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2010-09-08 (水)

イザベラ・バードが馬から転げ落ちた険しい峠

イギリスの女性旅行家イザベラ・バードは、時代が江戸から明治にかわって間もない明治11年、当時まだ未開の地 
であった北海道を旅行して、Unbeaten Trackes in Japanを書いた人として知られ、日本では「日本奥地紀行」として
翻訳された。
この旅行記は明治初期の日本を紹介するものとして、イギリスでベストセラーとなり、同時に東北から北海道の当時
の人々の生活や自然を、第3者の目でみた貴重な記録にもなった。

そのバードが歩いた道を辿ろうというイベントに、去年に続いて今年も参加した。 

 < 淋しいところが好きな?バード >

函館に上陸したバードは通訳の日本人と共に、アイヌ集落がある日高の平取に到達するが、そのルートは渡島半島の森町から、船で室蘭にわたって白老・苫小牧を経て平取に行くルートだった。
当時、本州から札幌に向うのは、日本海の小樽まわりでは、遠すぎて不便で、噴火湾を船で一直線に横切って室蘭に渡り、太平洋側を通るのが一般的だった。
明治9年札幌農学校に招かれたクラーク博士も、14年の明治天皇の初の札幌行幸も、このルートだった。

噴火湾を陸路で通らず、なぜ海路で室蘭に渡ったのか。
それは噴火湾の最も奥まった礼文華(れぶんげ)地区が、断崖絶壁の山肌がそのまま海に落ちている難所であったためだった。
礼文華峠は昔から「蝦夷三剣」の一つとして知られていた難所中の難所である。
ところがバードは、往路と同じルートを通るのは面白くないと、復路は海路でなく、陸路を選んだ。
地元の人が敬遠する難所をバードが選んだのは、無知ゆえだったのだろうか。

バードは往路で苫小牧に着いた時、多くの旅人は札幌に向うために千歳方向に北上するが、彼女はそれに見向きもせず、そのまま太平洋の海岸に沿って勇払原野(写真左09.11月)に向っている。
そのときの模様を次のように書いている。

私は札幌に至る“よく人の往来する道”から離れてうれしかった。
私は微風の吹く海岸を進んで行った。
8マイル進むと湧別(現在の勇払)に来た。
ここは荒れ果てた淋しさがこれ以上先にはあるまいと思われるような、地の果てといった感じがする。
私の心をひどく魅了したのでもう一度来たいと思う。
(通訳の)伊藤はこんなところに二日も滞在したら死んでしまう、と言っている。

勇払原野は現在の苫小牧東部工業地帯建設予定地で、企業が張りつかず、バードを魅了した景観がいまだに残っているところである。
バードはこのように人が行かないような所に行きたがる「面白い」というか、「変わった」女性だったようだ。

  < 天下の難所・礼文華峠 >

礼文華は現在の豊浦町にある。
北海道でもっとも暖かい地方で、最近ではプロボクシング界でこの数年話題をさらった内藤大助の出身地として知られた。
車で礼文華海岸につくと、山がそのまま海岸に落ちており、いまでこそトンネルで道路や鉄道が通っているが、当時徒歩で海岸沿いを通るのは無理であったことがよくわかる。(写真右)
それではバードはどのようにして峠を越えたのだろうか。

地元の資料館に、格好の礼文華の地形の模型があった。
海に落ちる礼文華の地形がよく表れている。
右側の有珠方面から礼文華についたバードは、赤線の山道を上り下りしてから礼文華峠に上り、長万部方向に向っている。

ちなみにこの辺りの郡名は「山越(やまこし)郡」と言われている。

バードはこの険しい峠について

道は深い森林の中をものすごく急な坂道となって登り、急に下ったかと思うとまた上り坂となり・・・時には真っ直ぐに梯子を上るような急峻な坂道で深く溝がついていた。
頭上は絡み合った大きな蔓草や小枝が覆って、馬に乗って通るものは頭を馬の頭上に伏せなければならないほどだ・
・・

バードはこのように描写して、この険しい山道で馬が1頭つぶれたことや、自ら馬の鞍からたたき落とされたことなどを書いている。
そしてこの人も通らぬ淋しい道を通るのに4日間要し、その間誰一人会わなかったと書いている。
ヒグマに遭わなかったのだろうか、今日絶滅したがヒグマより獰猛なエゾオオカミに遭わなかったのだろうか、と思ってしまう。
バードの怖いもの知らずには恐れ入る。

礼文華ではないが、当時近くの山道を歩いた人が「山に寝るときは飢えた狼襲い来たりて夜通し眠ることできず。」と記述している資料がある。

さらに驚いたことにバードはこの礼文華越えについて

「ああ、しかしなんとすばらしかったことか!まことに壮大な景色であった。これこそ本当の天国である。」

とまで書いていることである。

これには幕末から明治にかけて、20年も函館に滞在して北海道各地を回ったブラキストンはびっくり、自著「蝦夷地の中の日本」で次のように批判している。
ブラキストンは津軽海峡を境に、動物ががらりと変わることを突き止めたことで知られており、ブラキストンラインと言われている。
(写真左;函館山山頂にたつブラキストン記念碑08.10月)

このルートを行けば天国へ運ばれるなどと、お世辞めいたことを書くようでは、現代の旅行者に対して不誠実だったと言いたい。私が初めてそこを旅行した時には、天国の方向へ歩いてもいなければ、天国の門すら見えず、逆に蝦夷で最悪かつ最もいまわしい道路の一つとして、非常な苦労を体験したのである

 < 礼文華今昔 >

私たちはいよいよ地元のガイドの案内で、この山道の一部を歩いた。
といっても、実はバードが通った当時の礼文華峠は、すでに廃道となって行くことはできなかった。
代わってすぐ近くに林道が新たについて、車が1台程入れる道幅となっていた。(写真右)
同行した学者曰く
「バードが通った道そのものではないが、一帯の植相や景観はほとんど変わらないと言っていいでしょう。」
今回の旅はバードがこの地を歩いた8月下旬にわざわざ合わせて計画された。

参加者は思い思いゆっくりと林道を歩き、
バードが通った“原風景”に思いを馳せた。
たしかに樹々にはツルアジサイやサルナシ(コクワ)の蔓が絡まっている。
絡まってない樹がないくらいだ。

直径1m以上の大木に出会った。カツラの木である。(写真下左)
バードがイチョウの木があったと描写した問題の木である。

ブラキストンは
「楽しげに作者のあらを探さなければならないことは、残念な気はするけれども」と言って、こんな山奥に、蝦夷地には自生していないイチョウの大木があるはずはないじゃないかと、バードの記述の誤りを辛辣に批判したクライマックスの樹でもある。
カツラの木は、この付近には結構観察された。

林道脇には黄色い花を付けるハンゴンソウや、装飾花をもつノリウツギが咲いていた。
花の少ないこの時期、バードはこれらの花に癒されながら歩いたのだろうと思った。

ところがハンゴンソウ以上に目立つ花が、あちこちに咲いていた。
オオハンゴンソウである。
外来種で、繁殖力が強くて他の生態系を脅かす恐れがあるとして、環境省が4年前に「特定外来生物」に指定した草である。

バードが歩いた当時はまだ日本に入ってなく、花の中心部が盛り上がって、「でべそぐさ」とも言われる存在感のあるオオハンゴンソウをバードが見ることはなかった。

(写真上部の細い花弁をしたのがハンゴンソウ、下部の花弁が太くて花芯が丸く目立つのがオオハンゴンソウ)

 < 植物好きなバード >

バードはブラキストンなどの専門家に、いろいろイチャモンを付けられているが、植物が好きだったとみえ道中、植物の描写を結構している。 

海岸沿いにオレンジの実を付けている小さな野ばら(ハマナス)、
鈴のような青い花を並べた釣鐘草(ツリガネニンジン)、
頭巾型で紫色の花のとりかぶと(エゾトリカブト)、
誇らしげに咲いている浜昼顔、
紫色のえぞ菊(エゾノコンギク)
雪の下(ウメバチソウ
黄色い百合(時期がおかしいがエゾキスゲか)、
特に目立つ紫褐色の鈴状の臭い花(ツルニンジン)

などを観察している。
(写真右:ハマナスの実 苫小牧郊外8月30日)

実際これらの花は、胆振の海岸草原には今でも見られ、バードもこうした花を楽しみながら、馬の背に揺られていたのだろう。

ところが今回海岸草原を通ると、バードが見た自生の花を覆い隠さんばかりに、セイタカアワダチソウの大群落があちこちに目立った。

セイタカアワダチソウ(写真左)は、戦後、牧草とともに北アメリカから入ってきた外来種で、繁殖力がきわめて強く、オオハンゴンソウ同様、嫌われている植物である。

バードが日本を訪れたのは明治11年である。
130年の間に全く新しい生態系が、バードが通った道すがらに出現していた。



< 断崖絶壁の景勝地 >
 

バードが難儀をしながらも天国だと言った礼文華の断崖絶壁には、明治の後半、海岸沿いに鉄道が通った。
列車でこの地を通過した与謝野鉄幹・晶子夫妻や伊藤整、斎藤茂吉などがそのすばらしい景観を、歌や文章に残している。

白浪の とどろく磯に ひとりして メノコ居たるを 見おろして過ぐ。

礼文華に 連続したる隧道(トンネル)を やうやう出でて 静狩(しずかり)の海

(いずれも斎藤茂吉の歌)

去年と今年、イザベラ・バードが歩いた道を断片的に辿った。
先人が歩いた道を辿って検証し、当時を偲ぶというのは、それなりに楽しいものであった。

現に、それぞれの地域でバードが辿った道を、フットパスロードとして町おこしをしようとする気運も芽生え始めている。

フットパス、国有地や民有地の別なく、歩く権利を認めたフットパスの発祥地は奇しくもイギリスで、日本でも各地でフットパスコースが作られ始めている。

「私が歩いた道がフットパスコースになるなんて」
いくら変わったご婦人も、そこまでは思っていなかったことだろう。

いや もしかしたら、ブラキストンらにお叱りを受けるほどの大胆な描写も、後世の動きを見越した想定内の記述だったのかも知れない。  (写真上:海に落ちる礼文華の断崖)

札幌:望田武司

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