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花の日露交流史(2)
北大植物園 生みの親
ロシアの植物学者マキシモヴィッチが幕末、函館山に登って植物採集を始めた年の1860年、後に牧野富太郎とともに名を残した一人の植物学者がオギャーと産声を上げた。
宮部金吾、91歳まで生き天寿を全うした。
宮部はマキシモビッチを師と仰いで交流を深めた。
宮部生誕150年目のこの春、北海道大学ではロシア科学アカデミーコマロフ植物研究所の副所長らを招いてセミナーを開催するとともに、宮部とマキシモビッチの花の交流を示す数々の貴重な資料が公開された。
< 農学校 華の二期生 >
宮部はクラーク博士が招かれて明治9年開校した札幌農学校の二期生である。
同期に新渡戸稲造・内村鑑三がいて「農学校の3賢人」といわれている。
(写真右:明治14年卒業を目前にして将来を語り合う3人左から順に新渡戸・宮部・内村)
新渡戸が国際連盟事務次長として国際的に活躍し、内村が宗教家として明治大正の思想界に大きな影響を与えるなど2人が国内外で活躍する中で、宮部はひたすら北海道で植物の研究に没頭した。
徳川家の薬草園がそのまま植物園になった東京大学の小石川植物園を除けば、北大植物園は国内で最も古い植物園である。
その初代園長になった宮部は、明治大正昭和にまたがり実に29年間も園長を務めた。
札幌名誉市民第一号でもある。
< ミヤべイタヤ 誕生 >
宮部は札幌農学校を卒業してアメリカのハーバード大学に留学するが、その一方で世界的に著名なロシアのマキシモビッチに直接手紙を書いて自らを売り込んでいる。
「私が専攻する植物学において名声高き先生に自己紹介させてください。」と書き始めたあと、最後に「最初の手紙なのにあまりに自由に書きすぎたようです。お許しください。あなたの従順なる生徒 宮部金吾」と結んでいる。
マキシモヴィッチ 宮部金吾

宮部は積極的な自己紹介とともに、北海道で採集した植物のリストをつけて教えを請うている。
この中に宮部をもっとも有名にしたミヤベイタヤ(クロビイタヤ)があった。
宮部は日高で、カエデではもっともポピュラーなイタヤカエデに似ているようで、似ていないカエデを見つけた。(写真左:イタヤカエデ、右ミヤベイタヤ 筆者標本)
葉だけを見ると、イタヤカエデよりもむしろサトウカエデに似ている。
サトウカエデは2月のバンクーバー五輪でおなじみになったカナダの国旗に描かれている植物である。
宮部はマキシモヴィッチとの頻繁な書簡のやり取りの中で、「イタヤカエデの変種か?」と書いている。
これに対しマキシモヴィッチは、新種との見立てを伝えながらも慎重を期して果実標本を求めてきた。
果実とはヘリコプターの羽のような種のことである。
アメリカ留学中の宮部は、札幌農学校一期生で、当時新冠御料牧場の場長だった黒岩四方之進に果実の採集を依頼し、マキシモヴィッチに送る。
この結果種子の開く角度が大きいこと、色が黒くてコルク質特有の樹皮をもつことなどで、イタヤカエデとは違う新種と判断された。
マキシモヴィッチはこの新しいカエデに Acer miyabei Maxim という学名をつけて世に出した。
宮部にとって最初の献名で、記念すべき植物となった。
宮部が日高で発見してから4年後のことである。
宮部はアメリカ留学の帰路ヨーロッパに回ってマキシモヴィッチを訪問するが、賓客として迎えられる。
サンクトペテルブルグの滞在は宮部にとって生涯の思い出となり、マキシモヴィッチへの尊敬を深めていったという。
< 刻み込まれたミヤベイタヤ >
ミヤベイタヤは植物図鑑ではクロビイタヤとして掲載され、別名ミヤベイタヤとなっている。
樹皮が黒いためそのように呼ばれた。
しかし、北海道では圧倒的にミヤベイタヤで通っている。
宮部の代名詞ともなったミヤベイタヤは、稀少樹種のためそうあちこちにはない。
しかしなぜか北大構内では散見される。(写真右 8.11.2)
というのも、北大を定年退官した著名な教授が、学部を超えて退官記念にミヤベイタヤを植えたためのようだ。
牧野富太郎が研究に没頭した自宅が、東京練馬区の大泉学園の牧野庭園の一角にあって公開されている。
宮部金吾が研究に没頭した札幌農学校時代の植物学研究室は、北大植物園に移築されている。
どちらの研究室にも共通しているのは、当時としては最高のものであったかもしれないが、粗末と思われる顕微鏡とピンセットなどの古びた器具類が、置かれていたことであった。
こんなもので研究していたのか、思わず思ったものだ。
宮部記念館には、宮部が喜寿を迎えたとき関係者がお祝いに送った銀製の花瓶が飾られている。
その花瓶にはミヤベイタヤが刻み込まれていた。
また裏側には宮部に献名された学名リスト39種が刻み込まれている。
宮部がこれほど多くの新種をみつけていたとは知らなかった。
< 東亜植物の父 >
東アジアの植物に詳しいマキシモヴィッチは東亜植物の父といわれた。
とりわけ日本との関わりは深い。
そのエキスが北海道大学博物館で現在開かれている花の日露交流史展で公開され、宮部金吾や須川長之助が送った貴重な標本が、百数十年ぶりにサンクトペテルブルグから里帰りしている。
一世紀を超えた干からびた押し葉標本が植物学者の結晶だと思うと、葉脈に彼らの血液が流れているように思える。
献名された人にとっては、やはり自分の名前が永久に残るということは、名誉なことなのだろう。
“虎は死して皮を残し、人は死して名を残す”か
家内に言った。「おいらはいくら書いても何も残すものはないな」
家内答えて曰く「あなたの部屋にうず高く積まれている紙を、全部棺の中に入れてあげる。よく燃えると思うよ」
形見でもと期待しているわけでもないが、屍の加熱促進材か、凡人は灰になって消え失せ、きれいさっぱり何も残さないのが一番よいのかもしれない。
札幌:望田武司
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