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お茶の間の邪馬台国論(36)
つぎに狗奴韓国は、従来「倭の北岸」の意味を「倭国の北辺の岸」という意味に解し、あたかも倭の領土のように思われてきましたが、確かに倭人も住んではいたものの、この頃の中国や韓国は「倭の北岸と海を挟んで相対する加耶(かや)という地域」という認識をしていて、必ずしも倭国の統治権が存在するという観念はなかったのではないでしょうか。後に加耶に置かれていた任那(みなま)日本府は、日本の大陸外交の足がかり的な出先機関だったのではないかと思います。
対馬国から不弥国まではフェニキア的海洋国家で、玄界灘に臨んで大陸に往来し、また時によって、人によっては加耶地方に住み着いて、盛んに交易を行う、女王国とは同盟関係にあった国々だと思います。
もとは、それぞれ王を戴いた独自の政権でしたが、大陸との交易が膨張し、また大陸からの人口流入が増加するなどで、互いの関係がバランスを失し、利害の衝突(倭国大乱)が頻発(ひんぱつ)したため、優れた巫女と評判の、卑弥呼のご託宣を奉じて政を行うようになったのだと思います。
倭人伝に、とくに伊都国にのみ「世々王あり」と記されたのは、伊奴国王の先祖が後漢の光武(こうぶ)帝から金印(志賀島出土)を授与されたという記憶が、当時の魏の関係者にあったからでしょう。
もともと金印は、他の例を見ても「漢の○王」にしか与えられない印で、「漢の倭国の奴の王」のような陪臣(ばいしん)諸侯には、銀印か銅印が与えられると、詳細なデータをもとに展開した説論があります。
また金印の「委」の字は「倭」に似ていますが、決して「わ」と読ませた例はなく、「い」としか読めないという論もありますし、逆に中国の金石文では、良く「へん・つくり」を省略するという反論もありますが、私は前記の論を支持したいと思います。従って、志賀島の金印は「倭の委奴国(伊那国)王」と読むべきであるとおもいます。
そして邪馬台国は、豊国主尊以来の一族が徐々に周辺を侵し、3世紀の半ばには臨海部を除く、北部九州の大半を版図(はんと)としていました。本家は豊国主の嫡流(ちゃくりゅう)(豊の君=男弟)が行橋市にいて、卑弥呼は宇佐を斎宮(いつきのみや)としていたのです。
宇佐は斎宮の所在地でしたから、近辺に大集落と言えるほどのものはありませんでした。宇佐氏が卑弥呼のご託宣を豊の君へ伝える役割でした。
その他の領国はそれぞれ分割して、卑弥呼の頃の首長はつぎのようになっていたのではないかと思います。
そして狗奴国との終戦後、卑弥弓呼との和解がなって、後顧(こうこ)の憂(うれ)いがなくなり、国力も充実しましたので、かねてから懸案の東征に踏み切ったのです。
経済と人口の膨張とでエネルギーが充満し、周辺の後進地域の併呑戦争に駆り立てたのです。
五瀬命 - 八女地方を統治。筑紫の君。 東征のときの最初の司令官でしたが、激戦中に陣没。
稲飯命 - 遠賀川下流地方を統治。海人族の長である宗像の君。難波潟の海戦の指揮官として奮戦したが陣没。紀には難波の海が時化(しけ) て戦況が覚束(おぼつか)ないので、「海神の娘を母と叔母にもつ我々を、海 はどうしてこのような迎え方をするのか」と叫んで入水したことになっ ているのです。
三毛入野命- 豊前地方を統治。豊の君の名代。豊前市の海辺の日豊線JR駅に、三毛門(みけかど)(三毛地方の入口の意?)の地名があります。紀の本文には三男とされていますが、別書には末弟としたものもあり名前に「稚(わか)」が冠されています。初陣の少年将軍を彷彿(ほうふつ)とさせますが陣没したとの書もあります。そうだとすると、4人の将軍のうち3人までを失ったわけですから、東征戦は苛烈を極めたものだったのです。
神日本磐余彦尊-甘木地方を統治。東征のときに、五瀬命や稲飯命および三毛入野命の戦死後、司令官として全軍を率い、ついに大和地方の平定に成功した。
神日本磐余彦尊は、粗末な武器ながら熟知した地勢を利してゲリラ戦を挑む、長脛(ながすね)彦の軍を遂に破り、大和の纏向(まきむく)(飛鳥地方)に本拠を据えて、大和朝廷の基礎固めを始めたのです。時あたかも3世紀の終末でした。その後の大和勢力の急伸に伴い、本家の九州勢力と齟齬することが多くなり、これが日本武(やまとたける)尊の征服戦や景行天皇の土蜘蛛(つちぐも)征伐、筑紫の磐井(いわい)の反乱などに繋がっていったのではないかと思います。
また九州における神日本磐余彦の領国は甘木市周辺であったため、大和の地名に移植することが多かったのではないかと思います。
* 神護石 御所谷一帯の峰々を囲むように、数kmにわたって1m角程の列石が連なっています。同様の遺跡は、北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて、数多く見られますが、当初は大和の三輪山の環状列石と同じく、神域を画すものと考えられ、神護石と命名されました。しかし、その後の研究により、朝鮮式の古代の山城の遺構で、土塁の基礎部分ということが判りました。また作られた時期が、白村江(はくすきのえ)において、日本と百済(くだら)の連合軍が、唐と新羅(しらぎ)の連合軍に大敗した直後と推定されるところから、その後の唐・新羅軍進駐の防ぎとして作られたと考えられています。(以下、次号に続く)
松戸:高見航毅
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