高台に忽然として「雀島ホテル」(すずめじま)の看板が現れる。やや古風な造りだが3階建の”元”ホテルだ。
その一室に、雄勝硯の工人として名をはせた遠藤盛行さんの作品100点余りが並べられている。黒の地にかすかに金の地紋が入ったもの。蓋の付いた高級な硯。大きさもひと抱えもあるものから、一般の書道家か使うサイズのものまで様々だ。伝統工芸品の良さが堪能できる。

なぜ、ここに展示品があるのか説明が必要だ。
故遠藤盛行さん、4代目の弘行さんはともに雄勝硯生産販売組合に入っていない。弘行さんの説明。父、盛行さんは原料の雄勝石の採掘を手掛けていた。人生の後半で硯作りの世界の入った。昭和30年代のことだった。当時は学校教育に習字が取り入れられ、学童向けの硯が飛ぶように売れた。販売点数は年間200万個とも言われた。雄勝はこの7割を生産していた。
いきおい原料は安価で加工しやすい中国産などに傾いていった。地元の良質の原石を見続けてきた遠藤盛行さんは、そうした趨勢に批判的だった。組合に加入することはなかった。跡を継いだ弘行さんも同じように独自に営業を続けた。勿論、組合と敵対している訳ではない。
組合に属する工人たちの作品は雄勝の中心市街地でもランドマークだった、雄勝硯伝統産業会館に展示されていた。会館は壊滅的な被害。展示品はほとんどが流された。雀島ホテルは独自路線の遠藤盛行さんの作品を評価して展示していた。震災後、雄勝で伝統の硯をまとまって見ることができるのはここだけとなった訳だ。

 


この雀島ホテル、30数年前に作られた。当時東京でコンクリート製品製造会社を経営していた、大西治郎(じろう)さん(85)が私財を投じて建てた。この地との出会いを語る大西さんの話はメルヘンそのものだ。
ある日夫婦喧嘩でむしゃくしゃした勢いで、マイカーを北へ飛ばした。どことあてはなかった。とっぷり日が暮れた頃にたどり着いたのがこの地。土地の人は途方にくれていた旅人に親切だった。宿を提供してくれた。
夜が明けて景色に驚いた。真っ青な海と、島、半島がさえぎるものなく眼前に拡がっていた。ここに観光施設を建てることを決めた。
この話2回聞かされた。「真実なのですね?」「私は本当のことしか話さない」大西さんはにっこり答えた。はるかに牡鹿半島の先端、金華山まで見える。景色をさえぎる建造物は一切ない。100万ドルのオーシャンビューとでも言うのだろうか。
団体で泊まれる部屋が15室。団体客専門の営業でひところは繁盛した。しかし、団体旅行の時代は去った。個人ツアーへの対応が遅れたのだろうか。客足は次第に遠のき、5年前に営業を止めた。大西さんと、家政婦役の女性の二人で元ホテルを守っている。5年間は庭園の整備に私財を投じたという。
硯の展示だけでなく、絵画や民芸品なども展示してある。スコットランドによくあるマナーハウス(領主の館)の趣だ。
これだけ恵まれた展望、そして施設を今後どうするのか聞いた。
外国からの賓客をもてなすゲストハウスにしたい。15の客室全部の改装は難しいので、一部を改装する。
雄勝は津波で壊滅的な被害をこうむった。被害をもたらした海は、こんなに素晴らしい景観も提供してくれる。世界に通用する景観を。雄勝の名前を世界に広めることで、どこもできない観光開発につなげられるはずだ。
またしてもメルヘン?しかし、地域の再生には違った発想が求められるのかも知れない。大西さんの夢の進み具合を、いつの日か見に来たい。

 


雄勝硯の工人、遠藤弘行さんに戻ろう。
震災前4300人いた住民は、震災後は半分以下の1300人程度を数えるほどだという。銀行、商店、学校、病院などの公共インフラがことごとく破壊されたからである。小・中学校も用地がなく隣の河北地区に移転した。仮設住宅も多くは河北地区にある。
中心市街地の復旧は10か月経った今も手つかずだ。ここが復旧しない限り住民は戻って来れない。このままでは街が消えてしまう。遠藤さんたちはこうした不安を抱えている。石巻市は復興計画の中で、住宅の高台移転を打ち出している。しかし、住民がまとまって移転できる候補地は遠い。
これまでの土地での住宅再建はできないだろうか?遠藤さんたちは住民グループを作ってこうした模索も始めた。

将来展望がなかなか開けない中、営業再開した遠藤さんの工房。ごく小さいものだが、地域再生に光を与えてくれる。震災後工人に多くが地域外へ避難し、活動が途絶えていた雄勝硯生産販売協同組合。こちらも津波で流されずに残った硯を修理して、近く仮設店舗で売り始めるという。
瓦礫の街に光は確実に強さを増している。(了) 

 

1月6日 瓦礫の街で守り続ける伝統工芸品・雄勝硯 <<   作成日時 : 2012/01/08 22:19   >>

石巻市雄勝で伝統の雄勝硯を作り続けている遠藤弘行さん(58)を訪ねた。雄勝地区は中心市街地が壊滅的な被害を受けた。市役所総合支所はじめ、小・中学校、銀行、郵便局、商店街が壊滅。死者・不明者は235人にのぼる。津波で流された大型バスが、いまだに撤去されないまま雄勝公民館の屋上に無残な姿をさらしていた。
ブルドーザーを動かす作業員を除けば人の姿がない瓦礫の街に「営業中」の旗と「すずり館」の小さな看板がある。遠藤さんの工房、兼店舗だ。工房と言っても、6畳ほどの組み立て式の物置に、仮設住宅用の廃材を利用して玄関を取り付けただけのもの。小屋と言った方がいい。寒風が吹きすさぶ中、まきストーブで暖をとりながら硯を彫っていた。

 

3月11日午後2時46分、遠藤さんは工房兼店舗で激しい揺れにあった。消防団員の務めとして、近くの水門2か所を閉めた。すぐ裏手の杉林に逃げた。間もなく巨大な津波が街をのみ込んだ。
海沿いに走る国道に面した工房兼店舗は跡かたもなかった。その裏手、やや小高い場所にあった2階建ての実家も流された。今の”小屋”はこの実家の跡地に作った。1週間ほどは、消防団員として地区内で遺体の捜索にあたった。30体ほど見つけたという。遺体搬送もしたが、収容するのは警察の仕事。遺体を発見しては目印の赤い旗を立ててまわった。
消防団の活動は本来は救助活動。しかし、雄勝の中心街は海がすぐ目の前に迫る、さして広くない土地に家が密集していた。家はほとんどが海に流された。他の地域と違って、家の2階などでかろうじて生き延びるという可能性はほとんどなかった。当初から遺体の捜索に追われたという。
例外が1件あった。3月12日の昼、海べりに引っかかっていた民家の2階からかすかに人の声がする。消防団が向かった。めちゃめちゃに壊れた2階で、年配の女性が寒さに震えながら生存していた。地獄絵図のような中、ほっと暖かいものを感じた瞬間だという。
公営の斎場を避難所に避難生活が始まった。硯製作の再開を考えるゆとりはなかった。工具など一切流されたからだ。1か月ほど経った頃、知り合いの職人が自分はもう要らないからとノミを数本譲り受けた。伝手を頼って、内陸部の河南地区に作業小屋を作ろうかと考えていた。しかし、雄勝を離れがたい。市役所の臨時職員に応募した。5月1日、被災者への支援物資を管理する仕事で採用となった。月~金は臨時職員の生活が始まった。

作業小屋となるスチール製の物置はやはり知り合いが譲ってくれた。自宅は壊滅したが、物置は数10メートル流されただけで残っていた。無傷に近かった。運搬の手段がない。ビスを全て外し組み立て直した。原料の雄勝石を切るグラインダーを動かすのに電気が要る。復旧のめどは立たない。ソーラーパネルを一枚用意した。かつて使っていたなじみのノミが一本、300メートルほど離れた桟橋のたもとで見つかった。奇跡的だった。最低限の工具はそろった。

震災から3か月の翌日、6月12日ノミを手に硯の試し彫りをした。感触は戻ってきた。しかし、1時間もしないうちに肩が痛くなった。早々に作業を切り上げた。硬い石を彫るためノミは肩に当てて押す。伝統の技だ。硯を作り始めて30年余。旅行で1週間ほど休んだことはある。3か月ものブランクは初めてだった。「体がなまっていた」と苦笑いする。週のうち5日間は市役所臨時職員、土日に硯製作という生活が始まった。

開店は土・日だけ。しかも、震災で壊滅的な被害を受けた雄勝町を訪れる観光客はほとんどなくなった。”小屋”の店を訪れるのは、たまたま通りかかった人に限られる。今のところ注文生産が主。何かのお祝いに、硯を依頼してくる顧客が頼りだという。しかし、放っておいては伝統工芸はすたれてしまう。
雄勝硯の良さを後世に伝えたい。特に「波板石」と言われる良質の原石はこの地域でしか採掘できない。硬く、加工が難しいが気品のある硯に仕上げられる。雄勝でしか採掘されない原石を生かした硯作り。遠藤さんの願いである。ややまとまった注文を受けたのを機会に、市役所臨時職員を先月(12月)末で辞めた。

石巻市は雄勝地区の復興計画は先月ようやく大筋を明らかにした。高台への移転を目指すというが、ハードルは高い。高台と言っても、まとまった戸数を収容できる広さを確保するのは難しい。候補地は今の市街地からかなり離れた場所にしかない。それを受け入れるかどうか、住民の意見は揺れている。

復旧・復興の道筋すらはっきりしない。瓦礫の街のまっただ中。人の気配がまだ戻らない街だが、遠藤さんは硯作り一筋に復帰することを決意した。「後継者が欲しいねえ」作業の手を休めて、ふっともらした。まきストーブの煙が寒空に立ち昇っていた。

「雄勝硯生産販売協同組合」では、被災した硯を修理して1月9日から販売を始めた。場所は旧総合支所跡地にある仮設店舗だ。遠藤さんは組合には所属せず独自に硯作りを進めてきた。この経緯は次回のブログでご紹介する。
「エンドー硯館」は仮設店舗から、国道398号線を女川方面に進んで、およそ300メートルほどの所にある。「営業中」の旗が目印だ。(了)

 

2012年1月1日  いつもとは違う 新年の迎え方 <<   作成日時 : 2012/01/02 11:29   >>

                  

あの日以来、私にとっての歴史の時間軸は3月11日となった。そう思っていた。しかし、思いとは関係なく1月1日はやって来た。冒頭の文面は年賀状とも、年賀欠礼挨拶ともつかぬ小生の”賀状”である。
いつもの年とは違う。年賀状はいつもの半分以下の枚数にと決めていた。加えて暮れの18日、2歳違いの妹ががんとの闘病の末、天に召された。最期の数か月は、週に一度は東京のホスピス病棟に見舞いに通った。痛切な想いだった。結果、どちらともつかぬ中途半端な賀状となった。異様な文面に驚かれた方にはお詫び申し上げたい。

 

いただいた年賀状。いつもとは違う文字の並ぶものが目立った。「辰」あるいは「龍」一字や、絵を添えた方が多かった。「一陽来福」も。「笑門来福」とした方もいる。「信・望・愛」とその方の心情を率直に記した方もいた。
こうして見ると、いつもの年賀のあいさつよりは書かれた方の思いが伝わって興味深い。いつもとは違うこの年だけでなく、この後も心情を伝える言葉、文字を工夫してはどうだろうか。
年始の挨拶の中からいくつか。
        蟻
     一匹の蟻が、
     龍の髭に
     喰らいついている。  
毎年、ユニークな挨拶をいただく、尊敬する弁護士今村嗣夫(つぐお)さんのものだ。


虚子75歳の作品に「去年今年 貫く棒の 如きもの」があります。
好きな一句でしたが、今年は共感できません。棒がポッキリと折れ、全く新しい年になって欲しいと願うのは、
ムシが良過ぎるでしょうか。   
尊敬する河北新報の先輩記者、北畠修之さん。


「信・望・愛」の3文字を選んだのは、1年の半分は遠野で暮らすNHKの畏友、中森督義さん。NPO法人「遠野まごころネット」でも働く。こう書いてきた。

震災後、遠野での生活で改めて心に刻んだ言葉です。人は誰もが、心の中に限りない優しさを秘めており、
意識なく言葉や行動に出てくるものだと知った東北での日々でした。


山形・上山で農業をするかたわら文筆活動を続ける佐藤藤三郎さん。

東日本大震災、原発事故、TPPへの参加云々、等々先が見えない大きなことがいっぱいあるからでしょう。
この先「どうなるか」ではなしに「どうするか」が大切なのでしょうが、どうもその元気が出てきません。
しかしグローバリズムも芯止まりだな、と思っているのに「さらなる開国」などということばを吐く永田町の
人の声を耳にすると、ますます、不安がつのってきます。
あれこれおちつきのないことばかりですが、まずは自らが自らの住んでいる地に根を張り、自らの命を守る
ことしかないと思っています。それが新しい文明社会を呼び寄せる、そんな時代がきたのだなあ、などと
山里に住んでいながら思いめぐらしています。


そして、仙台に住まう人々共通の願いを、NHK東北旧友会の前会長、菅井哲夫兄が書いてくれました。

冬来りなば春遠からじ、とは云え政経も暮らしも心までもが曙光の見えない時代。被災地には、陽光
まばゆい時の一日も早い訪れを待ちたいものです。


遅ればせながら、今年もよろしくお願い申し上げます。引き続き被災地に足を運び、勇気あふれる人々の
姿を伝えたいと思っています。(了) 

 仙台:松館忠
ブログ「震災日誌in仙台」
http://sakura3411.at.webry.info/

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