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2008-10-05 (日)

お茶の間の邪馬台国論(34)

十一  エピローグ
 
 私の辿り着いた結論は、「邪馬台国は北部九州のどこかにあった」ということになりました。
 秦末から後漢末にかけて、大陸から大量の人口流入がありましたが、同時に彼らは大陸の進んだ文化や技術を齎(もたら)しました。
この頃に北部九州に伝わったと思われる鉄器は、軍事力のアップだけでなく、農業生産の飛躍的な向上を実現しました。
 北部九州への稲作の伝播(でんぱ)は畿内より100年は早いといいます。鉄器の普及と相俟(ま)って、爆発的な人口増加に十分耐えられたことでしょう。
 圧倒的な軍隊の保有能力(人口と食料)、かつ殺傷能力の懸絶(けんぜつ)した武器を持った北部九州の部族が、他の地域を制圧したと考えるのが自然でしょう。

 「それで北部九州のどこなの?」という質問が、当然飛んで来そうですが、残念ながら、現在提供される情報の中からでは、とても特定できないと思います。
 北部九州には、筑後山門(やまと)郡、甘木(あまぎ)市、八女(やめ)市、遠賀川下流域、遠賀川中流域、行橋市、宇佐市など、有力な比定地が目白押しですが、これらの中で「ここです」と、誰もが納得するような説明ができないのです。
 これまでに百出した諸論の中には、場所だけに限って言えば、すでに的中した論があったと思いますが、客観的な立論ができないために、「多くの説のうちの一つ」に終わっているのです。

 今後考古学上の新発見、たとえば卑弥呼が魏の皇帝からもらった、「親魏倭王の金印」でも出ないことには、永遠の歴史のロマンとして続くのではないでしょうか。
 そういう意味でも、現在天皇陵に比定されたり、あるいは神社仏閣の境内にあって学問的な調査・研究が拒否されている古墳に、科学のメスが入ることを願ってやみません。
 現在、古代の天皇陵は、江戸時代に書かれた「山陵記(さんりょうき)」とか、記紀の記事をもとに比定されたもので、学問的には疑わしいものが多く、また旧形を著しく損なってもいますので、「天皇陵を暴く」といった否定的な捉え方をせずに、「天皇陵の平成大補修」といったプラス思考で、調査・研究の機会が得られないものかと念じています。(以下 次回に続く)

松戸:高見航毅

 

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