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2010-04-21 (水)

イザベラ・バード見聞記に批判 (下)

イザベラ・バードが書いた本で、ブラキストンやケプロンが批判しているところは、どのように書かれているのか、一つ一つ点検してみようと試みた。
 
私の手元にある本は高梨健吉訳の Unbeaten Tracks in Japan 「日本奥地旅行」・平凡社 である。
 
バードの本では、日本でもっともポピュラーな本である。
 
すると不思議なことに気づいた。
 
本をなめるように見ても、批判されている文言の一部が見あたらないのである。

   <初版と普及版>
 
調べてみるとバードは日本を旅行した2年後の1880年(明治13年) 2巻本として出版しており、これが初版で翌年まで4版でている。
 
ところがその5年後の1885年(明治18年) 1巻本としてまとめた普及版が出版された。
 
1巻本にした関係で、初版の相当部分が削除されている。
 
高梨健吉が訳して日本で2000年に出版したものは、この普及版だったのだ。
 
1905年には、この普及版が廉価本として出版され、版を重ねたという。
 
1世紀以上にわたりバードの日本旅行記は、この普及版で読み継がれてきた。
 
複数の専門家によると、普及版が作られたさい初版から削除されたのは、ブラキストンやケプロンの厳しい批判に配慮したものだとされてきた。
 
確かに普及版ではケプロンが強く批判した「蝦夷地はシベリアの気候と同じだ」という文言は、まったく見当たらない。
 
ケプロンは1875年(明治7年)帰国して、1885年82歳で没しており、初版をアメリカでみて烈火のごとく怒ったものと思われる。
 
またブラキストンは1883年(明治16年)横浜の日刊新聞 「ジャパン・ガゼット」 で、バード批判を続けたのは初版のあとで、そのあとに普及版が出ている。 
 
それでは初版の日本語訳がないのかと探してみた。
 
あった。
 
時岡敬子訳の 「イザベラ・バードの日本紀行」(上)(下)で、2008年に出版されている。(写真の右が初版、左は高梨訳の普及版)
 
その下巻の冒頭、確かに 「蝦夷の冬はシベリア型である」 と記述されていた。
 
なるほど、バードも批判を気にして改訂版を出したときに、問題のところはさりげなく削除したのかと思った。
 
ところが、「省略して改訂された普及版は、ブラキストンやケプロンの批判に配慮した結果ではない」 という研究者が、1年半ほど前に現れた。
 
 <削除の理由は?>
 
弘前大学大学院の高畑美代子女史によると、まず普及版は、もともと初版から統計ものや序章・覚書などを削除して、冒険と旅行を中心とした本にするのが目的だったということで、イザベラ・バードはこれまでもその手法で本を改訂しているという。
 
その結果、ケプロンが異論を唱えた序章の 「蝦夷地の気候はシベリアと同じ」 という部分は、ばっさり削除されたという。
 
しかしブラキストンが指摘したイチョウやキジなどの動植物の間違いは、旅行の部分であったため削除されてなく、初版のままである。
 
このほか間違いと指摘されたアイヌに関する記述や、あきらかに剽窃だと批判された箇所の中には、普及版にそのまま掲載されているものもある。
 
こうしたことから高畑女史は、初版を大幅に省略した普及版は、他者の批判によるものではなく、大衆化を狙って廉価本にするため、内容を冒険と旅行の本に収れんさせるという出版社の企画に基づいて省略箇所が決定されたという。
 
この結果、批判部分が削除されたものもあれば、事実が間違っていても普及版に残ったものもあると結論づけている。
 
もしそうだとすると、イザベラバードはブラキストンやケプロンの批判を無視したことになる。
 
「私は旅行者よ、専門家じゃないの。少しくらい間違いがあってもいいじゃないの」ということだろうか。
 
それともバードは未踏の地の状況なんて、イギリスの人は誰も知らないのだからとおもったのだろうか。
 
ただバードの記述がかなり断定的で、「私が初めて見て聞いて知った」 ということを強調しすぎている感は否めない。
 
リポーターの性といえようか。
 
 <専門家を怒らした素人専門家?>
 
ブラキストンの執拗な批判について、高畑女史は面白い分析をしている。
 
当時日米修好通商条約(1858年)に基づいて、外国人の自由に旅行できる範囲は、開港場(箱館)から十里四方と制限されていた。
鳥類採集などを行ってきたブラキストンは、その規定を破ってしばしば区域外にでかけてて物議をかもし、英国領事館は日本の役所から抗議を受けていた。
ところが一方のイザベラ・バードというと、パークスイギリス公使から「事実上無制限ともいうべき旅券」をもらい、しかも旅券の申請は「植物の調査などの科学的研究」が理由となっていた。これがブラキストンの気に障ってもおかしくない。
 
高畑女史はこのように述べている。
 
この“札付きルール違反者”ともいえるブラキストンは、しばしば領事館からお叱りを受けていた。
 
ブラキストンとしてはあちこち歩かなければ、後世に名を残す「ブラキストン ライン」 は生まれてこなかっただろう。
 
バードは蝦夷の海岸を全部回ったというブラキストンが、箱館にいることを知っていて、逢い損ねたということを本文にも書いている。(写真右:開港当時の箱館港)
 
もし逢っていたら展開はがらりと変わっていたかもしれない。
 
当時箱館には、それほど多くの外国人が居留していたわけではなく、長い間箱館に居留しているブラキストンはいろいろな意味で“有名人”だったのだろう。
 
高畑女史は論文の中で
 
「バードは “本書は日本研究書でなく単に日本旅行記にすぎない” 書いている。その一方でブラキストンが指摘するように、まるで学術書でもあるかのようにラテン語の植物名や統計がでている。旅行記といいながら学術的一面を見せるというのは、旅券の申請理由の対応であったと考えられる」
 
と優しい?理解を示している。
 
 <旅行者としての感性>
 
バードは目的としていた平取のアイヌ部落に入って、アイヌの生活ぶりをよく観察している。
 
とくに自然を崇拝し、お酒を飲むことが信仰心の厚さにつながる宗教観について、鋭い洞察力で紙面を割いている。
 
わずか4日のアイヌ部落滞在で、通訳介在の手間をかかる障害がありながら、よく理解したものだと感心したものだ。                    
 
けどブラキストンやケプロンの科学的・実証的な批判を知ったいま、これらのアイヌ描写もどこから拝借してきたのものかもしれないという疑念が、心の片隅に生じたことも否定し得ない。
  
しかし狩猟や漁のシーズンが終わるお祭りで、アイヌが唱える呪文について、バードは次のように書いている。
 
われわれに糧を与えてくれる海に、われわれを守ってくれる森に、感謝の意を表します。あなた方は同じ子供を養い育てるふたりの母親です。われわれが片方のもとを去って、もう片方のところへ行っても、決して怒らないでください。アイヌはいつまでも森と海を誇りに思っています。
 
この記述は人の心を打つほど美しい。
 
女性の目で見た感覚が素直に表現され、アイヌ民族の自然観を示すに十分なものといえる旅行記になっている。
 
クラーク博士と同じ明治時代のお雇い外国人で、小泉八雲の師として知られるイギリス人、チェンバレン東京帝国大学教授は、明治23年 「バードの本が出版されてから10年にもなるが、本書は英語で書かれた最善の日本旅行記であることに変わりはない。とくにアイヌ人の叙述は興味深い」と書いている。
 
バードが日本旅行記を書いて130年、最近バードに関する本が本屋によく並んでいる。
 
イザベラ・バードブームが静かに起きているのだろうか。(写真右:バード夫人)
 
イザベラ・バードが日本を旅行した130年前は西南戦争が終わり、大久保利通が暗殺されるなど、まだ世情不安定な時期であった。
 
札幌では札幌農学校に演武場(いまの時計台)が完成した時で、札幌の人口はわずかに3000人程度だった。
 
この夏バードの本(初版)をリュックに入れて、バードが歩いたもっとも厳しかったルートの一部、礼文華峠を泊りがけで辿ってみようと思う。(完)

札幌:望田武司

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