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2010-04-28 (水)

花の日露交流史(1)

稀代のプラントハンター
 
1860年(万延元年)といえば幕末の時期、尊皇攘夷だ開国佐幕だと言われている中で、大老井伊直弼が暗殺されて世の中混沌、日本はどこにいくのやらといった時代である。
 
ロシアの一植物学者が、開港したばかりの箱館の地に足を踏み入れた。
 
二度目の極東旅行であったが、日本が鎖国政策を解いて下田とともに箱館を開港したと知って、ウラジオストックから箱館に入った。
 
彼は植物採集をする助っ人を雇用し、二人三脚で箱館にとどまらず日本を駆け回って植物を採集し、日本の植物を次々に世界に紹介した。
 
マキシモヴィッチ、日本の植物史上大きな足跡を残したマキシモヴィッチが箱館山に上ったのはちょうど150年前である。
 
節目の今年、北海道大学で幕末明治期の日ロ間の花の交流史展が開かれ、数々の記念講演が行われた。
 
そこに、プラントハンターという名にぴったりの一人の日本人が紹介されていた。

  < 箱館山の出会い > 
 
須川長之助、
 
岩手の貧しき小作人の長男として生まれた長之助は、妹の嫁入り費用を稼ぐために当時開港したばかりで賑わっている箱館に出稼ぎに来た。
 
正直で働き者だった長之助はマキシモヴィッチの信頼を得て、よきパートナーとなって植物採集を手伝う。
 
しかし長之助の研究をしている岩手大学の須田裕名誉教授によると、長之助を見る故郷の人は冷たく、異人といつも一緒で何をしているのだろう、スパイじゃないか、と疑念の目でみられていたという。
 
それが、後年記念碑が建つほどの郷土の偉人になったのだから面白い。
 
 (写真右上:当時の箱館山をバックに等身大のマキシモヴィッチと長之助)
 
マキシモヴィッチは長之助を伴って箱館だけでなく、江戸近郊や九州まで足を伸ばして植物採集をする。
 
 < 日本産植物の紹介者 >
 
マキシモヴィッチは日本に3年半滞在して帰国するが、帰国後も長之助に植物採集を依頼する。 
 
要請を受けた長之助は涙を流して喜び、今度は一人で木曽駒が岳から富士山、紀伊半島から四国九州、東北山地と長期にわたって精力的に植物を採集し、東京神田駿河台のニコライ堂経由で、マキシモヴィッチのいるサンクトペテルブルグの植物園に押し葉標本を送り続ける。
 
これを受けてマキシモヴィッチは、次々と日本産植物の新種を世に出す。 
 
現在シダ植物以上の日本産維管束植物約5500種のうち、282種の学名がマキシモヴィッチによる発表といわれる。 
 
野山に行っていつも観察できるおなじみのネコノメソウや、スミレサイシン

(写真右:室蘭地球岬8.4.29)などは、マキシモヴィッチによって世に出たと思うとびっくりする。
 
押し花みたいな枯れた標本で、新種とわかるのだろうかと思ってしまう。
 
専門家の見る所が違うということだろうか。
 
この結果サンクトペテルベルグの標本庫は、世界3大標本庫とまで言われるようになった。
 
まさに長之助の貢献大である。
 
長之助が稀代のプラントハンターといわれるのもうなづける。
 
 < チョウノスキー >
 
マキシモヴィッチは長之助の献身的な貢献に対して、長之助が採集した日本産植物の学名に、長之助の名前をつけている。
 
献名(けんめい)というそうだ。
 
まもなく北海道のあちこちに見られるユリ科のミヤマエンレイソウ(Trillium tschonoskii Maxim.) 
 
カエデ科のミネカエデ(Acer tschonoskii Maxim.)などがそうである。

(写真左:ミヤマエンレイソウ 4.4.24有珠 )
 
長之助の名前のついた植物は10種類くらいあるそうだ。
 
こうして植物学者でもないのに植物の学名に、長之助の名前が永久に残った。
 
Maximというのは、名付け親のマキシモビッチを表わす。19世紀後半、植物学者としての名声の高かったマキシモヴィッチに、明治時代の日本の植物学者はこぞって新種と思われる植物の標本を送り込む。
 
それだけではない。
 
力があっても学歴がないため昇進できず、上司との確執もあったといわれる東京帝国大学の牧野富太郎は、マキシモヴィッチのもとでサンクトペテルブルグで研究しようと考えたという。
 
しかしマキシモヴィッチは「日本植物誌」を準備中の1891年(明治23年)インフルエンザで急逝して、実現することはなかった。
 
牧野自身も、自ら見つけたマルバマンネングサに Sedum makinoi maxim. という学名をつけてもらっている。
 
私たちが普段観察する日本の植物に、マキシモヴィッチがこれほど多く関わっていたということを知って驚いた。
 
 < 面白い花の名前 >
 
実は長之助については、植物仲間の間でも結構知られていた。
 
それはチョウノスケソウという花があるからである。
 
「面白い名のついた植物だわねえ」とささやきあったものだ。
 
8枚の白い花弁をもつバラ科の高山植物である。
 
大雪山系などの高地で生育しているため、そう簡単には見られない。
 
加齢とともに山登りが無理になった私は、残念ながら野生のチョウノスケソウを見たことはない。
 
しかし北大植物園では、毎年のように観察している。(写真右:6.6.4)
 
「私チョウノスケソウにはまっているんです」
 
案内してくれた女性植物学者がこういった。
 
この花のどこに女性研究者を惹き付けるものがあるのだろうと、匂いをかいで見たりしながらいつも眺めている花だ。
 
チョウノスケソウは長之助が本州の立山で採集し、マキシモヴィッチに送った。
 
マキシモヴィッチはヨーロッパにもよく似た植物があり、どうしようかと思っているうちに死去したという。
 
控えの標本と長之助の採集ノートをみた牧野富太郎が、新種ではないが日本で初めて採集した長之助にちなんで、和名として「チョウノスケソウ」と命名したそうだ。 
 
ではなぜ苗字の須川でなく、名前の長之助が植物名になったのだろう。
 
セミナーでフロアーからの質問に対し、岩手大学の研究者は、「長之助の田舎ではみな須川さんばかりで、苗字で呼ぶ習慣はなかったからではないか」とこたえていた。
 
植物の名前一つでも面白いエピソードがあるものだ。

親しみをこめて覚えられているチョウノスケソウである。

長之助は名前をつけた父親に感謝してもよいのかもしれない。
 
左の写真は長之助の木像で、岩手県紫波町の須川長之助顕彰会所蔵のものを、150年を記念した花の日露交流史展のために、わざわざお借りしたものだという。
 
献身的にマキシモヴィッチの下僕として尽くした長之助であったが、マキシモヴィッチの訃報を知って、長年続けた植物採集をピタッとやめてしまう。
 
以降、故郷に帰って農業に従事して生涯を終えた。
 
彼の植物採集は、あくまで報酬目当てだったということだろうか。
 
そのドライさが逆に プラントハンター 須川長之助を浮き彫りにするように思えた。

札幌:望田武司

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