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ノーベル賞受賞式
ノーベル授賞式を前に、化学賞受賞の北大名誉教授の鈴木章さんと、米パデュー大学特別教授の根岸英一さんの2人の一挙一動が、連日報道されている。
ノーベル賞受賞が発表されて以来、ニュースで聞くたびに心温まり、自分がもらったわけでもないのに嬉しくなる。
受賞者のうちの一人、北大名誉教授の鈴木章さんの地元北海道や、出身地のシシャモとタンポポの町・むかわ町ではどのような形で顕彰しようか、前例がないだけに頭を痛めていたがどうなったのだろうか。
北海道大学でも、受賞は嬉しくてたまらないのだろうけど 、そこは学研の輩の集団、構内には爆発的な喜びは見られない。
それでも、当初遠慮がちだった「祝ノーベル化学賞受賞」の横断幕も、最近になって構内の中心部にも掲げられるようになった。
(写真右::北大130年の研究成果が詰まっている北大博物館)
学生がお茶を飲みに集まるサロンには、等身大に型とった本人の看板がたち、そばのテレビでは鈴木さんの業績を伝えるビデオテープが絶え間なく流されている。
来年は受験生が例年以上に集まるのではないかとにんまりだと言う。
< がんの市川厚一 >
鈴木さんのノーベル賞受賞が決まった直後に、北大にはノーベル賞に匹敵する業績をあげた人がこれまでにもいて、その中でウサギの耳にコールタールを塗り続けて、世界で初めて人工的にガンを作った市川厚一博士(写真左)を紹介した。
その数日後、同じような視点で地元北海道新聞に、市川博士の業績が改めて大きく報道されていた。
その年は寄生虫がガンを引き起こすと、今日では否定されている学説を発表したデンマークの学者が受賞したが、ノーベル賞は返したと言う話は聞いたことがない。
道新の記事によると、選考委員会も後になって過ちを認めたが、受賞そのものはとり消されていないという。
それに対し、市川博士の業績は「がん研究史上燦然と輝いている」と持ち上げていた。
市川博士の研究は、湯川秀樹博士が東洋人として初のノーベル賞を受賞した23年前の1926年のことである。
市川博士がなぜノーベル賞を受賞できなったか、それは黄色人種に対する偏見があったのではと、一部でささやかれたという。
アングロサクソンが世界を動かしているという戦前の時代背景が、隠然とあったのかもしれない。
それでは、それ以前にもノーベル賞に価する日本人研究者がいたのだろうか。
各分野にいろいろな人がいるのだろうが、私の脳裏には著名な北里柴三郎と、ほとんど無名の平瀬作五郎の2人の明治人が浮かんでくる。(写真右上:世界で初めて人工的に作ったガン:北大博物館)
< 血清療法の北里柴三郎 >
北里柴三郎は破傷風菌の純粋培養に成功し、毒素に対する免疫抗体を発見して画期的な血清療法を開発した。
北里は毒殺を恐れたヨーロッパの貴族が少しずつ毒に慣れて、量が増えても死ななかったことに着眼し、マウスに破傷風の毒素を少しずつ注射する。
「慣れ」といわれる現象だ。
慣れのおかげで死なないマウスの血液から上澄みの血清成分を分離し、慣れていないマウスに注射すると、そのマウスは病気にかからなかった。
血清の中に抗体ができていたのだ。
これが世界を驚愕させた免疫血清療法だった。
(写真左:切手になった北里柴三郎博士)
北里はそのデータをドイツのベーリングに紹介し、ベーリングはそれを応用して、ジフテリアに対する血清療法を開発した。
そのベーリングがノーベル賞を受賞する。
なぜ北里にお声がかからないのか。
しかもノーベル賞ができたばかりの1901年、栄えある第1回目の医学生理学賞である。
もし日本人が初回のノーベル賞を受賞していたら、超ウルトラ級の快挙として、その後の
日本のイメージ・評価が大きく変わっただろう。
間違っても「世界で2番じゃだめなんですか」というようなこまっしゃくれた女は出てこなかっただろう。
ノーベル賞候補に上がっていた北里がなぜ受賞できなかったのかについては、すでに言い尽くされているが、データの提供者で協力者と位置付けられたこと、ノーベル賞はあくまで個人に贈られるもので鈴木・根岸さんのような共同受賞という考えが当初なかったことなどがあげられている。
ただ、ここでも人種差別だったと指摘している研究者もいることを忘れてはいけない。
単独でノーベル賞を受賞したベーリングも、さぞ後味が悪かっただろう。
「俺だけがもらうわけにはいかない」とはなかなか言えなかったのだろう。
< いちょうの平瀬作五郎 >
ところが、本当に「俺だけがもらうわけにはいかない」といって、日本最高峰の賞の受賞を渋った人がいる。
ノーベル賞級の発見をした無名の平瀬作五郎と、その上司の池野成一郎である。
平瀬作五郎(写真右)の業績は、イチョウから精虫を発見したことである。
それがなんでノーベル賞に価するのか。
生物の進化の解明に大きな貢献をしたということだろう。
生物の進化の過程で、下等植物のシダ植物が、高等植物の種子植物へどうして進化していったのか、そのギャップが埋まらず、人類の長い疑問だった。
ところが平瀬は種子植物の中でも早い段階に出現した裸子植物のイチョウから、シダ植物と同じ精虫を発見したのである。
これによってシダ植物→裸子植物→被子植物という進化過程が裏付けられた。
生物の進化のなぞのギャップを埋めた平瀬は、実は研究者ではなかった。
図画が得意だった平瀬は、画工として東京帝国大学植物学教室に雇われていた。
画工というのは、教授の指示に基づいて、顕微鏡をのぞきこみながら植物の微細な部分まで精密に描くことを仕事としている職人である。
左の写真は、北海道帝国大学の宮部金吾教室の画工が描いたクリの描写である。(北海道主要樹木図譜)
実にきめ細かな仕事であることがわかる。
探究心旺盛だった平瀬は、イチョウを顕微鏡でのぞいているうち、鞭毛をつけてうようよ泳ぐ精子を見つけたのだった。
明治29年(1896年)のことである。
この平瀬の大発見を、ほぼ同時代に学歴がないという同じ境遇で 東京帝大で植物の研究をしていた牧野富太郎は「犬も歩けば棒に当たる」と、やっかみとも受けとめられる感想を述べている。
上司の池野成一郎は、これこそ生殖・進化につながる精虫だと直感し、語学が不得手の平瀬に代わって論文の手助けをするとともに、自らもイチョウと同じ裸子植物のソテツから精虫を続けて発見した。
< 恩賜賞 >
日本学士院賞というのがある。
学術上顕著な功績のあった人に贈られる賞で、日本の学術賞としては最も権威ある賞である。
この受賞者の中でも、とくに功績の著しい人に贈られる賞として「恩賜賞」というものがある。
文字通り最高の賞だ。
この制度ができて奇しくも来年が、ちょうど100年に当たる。
このできたばかりの最高の恩賜賞に、裸子植物から精虫を発見した東京帝国大学教授・池野成一郎が選ばれた。
ところが池野は「俺だけがもらうわけにはいかない、平瀬がいる」といったのである。
当時表彰対象として帝国大学の教授しか考えていなかった文部省は困惑した。
最終的に同時受賞ということに落ち着き、第二回の栄えある恩賜賞受賞者にお2人の名前が刻まれている。
(写真左:平瀬が精虫を発見したイチョウと記念碑、東京小石川植物園)
牧野富太郎は自らの著書「植物一日一題」で次のように書いている。
イチョウに、精子すなわち精虫があるとの日本人の発見は青天の霹靂で、天下の学者をしてアッと驚倒させた一大珍事であった。イヤハヤ大いに世界を騒がせたもんだ。
平瀬氏はこんな重大な世界的発見をしたのだから、普通なら易々と博士号をもらえる資格があってもよいのであったが、世事魔多く底には底があって、不幸にもその栄冠をかち得なかったばかりでなく、たちまち策動者の犠牲になって、江州は琵琶湖畔彦根町に建てられてある彦根中学校の教師として遠く左遷せらるる憂目をみたのは、憐れというも愚かな話であった。
けれども赫々たるその功績は没すべくもなく、のち明治45年(1912年)に帝国学士院から恩賜賞を授与せらるる光栄を担った。
いやはや牧野の 上げたり下げたり、歯に衣着せぬ言動には関係者も辟易としたことだろう。
平瀬は牧野とは正反対で寡黙で著書も出さず、図工の先生としてひっそり人生を送る。
しかし、平瀬の精虫発見と、それにつづく北里の血清療法の開発は、日本が近代文明に触れて欧米に追い付き追い越せの黎明期に、初めて世界に肩を並べることができた科学的業績であることには間違いない。
とくに無名同然の平瀬が、もしノーベル賞を受賞していたら日本の歴史に輝く人、受賞しないと忘れ去られる人、その落差がきわめて大きいのがノーベル賞の価値なのだろう。
鎖国を解いて間もない日本は、学問的歴史という意味での学歴のない国という偏見が欧州にあったのだろうか。
ノーベル賞ができて110年、この20数年間に続々誕生する日本人ノーベル賞受賞の快挙は、日本が立派な科学立国として誰しも疑わない国になっている証と言える。
今度は80歳の鈴木さん、75歳の根岸さんと、あきらめていたお2人が揃って受賞とは、別な意味で運がよかったと思えるのである。
何となく嬉しい気持ちになるのは、後期高齢者の受賞が、同じ立場の人に勇気と希望を与えてくれているような気がするからだろうか。
同時にお2人のにこやかな晴れ姿の陰に、正当に評価されないで没した研究者が、どれほど多くいることかということも、忘れてはなるまい。
お2人はまもなく10日ストックホルム市庁舎で行われる授賞式に臨む。
(写真右:海から臨む市庁舎:8年8月)
札幌:望田武司
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