日本Webリポート&ニュース

2011-12-30 (金)

震災日誌in仙台(12月)

12月24日 震災を忘れさせてはならない! 訴える若い魂      2011/12/29 11:16  

           

「安心して暮らせる社会を私たち女子学生が考える」宮城学院女子大学の人間文化学科主催のシンポジュームを聞きに行った。震災に関わることは地域にある大学の社会的責任だとかねがね考えていたからである。大学の大教室は開始の午後2時半には100人余りの学生で埋まっていた。私のような一般の参加者も数人。
被災地大学間合同シンポジュームの一環。宮城学院と神戸からやって来た神戸松蔭女子学院大学の女子学生たちは、前日(23日)石巻の被災地を訪ねた後、この日の午前中は仙台市の「あすと長町」の仮設住宅団地で暮らす被災者の方々の聞き取りをした。フィールド・ワークを受けて、復興とは何か?復興に向け何をすべきか?がテーマだった。

まず、神戸松蔭女子学院大学の池田清教授が「大震災の真の復興とは」と題して基調報告をした。地域経済学が専門。16年前の阪神・淡路大震災とその後の復興を研究テーマとしてきた。復興の原点は「故郷や家族を思う気持ち」「田畑への熱い思い」である。単にインフラを復旧させることではなく、人と人のつながり、コミュニテイを取り戻すことだ。人間復興と言える。
そして、阪神の教訓をこう述べた。被災者の生活再建こそがもっとも急ぐべきこと。ところが、この面での公的サポートはきわめて貧弱だった。自己責任に任された。政治・行政はインフラの整備を復興と取り違えた。今回の大震災で同じ過ちを繰り返してはならない。池田教授はこう力説した。

           

              

              

石巻出身の女子学生はこう発言した。「震災直後から地元・石巻と仙台とのギャップに心を痛めた。震災から9カ月経って、そのギャップは埋まっていない」「遠くからやって来たと思われる若者が、被災地で肝試しに興じているのを見た。腹立たしかった」いずれも震災が風化することを心配する声だ。
「仮設住宅に入れたのだからよかったと思っていた。話を聞いてみると、地域にあった人と人のつながりが失われていることを知った」「宮城県北部の大崎市に住んでいる。被災者が移り住んで、減る一方だった人口が震災以降増えている。いいことだと喜んでいいのだろうか。被災地の復興がそれだけ遅れる」
こんな発言もあった。「県の北部に住んでいる。放射線量がホットスポット並みなことを後で知った。もっとも危険な時期に雨に濡れながら作業した。放射能の害毒は子々孫々受け継がれる。それを断ち切るため私は子どもを産まないと決めた」会場が一瞬シーンとなった。
今のうちに決めちゃわないで、と声をかけたかった。でも、彼女の思い込みとは決して言えない。福島から離れた地でもこうした不安、悩みは多くの人々が共有している。正確な情報を提供しようとしない政府の罪は大きい。それどころか、「事故は収束」とうそぶいて人々の不安に向き合おうともしない。

 仙台市最大の仮設住宅団地「あすと長町」に暮らす方々で作る運営委員会から、鈴木良一会長、飯塚正広副会長の二人が特別参加した。次のように話した。
入居は当初、10家族単位でまとまることが条件だった。地域のつながりを残すためだ。しかし、なかなか入居が進まずそうした条件はなくなった。結果的に、向こう三軒両隣誰が住んでいるのか分からない状態になった。このままでは「ドヤ街」になる。運営委員会を作った。自治会にすべく準備中だ。
60歳以上の住民が70%。孤立している住民多い。住民同士のいざこざから事件も起きた。行政は入居させればそれで終わり。住民自身でなんとかコミュニテイ作りに努力しようとしている。
「震災を忘れさせてはいけない。出来ることを発信し続けよう」多くの学生が立って発言した。シンポジュームの指導教官、新免貢教授(宗教学)は「学生たちが震災を自分たちの問題として受け止めていることが分かった。大きな収穫だ」と話した。若い魂のこれからの働きに期待を持たせてくれた。
人々の苦悩を共に担う救い主、キリストの生誕をことほぐイヴの日に相応しい数時間だった。(了)
 

12月17日  「原発事故は収束」 政治家のウソ!!  2011/12/21 10:41  

           

政治家のウソには慣れっこになっていたが、これほどまでとは!昨日の夕方だった。カーラジオから野田総理の会見が流れてきた。冷温停止状態とかいうことを宣言したあとの言葉に、耳を疑った。しかし、確かに言ったのだ。「発電所そのものの事故は収束した」と。
収束とは、「おさまった」、「終わった」ということだ。事故のため故郷を捨て避難している住民は、政府が明らかにしているだけで11万3000人。これほどの人々が故郷へ帰れないのに「終わった」とは、言葉の使い方の基本を知らないというほかない。大量に放出され続ける放射能、海へ漏出する汚染水。環境は汚染され続け、人々の健康不安は増大する一方だ。
メルトダウンした原子炉内の状況すらよくつかめていない。こんな状態で「収束」とは?これで工程表のステップ2が完了したのだという。言葉の使い方を云々するのは時間の無駄。ウソと考えれば理解できる。かつて国の原子力委員会の専門委員を務めた知人の弁護士、石橋忠雄さんがこんなメールを送ってきた。彼は専門委員として原子力政策や高レベル放射性廃棄物の立法作業に関わった後、核燃料サイクル政策に異を唱える論陣をはってきた。
「それにしても政府の福島原発のロードマップには驚きました。これから山(水?)とでる放射性廃棄物をどうするか、全く言及がないからです。事故で出た低レベル~高レベル廃棄物の処理(容器)、管理、処分は法令が全くなく、したがってしばらくは動かしようもないと思います。2~3年で溶けた燃料の取り出し開始というのは、これこそ「トイレなきマンション」の再現だと思います。

                   

            

おそらく、人々の大半が「収束」をウソと感じているに違いない。中には「本当のことだ」と理解すべく努力している人々もいるのだろう。原発事故担当の細野大臣だったと思う。「収束と言い切れるのか?」と問われた。テレビの画面は彼が一瞬顔をゆがめたのを見逃さなかった。しかし、気を取り直したかのように平然と言った。「事態がそれ以上悪化しないということです」放射能が放出され続けるのを悪化とは言わないのだろうか。ウソで言いくるめる必要がこの人々にはあるらしい。
ウソで言いくるめた末に、日本を破局に突き落とした歴史を私たちは60数年前に持っている。しかし、当時と違うのは多くの人々が政治家のウソを見抜いていることだ。メデイアの力は大きい。権力にすべてのメデイアが屈服したかつてとは違う。それにしては、今回はどのメデイアも批判するにしては中途半端な対応に終始した。ウソはウソときちんと言うべきだ。ウソを聞かされることに人々を慣れさせてはいけない。平然とウソを語る”善人顔”にだまされてはならない。
野田総理。この人の危険性は時計のネジをゆっくりと逆に巻いていることにある。それも気付かれないように。菅内閣でともに閣僚を務めた片山義博前総務相の人物評が的確だ。
「私は1年間野田さんを見てきましたが、彼は財務官僚のお膳立ての域を出ることがなかった。---官僚主導が大いに息づくことになるでしょう。結局、野田政権に至って自民党時代の政治に近い「元の黙阿弥」に戻ってしまうのではと懸念しています」(「世界」12月号)
同時に震災復興を人質にして増税をしようという姿勢を厳しく批判している。震災の被災者を冒涜する政策と言うべきである。しかし、この”罠(わな)”もじわじわと進んでいる。TPPもそうだ。事故も収束の見通しすらつかないのに、原発を輸出するという。いや、この人には事故は「収束」しているんだった。
政権交代にかけた人々の期待は大きく裏切られてきた。しかし、歴史の後戻りは誰も望んでいないはずだ。財界や政界の一部の方々を除いて。メデイアが果たすべき役割は大きい。ウソはウソと言わなければ、歴史はずるずる逆回転する。(了)  

12月12日  どっこい生きていた 歌津・馬場中山地区   2011/12/15 18:15  

            

ずっと気になっていた地区があった。この日ようやく足を運んだ。南三陸町歌津・馬場中山地区。NHKスペシャル「孤立集落 どっこい生きる」(2011年11月6日放送)で紹介された。ご記憶の方もいると思う。
住民たちがボランテイアの手を借りながら自力で生活センターを作った。写真がそれである。道路まで作ってしまった。苦労して手に入れた漁船を使ってワカメ養殖も再開した。”驚異の”集落である。
心配だったのは、これほどまでに頑張っている馬場中山漁港が”拠点港”から外されてしまったのではということだった。宮城県は被災した144の漁港のうち60を拠点漁港として復旧を優先することを決めた。半分以上の漁港が切り捨てられた。(当ブログの12月9日の項、参照)拠点漁港の中に馬場中山の文字はなかった。村井知事、許せない!こんな想いだった。
馬場中山生活センターで、住民組織の事務局長役をしている千葉馨(かおる)さん(36)に開口一番尋ねた。「馬場中山を外すとは、けしからんよね!」千葉さん、きょとんとしている。どうも話がかみ合わない。実は馬場港、中山港、名足(なたり)港、3つの頭文字をとって”ばなな”漁港と数年前名付けた。一覧表を見直した。ばななの文字があった。納得、とりあえず安心!生活の拠点をユーモアあふれる名前に呼び替えてしまう。底知れない生活者のたくましさだ。思わず、一緒に笑ってしまった。

             

             

                

             

ばななの中心は中山漁港。岸壁の一部は崩れたまま。地盤沈下も著しい。津波の傷跡がまだ残る。漁船が出入りできるよう住民は港の瓦礫を自力で撤去した。港の機能は一部回復した。
地盤沈下で満潮になると岸壁が海水に洗われる。ワカメなどを水揚げするスペースを新たに作った。岸壁より50センチ程度かさ上げした。ここに漁船が横付けになり漁獲物をあげる。表面のセメントを仕上げる工事をしていた。あと1週間ほどで使えるという。
港内には福々丸の雄姿があった。北海道まで行ってようやく手に入れた。700万円の資金が必要だった。3分の2は公費が補助。残る資金は国際的な活動をしているNPOが負担してくれた。ワカメの種苗を海中に吊るす作業は終わった。来春の水揚げが待ち遠しい。

             

            

            

この日、住民手作りの道路、未来道の建設に活躍したガラパゴスが役目を終えて帰還した。自走式の大型砕石機械である。福井県の建設会社、高茂組(たかもぐみ)が提供した。輸送費は元プロレスラーのデストロイヤーさん提供だ。
道路に敷く砂利は買ってきた方がコストは安かったと千葉さんは明かす。しかし、瓦礫を砕いて住民のための道路を造ることにこだわった。地域再生の理念にかなうからである。トレーラーに積まれてガラパゴスは福井へ帰っていった。千葉さんが名残惜しそうに写真を撮っていた。

          

             

昨夜(11日)集団移転の候補地をどこにするかの話し合いが持たれたという。合わせて5か所を選んだ。町当局との協議がこれから本格化する。候補地はいずれも、これまで住んでいた浜辺からさほど離れていない。このうちの1か所は未来道の入口近くだ。ここからは海も見える。
津波の被害を受けた漁業集落では地域再興の方策として、高台への集団移転が考えられている。人々は何世代にもわたって潮の香りをかぎ、波音を聞きながら海とともに暮らしてきた。潮の香りも届かない遠隔地への移転は、漁業から離れることにもつながりかねない。馬場中山の人々の選択は正しい。
復興庁設置法案がようやく成立したという。実際のスタートは来年3月。実に震災から1年もの歳月を政府は何をしてきたのだろうか。やるからには、机の上の議論ではだめ。そこから出てくるものは計画と呼ばず、絵空事と言うほかない。
自力で地域再生の基盤を作りつつある馬場中山の人々。この人たちを水先案内人とすべきである。被災地が必要としていることは何か。どんな施策で支援すべきか。数々の示唆がここにある。復興庁の役人は全員、馬場中山を実際に見て学ぶべし。
この日、私たちは1・5キロメートルの未来道を通って帰途についた。
馬場中山のHP:www.babanakayama.jp   (了)

 12月9日  漁業再生より”選別”の思想、半数以上の漁港切り捨て   2011/12/14 12:40  


           
           写真は「拠点魚港」から外された歌津・館浜漁港。

宮城県が津波で壊滅的な被害を受けた、県内142の漁港のうち60港を拠点漁港として、復旧整備を優先すると発表した。残る82港は最小限の復旧にとどめる。「小さな港を廃港にする訳ではない」というが、選別、事実上の切り捨てと言っていい。
拠点漁港については2013年度までに防波堤、岸壁などの施設の他、魚市場、水産加工施設の整備を急ぐ。沿岸漁業の生産性と効率性を高めるため、拠点化を図るという。加工 、流通まで担う6次産業化を目指すという。
一方、選別から外された漁港は防波堤や、岸壁などを必要最小限復旧させる。新たな加工施設などは整備しない。つまり。漁船が出入港し、水揚げまではできる簡素な漁港になる。しかし、加工場や冷凍施設はないから、製品化をするには拠点漁港まで運ばなければならない。仮に、ワカメを水揚げするとする。加工場がないから、小船で数キロ離れた拠点漁港まで往復することになる。安全性に問題はないのか?


          
          
          写真・上 拠点漁港になった歌津・中山漁港(ばなな漁港)
              下 外れた雄勝・荒漁港

三陸の漁業者たちは生産性は低いながら、浜ごとに慈しむようにワカメやカキなどを育て上げてきた。しかも、資源が枯渇しないよう海とうまく共存してきた。「太平洋は銀行だ」と叫んだ漁業者がいた。(NHKスペシャル「孤立集落、どっこい生きている」2011年11月6日放送)大事に大事に育てた養殖水産品を、海に預ければ大きな恵みとなって返ってくるのだ。
宮城県の村井嘉浩知事が打ち出した「水産特区」構想は、それらをすべてひっくり返そうというものだった。民間企業を参入させて、沿岸漁業の生産性を引き上げる。資力が乏しく再興できない漁業者は漁業そのものを止めるか、資本力のある企業の従業員になればいい。予想される将来像だった。
漁協の強い反対で特区の導入は、今の漁業権が切れる2013年度まで先送りした。知事は後退したかに見えた。どっこいそうではなかった。今回の漁港の選別は、特区と同じ思想に他ならない。もともと基盤整備が進んでいた所には予算を差し向ける。小さな港に予算を投入している余裕はない。再興を目指す漁業者がいても、「漁業をやめて結構」と言うに等しい。TPPの沿岸漁業版に他ならない。
確かに、震災が漁業者にもたらした被害は甚大だった。生産手段である船はおろか、養殖施設の全てを失った漁業者も多い。宮城県漁協が4月に調査してところでは、組合員のうち廃業を予定している人は30%近くにのぼった。しかし、今回の”選別”は再興を目指していた漁業者まで、その意欲をくじき、心を折ることになりかねない。
線引きは事前に自治体の意向を聞いて決めたという。自治体側の要望で、いったん外れていたのが復活した漁港もある。宮城県漁協には発表当日に”事前”説明したという。特区構想に反対していた漁協も、今回は知事と共同歩調を取ってきたのではとの疑いは消えない。
百歩譲って、今回の選別が効率的な漁業再建に資するとしてみよう。しかし、再興を目指そうという漁業者の意欲は、全て同等のものとして受け取るべきである。漁業者の置かれた環境、つまり漁港の大きさや、水揚げ規模の違いなどは同等に扱うことを妨げるものではありえない。行政のなすべきことは、漁業者の意向をきちんと聞き、それに応じた施策を取ることだ。
その後、外された漁港関係者から「事前の相談が一切なかった」という異議申し立てが出ている。行政のトップとしてなすべき手順を無視してきたことはこれで明らかである。この手法は大いに疑問とすべきだ。
これまで、スピード感に欠けた政府に抗議する村井知事には、ある種のたのもしさを感じていたのは事実だ。しかし、効率優先、自由主義経済優先の村井知事の姿勢は危険だ。松下政経塾の優等生。こうなることは予想されたことではあった。(了)  

12月6日  ボランテイア 決して格好よくはないが、継続と誠意が力   2011/12/13 19:15 

          

日本キリスト教団のボランテイアの方々がワークする仙台市若林区笹塚を訪ねた。私が所属する東京杉並・井草教会の道家紀一(どうけのりかず)牧師が引率役として何度目かの仙台入りをすると聞いたからである。
ワークの場所は大きな農家。道家牧師はじめ総勢6人の方々が分担して作業をしていた。この一帯は家々の多くは流されなかったものの、一階の天井近くまで黒い津波に襲われた。津波の高さなどに応じて、仙台市は被害地域を集団移転する地区と、引き続き住んでもいい地区に線引きした。この一帯は引き続き住んでいい地区だ。
住民の方々は仮設住宅に移っているため、ボランテイアの方々を除けば人影はない。ボランテイア作業を代表する家の中からの泥出しはすうか月前に終わっている。今行われているのは住民の方々の要望に応じて、将来再び住めるようにするための掃除や細々とした作業だ。6人のうち半数は家の脇にある畑の整地作業。もう一班は泥にまみれた大量の食器を洗う作業に当たっていた。

          

          

          
          写真は上から、道家牧師、御館牧師、北浦さん。

畑は20アールほどもあろうか。津波が運んできたコンクリート片や金属などが土に混じる。これをスコップで掘り起こし、花畑に整地するものだ。ブルドーザーだと瞬く間なのだろうが、これを人力だけでやる。決して格好よくはない。
教会の説教壇に立つ姿を見慣れている道家牧師。スコップを振るう姿は生き生きとされていた。「反省会で牧師が働かない」と指摘されることもある。牧師、信徒、ノンクリスチャンの区別は一切なくワークするのです」いつもとは違う姿を見た。
御館博光(みたてひろみつ)牧師(62)は、地方公務員を定年退職後同志社大学に入り直して、教職になったという普通ではない経歴の方。高知県・潮江教会(うしおえ)の牧師だ。結構きついと言いながら、黙々とスコップを振るう。

若手が一人。北浦圭祐さん(20)は東京・小金井緑町教会の会員だ。もう何回かのボランテイア奉仕だという。住民の方々が喜ぶ顔を見ると勇気づけられると言う。「中には、顔は笑っていても眼が笑っていない方に出会うこともある。震災の傷の大きさを感じる」若者の感受性だ。

          

         
         写真、下 鐘ヶ江さん。

別の班の3人は泥にまみれた食器を使えるようになるまで洗っていた。古くからの農家なので、食器も2~30セットというものもある。これをざっと水洗いしたあと、再度洗剤できれいに洗う。寒風が吹きすさぶ中では見た目以上につらい作業だ。
愛媛県・久万教会(くまきょうかい)からやって来た鐘ヶ江洋子さん(67)。今回ボランテイア奉仕は初めてだというが、「体を動かしていると寒さも感じません」と笑って話す。仙台には知り合いもいるので遠くに来たとは思いませんとも話す。
ボランテイアの数も最盛時に比べるとかなり減ってきた。日本キリスト教団では1週間単位でワークしているが、3人という時期もあったという。幸い、この週は20人近くが参加。仙台市若林区の他、石巻市にも11人が手分けして入った。
ワーク地は日替わりではなく、原則として1週間は同じ場所で働く。機械力は初めから望むべくもない。スローワークが歌い文句だ。ワークの中身もひところの泥出し中心から、これからの被災者の生活の要件を整えるための様々な細かい作業。仮設住宅での心のケアなどに重点が移ってきている。
見た目には格好よくない作業かも知れない。しかし、ボランテイアに要求されているのは、被災者のニーズに応える作業、奉仕だ。継続、そして誠意が冬の寒空を迎えようとしている被災者の方々の力になる。
震災から9か月。時の流れは、あの悲劇をすら忘れさせようとしているのでは。世の人々のふるまいに、こう思ってしまうのは考えすぎだろうか。数は減ったとはいえ、冬の寒空をものともせず被災地におもむく若者、中高年の方々には敬意、そして感謝である。(了)

12月4日  農業再生の夢なかば、無念の死  2011/12/13 18:05  

          
          写真は避難所でのインタビュー(7月)。

思わぬ知らせに言葉を失った。仙台市若林区三本塚の相沢勝さん。農業実行組合の組合長だった。津波で壊滅的な被害を受けた、三本塚地区の農業再生の展望をもう一度聞きたい。何度か携帯電話に連絡したが、留守電に切り替わる。この朝、返事が来た。ご子息からだった。「父は10月5日、心不全で亡くなりました」59歳、早すぎる死だった。
7月8日、避難所の中学校体育館に相沢さんを訪ねた。3月11日午後2時46分、相沢さんは自宅で大きな揺れに遭遇した。車で1キロ離れた仙台東部道路に逃げた。高さ6メートルの高速道路によじ登って助かった。この体験談以上に相沢さんが語りたかったのは地域の農業をどう再生させるかだった。
良質の仙台米の産地だった三本塚の美田は壊滅的な被害を受けた。米の作付は数年は難しい。しかし、この地域の140ヘクタールを日本農業のモデルとして再生させたい。間もなく閉鎖される避難所の片付けなどを指示しながら、相沢さんは熱く語 った。(「震災日誌in仙台」86、176ページ)農業再生の方途をまた語り合おうと約束して別れた。
若林区日辺(にっぺ)の仮設住宅に焼香に伺った。居間の隅の仮の仏壇で、相沢さんは小さな写真におさまっていた。父上の昭男(てるお)さん(83)が話す。10月5日、相沢さんは息子さんとともに、津波の被害を免れた山手にある田んぼの稲刈り作業に当たっていた。
冷たい雨が降っていた。しかし、コンバインは蔵王町の知り合いから借りてきたもの。その日のうちには刈り取りを終えたい。無理をしたのかも知れない。結局作業は中断して夕方帰宅した。雨でぬれたためか「寒い」と連発していた。急いで風呂を沸かしたが、入るいとまもなく相沢さんはちゃぶ台に倒れ込んだ。救急車で運んだが、帰らぬ人となった。

                                      
                                     

写真、上は津波被害を受けた三本塚地区の水田(7月)。下は9か月後の水田の様子。農地復旧工事はまだ始まっていなかった。
避難所では住民のまとめ役として、さまざまなトラブル解決に忙しく立ち働いていた。その後も集団移転するのかどうか、農地復旧をどう進めるのか、数々の難題がリーダーである相沢さんの肩にのしかかっていた。心身ともに負担が大きかったのは想像に難くない。「自慢の息子を失くして悔しい」父親の昭男さんの言葉が耳に残った。
黒い津波から間一髪で守った命だった。地域の、そして農業の再生の夢なかばにしての無念の死だった。心からご冥福をお祈りするばかりである。(了)


 仙台:松館忠
ブログ「震災日誌in仙台」
http://sakura3411.at.webry.info/

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