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あらゆる大人は子どもの命を守る責任がある
「幼い子どもの命が失われる事故や事件が相次いでいる。」
母親が二人の幼い子どもを置き去りにして餓死させた出来事だけでなく、妊娠した若い女性がトイレで出産して流して遺棄した事件や子どもを死に至るほど虐待した親が連日のようにあちこちで逮捕されるなど、最近は新聞やニュースを見ることが辛く、中にはショックで夜も眠れなくなる位の悲惨な事件が多い。
そして、他のどんな窒息死よりも残酷極まりない苦しみの中で亡くなるというこんにゃくゼリーによる窒息死によって多くの子どもたちが命を落とした、いわゆるこんにゃくゼリー問題は、未だに店頭で販売され続け、更にはもちやあめと同じくらいなのにと、こんにゃくゼリーを擁護する専門家の動きがあるなど、子どもたちの死後なお問題が解決する方向には進んでいない。
ここに挙げた事件や出来事はそれぞれ別個の問題でありながら、わたしたち社会のある大きな問題が影響を及ぼしているという点で共通している。
これらの出来事に影響を及ぼしている大きな問題とは、わたしたちの社会が「大人が子どもの命に責任をもたない社会」そして「強いものが弱いものに関心をもたない社会」であるということだ。
わたしたちの社会は、子どもを守るのは親の責任だと、親にすべてを押し付けて、親以外の人間は全く無関心であることを許している。親がダメなら行政が、警察が、そして法律でなんとかすればよい、と「親以外の人間」が自らの体を張って子どもたちを守ろうとはしない。子どもだけでなく、身の回りにいる辛い状況にある人、弱い人、老いた人、さまざまな困難を抱えた人に対して、私たち社会は余りにも無関心である。
大きいものが小さいものを守り、強いものは弱いものを守る。あらゆる生き物はそうやって生命を繋いできた。人類もそうやって次世代に命を繋いでいかねばやがて滅びてしまう。しかし、わたしたちの社会は、「親子」であるかないか、という社会が決めた些細な区分にとらわれて、自分が親でなく、またわが子でなければ、全く無関心であることを許している。
人類が未来に命を繋ぎ、生き延びていくためには、非婚率や出生率などの問題よりも、「大人が子どもの命に責任をもたない社会」そして「強いものが弱いものに関心をもたない社会」であることを自覚し、改めるところから始めなければならないのではないだろうか。
「弱音やダメさをさらけ出すことを許さないわたしたちの社会」
新聞のつり広告で目にすることがあるキャッチフレーズに「片付けられない女」というのがある。これは、一見仕事は普通にこなし、表面上はごく普通の女性に見えて実はある部分でバランスを欠いている女性のなかに、部屋が綺麗に整頓されておらず、捨てられずに溜まったゴミや雑誌が部屋にあるという女性がいることを指しているのだが、この表現に含まれる言外の軽蔑の意こそ、わたしたち社会の弱者への無関心さ、無責任さを表したものだと思う。
実際、女性が会社で期待されている役割を演じて疲れ果てて帰宅したら、家の中の掃除にまで気力が沸かないためにどんどん荷物やごみが増えてしまうことは当然なのだ。
男性にはピンとこないかもしれないが、女性が会社で期待されている役割とは、与えられた仕事をそつなくこなすだけではなく、有言無言の「女性性」への期待に応えることという仕事の能力以外のスキルも含まれるのだから、そのストレスは一旦家の中という密室に入ったとたん、一気にあふれ出る。
通勤にはとりあえず流行から外れない服装を手持ちの中から頭をひねって選び、短い昼休みには化粧直しをし、ほんの小さなストレス発散で友人と外食をして別れた後の帰り道には、食べ過ぎて明日着ていく予定の服が入らなかったらどうしようと早くも後悔の念にさいなまれ・・・。
明日の朝食を買うつもりで立ち寄ったコンビニで、じわじわと高まる鬱積した想いが、気付けば不要なスイーツ類で買い物カゴをいっぱいにしてしまう。そして疲れ果てて家に着いたとたん、ただ目の前の食料を次々と空けていくことで一切合切のわずらわしい事柄を呑み込み、そしてすべてを吐き出してようやく眠りにつける。翌朝部屋の中に散乱する空き袋を片付ける間もなく、また会社で「期待された役割」に戻るため、急いでシャンプーをしながら、今日の服装を考える。こういう繰り返しをいったいどれほど多くの女性が小さな部屋の中で繰り返していることだろう。
ひとたび弱音を吐こうものなら、「イヤなら辞めればいい」「代わりはいくらでもいる」「自分たちもこうやってがんばって来た」「もっと大変な人もたくさんいるんだから」と、誰も「本当に大変ね」と、その辛さを受け止め、労おうとはしない。弱音さえ吐くことを許さない社会が女性たちをますます孤独にさせる。弱音は決して表にでることはなく、唯一開放できる空間である「家」の中へとひたすら持ち込まれ、積み上げられる。
部屋中にあふれるゴミは女性の吐き出された行き場のない苦しみそのものなのだ。
それをマスコミは「片付けられない女」と書きたてることで、多くの「片付けられない女」たちはますます声を潜めるしかなくなってしまった。
これは何もシングルの女性に限ったことではない。「母」という面をもつ女性も同様だ。
世間の「母」という役割に期待する無言の圧力。夜、「母」が出かけようものなら「子どもはどうしたの?」と必ずある種の非難とやっかみ(世話をしてくれる人がいるなんて恵まれている)を込めて聞かれるが、「父」が夜、出先でこのような声をかけられることはほとんどないだろう。
また、アトピー性皮膚炎は昨今では決して珍しいことではないにもかかわらず、肌の荒れた赤ちゃんをもつ母親の中には、子どもを公園に連れて行きたくない、という人もいる。自身の経験でも散歩途中、通りがかった女性がベビーカーを覗き込み、「あら、この赤ちゃんお肌が痛そうでかわいそうね~」といわれ、ショックを受けてしばらく外に子どもを連れて行けなくなったことがある。
子どもの病気はすべて「母」の努力にかかっており、子どもの肌が荒れるのは、家の掃除が十分でなかったり、食事がインスタントだったりに原因があるからだというような偏見は今尚多い。
そして「母」というのは、常に子どもと一緒にいて、子どもの世話をするもの、それにも関わらず、どうしても働かねばならないならば、子どもの世話をどうするか手配ができてから働くのが当然で、子どもが熱を出したら当然母親がそばについてやるものだ、という目が常に「母」役の女性にはつきまとう。
しかし、ひとたび会社に着くと、期待されている「女性」性としての役割は正反対で、むしろ「子どもがいることを感じさせない仕事ぶりと、若々しい魅力」を発揮することが会社で生き残るための最低限のスキルとされる。
子どもの病気で仕事を休むことすら言い出せない職場の風土があり、にも関わらず、時折、最も効果的な局面で「やっぱり子育てを実際にしている女性は気付くところが違うねえ」と思わなせるよう発言をして会社に貢献しなければ「子育て中の女性社員」として存在価値を認められない。
この過剰な要求になんとか応えようとして徐々に引き裂かれていく自分自身に抗いながら、明日も会社に行かねば、明日も子どものお弁当を作らなくては、と踏ん張るには、部屋の中が散乱しようが、ゴミがあふれようが、とにかく今日の辛いことを今日のうちに吐き出してしまわなければ、と先ほどと同じような眠る前の儀式を必要とする女性もあるだろう。
あるいは、これだけ過剰な期待をかけられながらも不安定な身分の非正規雇用や低賃金のパートのために、子どもを保育園や学童保育に迎えに行って食事をさせたあと、部屋に残した子どもたちを気にしながらも更に自身に鞭を打ってダブルワークや職業訓練に通う一人親である女性も少なくなく、そういった女性が心身ともにつかれ果て、家の中を片付ける余力もなく、また時間のかかる食事作りをする間もないために家の中に惣菜の空パックやコンビニの割り箸の空き袋が散らかっていても、それを誰が責めることができるだろうか。
そして、心身ともにぎりぎりの状況に置かれた「母」である女性が、外にSOSを求めることも出来ず、それでも「弱音を外に出してはいけない」と、空の惣菜パックだけでなく、子どもたちさえ家の中に抱え込み、ついには細い糸が突然ぷっつりと切れ、なにもかもを投げ出してしまうように、部屋の中に子どもたちと大量のゴミを放置したことを、マスコミは「片付けられない女」と揶揄したのと同じ無責任さで興味本位のキャッチコピーをつけて煽り、世間は「なんと酷い母親がいるものだ」と責める。
更に専門家やジャーナリストは「以前から危惧していた」とか「いつかこのような事件が起こるのではないかと思っていた」などと得意げに語り、分かっていたのに何の手も差し伸べようとせず、結果的に死ななくて良かったはずの命を見殺しにしたことに加担したという自分自身の加害性を認識することもなく、したり顔で社会を論じる。
マスコミも、専門家も、世間の人々も、私自身も、この世の誰一人として、ドアを蹴破り、窓を叩き割って、子どもたちを助け出そうとはしなかった「無関心な加害者」であったにも関わらず、だ。
「役割」に縛り付けられ、自分で自分の体を痛めてまでそれに応えようとする女性たちのことを、「片付けられない女」と一言でさも世相を切り取ったかのように得意げに使うマスコミと、すれ違ったベビーカーに「肌が荒れててかわいそう」という世間、どちらも、孤独に、必死に役割をこなそうとしている人に対してあまりにも無神経で、配慮がなさすぎる、これが私たちの社会なのだ。
「片付けられない女」ではなく、「片付けさせる男」や「女性に一人何役も求める男中心社会」こそ槍玉にあげて、「こんなことやれるわけがないでしょう」と女性に本音を吐き出すチャンスを作れば、一人、また一人と、少しずつ、「もう無理するのをやめた」と、部屋の中に溜め込んだ苦しみをゴミと一緒に外(世間)に出して楽になろうとする女性が増えてくるかもしれないのだ。
また、すれ違った赤ちゃんの肌が荒れていても、「かわいい赤ちゃんですね、赤ちゃんもお散歩楽しそうね」という一言があれば、自信と勇気が出る母親がどれだけいるだろう。その一言があれば、「でも、肌があれて困っているんです」と自然にことばが出て、一人で抱え込んでいた悩みを少しでも軽くすることができるかもしれないのだ。
しかし、現実には、マスコミにも、そして世間にも、女性の苦しみ、嘔吐の呻きは届いていない。
いったいどれほど多くの女性が表に出せないつらさや苦しみを家の中に持ち込んでいることだろう?誰も助けてくれないと思い込み、一人で限界を超えた状況で子どもを部屋に抱えてもがいている女性がいるかもしれないし、もしかしたら、早く助け出してほしいと願っているにも関わらず、あまりに世の中に優しくされた経験が少ないために、SOSのアピールの仕方さえ分からず、周りの人に気付いてもらえない人や、せっかくの手助けに素直に応じることができない人もいるだろう。
自分自身もそうだったが、妊娠中、一度も電車やバスで席を譲ってもらったことがないという話はあちこちで耳にする。赤ちゃんを乗せた重いベビーカーを抱え、脇にまだよちよち歩きの幼い子どもが転ばないかと見やりながら、駅の階段をおぼつかない足取りで上り下りする女性に、駆け寄って手を差し伸べる人は滅多にいない。辛くても助けてもらえないという経験を積み重ねてきた人が、不意に優しく声をかけられて、戸惑って「いえ、大丈夫です」ととっさに答えてしまったからといって、たった一度の声かけで「助けが必要かと聞いたが要らないといわれたので支援は不要と判断した」というようなありきたりの報告書で済ませるのではなく、「それでも何か手助けをさせてほしいと申し出て、ようやく受け入れられた」となるまで、粘り強くあなたに関わり続けたいというメッセージを発しなければ、心をひらいて助けを求めることはできないということをわかってほしい。
今、わたしたち社会がなすべきことは、色んな状況で子育てが十分にできない状態にある人を様々なメディアを使って責めたり追い詰めたりすることではなく、何にも先んじてそこにある幼い命を助け出し、生かすことである。その上で子育てできない状況にある親を一時的に親という肩書きから解放して、時間をかけて心身を健康な状態に回復させることが必要なのだ。
今現実に、産んだけれど育てられないとか、これ以上頑張れない、という状況にある人が居て、このまま子どもを捨ててしまうしかない、と絶望的な気持ちでいるすべての人に、どうかこのことばが届いてほしい。
「わたしはあなたを責めない。ただ、あなたとあなたの子どもを助けたい。だから、勇気を出してSOSのサインを出してほしい。どうか子どもたちを部屋の中に抱え込んだまま捨ててしまおうとか、このままトイレに流してしまおうとか考えないで。もし、もうだめだと思っても、人目につかない部屋に放置したり、トイレに流したりせずに、せめて早く救出できるように、見つけやすい表の道路にでも捨ててほしい。そうしたら、きっとその命は助けられる。」
「あらゆる大人の責任においてすべての子どもの命を守る」
この事件を機に緊急時には消防だ、警察だ、児童相談所の増員だといろんな対策が講じられ、事件の起きた部屋の前には多くの花が供えられる。 しかし、この中で、もし、また同じようなことが起こったとき、一体何人の人が、今度こそ、自分自身の手でドアをノックし、足でドアを蹴破って、自分のこの目で子どもの安否を確認する為に、中に入っていくと言えるだろうか?
どんなに対策を講じても、どんなにかわいそうだと涙を流しても、わたしたちの社会にある「家族」という固いドアを打ち破っていくことは容易なことではない。しかしこの硬いドアを打ち破らなければ、わたしたちは今回の事件を教訓とすることはできない。
ある命がたまたま子育てが十分にできない状況にある親の元に生まれたからといって、粗末に扱われてよいはずがない。望まない出産だった母親によってトイレに遺棄されてよい命などあるはずがない。親や社会の都合に左右されることなく、どんな親の元に産まれようとも、いかなる事情があろうとも、すべての幼い命は守られなければならないし、そのことに対する責任は親かどうかではなく、また警察や行政に任せればよいのでもない、あらゆる大人に責任があるのだ。
どんな子どもも、大人の手を借りなければ生きていけない。特に幼い子ども、自分ひとりで満足に歩くことも、食べることも、話すこともできない月齢の乳幼児にとっては、「親」でなくとも、誰でもかまわないから、きちんと食事を与え、体を洗い、太陽の光に当てて散歩させてくれる人が必要なのだ。
しかし現実には「家」があり、そこでは「家族」という制度の下、「父」「母」「親子」「夫婦」といった肩書きとそれぞれ役割がある。父や夫はあらゆる世話をすべて母や妻、嫁、といった役割に押し付け、更に家族以外の人間には関係がないと見て見ぬふりをする、「遠慮」と言う名の「無関心」を正当化している。
産んだから責任があるとか、育てるお金の余裕がないから子供を作らない、とかそんな狭いことで考えるのはもうやめて、「子供の世話をするのはあらゆる大人の役割」というように考える社会であらねば、すべての子どもの命を救うことはできない。
たとえば「今日は病気の親に代わってお隣の子どもを預かりますので早退します」と言える会社や、「地域の子どもたちをキャンプにつれていく当番なので育児休暇とります」といえるような社会の制度が当たり前になるように。
親という肩書きがなくても、誰もが子育てに関わることが当然のこととして受け止められ、あらゆる子供の命に責任をもつのが大人の責任であるという社会にしなければ、人類は未来に命を繋いでいくことはできない。
「自分の子どもに食べさせたくないものは、あらゆる子どもに食べさせてはならないもの」
こんにゃくゼリーの是非をめぐる議論がなかなか進まないことに苛立ちを感じる人も多いと思う。
どうしてこんなことすら規制できないのかと。
多くの優秀な学者や専門家たちが揃っていながら、一体何が問題なのか。
それは、「自分の子どもに対する責任」と「すべての子どもに対する責任」をわけて考えているからだろうと思う。
自分の子どもに食べさせてよいものかどうかを判断するとき、親ならばどうするかを考えてみればわかる。
品質表示や国産か輸入か、添加物があるか、遺伝子組み換え原料使用の有無、そういった表示にだけ頼る親はいるだろうか?いろんな表示をみて安全だと思っても、まず先に自分で味見をして、確認したうえで子どもに与えるのが普通ではないだろうか?
どんなデータよりも、自分自身の五感を研ぎ澄まし、舌で、匂いで、歯ごたえで、ノド越しで、これは子どもに与えることが適切な食べ物かどうか判断すること。これが最も適切な選択だということを親は確信しているのだ。
にもかかわらず、こんにゃくゼリーの問題を審議する専門家たちは、なぜ様々な機関の実験データでこの食品の是非を論じようとするのか。専門家らはこんにゃくゼリーを実際に口にして、その噛み応えや舌触りを何度も確かめたのだろうか。自分自身の五感で、この食品を吟味し、これならば自分の子どもに食べさせたいと思うかどうかが決まれば、おのず答えは決まるはずではないのか。
自分の子どもには食べさせない、敢えて食べさせたいとは思わないのであれば、それは、あらゆる子どもに食べさせることが適切でない食べ物なのだ。
そして自分の五感を駆使して下した結論は、どんなデータよりも正しい。なぜならば、「子どもの命に責任を持つ自分の判断」以上に確かなことなど、どこにもないのだから。
自分の子どもであるかどうかに関係なく、すべての大人はあらゆる子どもの命に責任がある。
わたしたちの社会に今もっとも必要とされていることは、すべての大人たちが自分の子ども以外の幼い命に対する無責任、無関心を改めることである。
救えるはずの、死ぬ必要のない命を決して見殺しにしてはならない。
わたしたち人間が命を繋ぐためには、すべての大人があらゆる子どもを守らねばならない。
あらゆる生き物にとって最も基本的な原則でもあるこのことを、いま、人間社会の大人たちは改めて認識しなおすべきではないだろうか。
大阪府:KAORI KAWAKITA
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この記事に投稿されたコメント
「あらゆる大人は子どもの命を守る責任がある」この記事を読んで、私は大変共感しました。
私には子どもがいませんが、連日報道される児童虐待の問題を、他人事とは思えません。子どもをおいて1ヶ月も部屋に閉じ込めてしまう前に、誰か相談する人はいなかっただろうか。女性ひとりで小さい子どもを育てていくのはさぞ大変だったでしょう。最後の手段として、せめて、「もう、ダメ。限界!ちょっと、預かってください!」と親が連れて行けるような子どものためのシェルターのようなところががあったらいいのにと思いました。
私も「片付けられない女」です。最低限、優先順位をつけて、毎日を生き延びていくには、今のところ、それしか方法がありません。
少子化が問題になっているのに、せっかくの子どもの命を救えない社会って何なんでしょう。私にできることは何か考えてみたいです。
8月 24, 2010 9:37 am : 浅井由利子
本当にすべての子どもたちは私たちオトナの責任。すべての子どもたちは日本の未来なのだ。「自分の家族だけ」とか、「自分の子どもだけ」という日本人が多い。「他人」という言葉がある国。大嫌いな言葉。
すべての子どもは日本の子ども。私たちが助け合わなければこれだけ経済と社会が崩壊されている世の中、いつか滅びる。何日か前に、どこかで読んだけれど、子どもが犠牲になるより後で間違いだとしても、「ちょっと」と思ったら声をかけ、手をさしのべる。間違いであるなら、親に謝るだけ。
日本人は隣人の事が異常なぐらい気になるくせに、自分に得にならないと思ったり、迷惑がかかると思うと完全に無関心。それぞれの役割をちゃんと果たして、無難に生き、それが一番だと満足している人々が多い。近所同士や、仲間では親切な言動はするけれど、自分たちと少しでも違う人間には非難したり見下したり、村八分にする怖い人々。こんな世の中に助けを求められん!
それで、私ができる事。私の今後の方針が固まってきた。日本の子どもたちと若い母親たちに役に立とう。
(ちなみに、日本産こんにゃくゼリーでアメリカで2,3人の幼児が死亡した。すぐに、販売禁止になった。その早さには驚いた。なぜ日本はできないのか?)
Yumiko Kawai
8月 24, 2010 2:20 pm : Yumiko Kawai
本当に、こどもたちはみな、私のこどもだと思います。
私たちはつながりを失って、自分と自分の子どもの命を危険にさらしているのだと思います。
こどもの命を守るためには、大人たちがしっかりとつながっていなくちゃ。
私たちは、収入や社会的地位やわずかな社会保障の網目から零れ落ちまいと必死になるあまり、一番のセーフティネットである人とのつながりを失っているんじゃないでしょうか。勇気を出して、人とつながる事に、コストをかけないといけないんじゃないでしょうか。
11月 1, 2010 4:11 pm : A.Ogawa
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