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2008-09-20 (土)

お茶の間の邪馬台国論(33)

〔 神武天皇の東征 〕
 紀の巻第四、神武天皇紀に「太歳(たいさい)の甲寅(きのえとら)、十月十五日に天皇は自ら諸皇子・舟軍を率いて『東征』に向われた」と明確に記されています。
 さらにその行程にも「宮居(みやい)(?)を出立して、速吸之門(はやすいなと)(豊予(ほうよ)海峡)
を通り、宇佐(大分県宇佐)の足一騰宮(あしひとつあがりの)に立ち寄って、菟狭都日古(うさつひこ)、菟狭都比売(うさつひめ)の兄妹に東征の報告をし、十一月九日、岡の水門(みなと)(遠賀川の河口?)到着~十二月二十七日、安芸の国の埃(え)の宮到着~翌年三月六日、吉備(きび)の国の高島の宮に着いてしばらく駐屯された。
 戊午(つちのえうま)の年の二月十一日に吉備を出立~難波の埼を過ぎて~三月十日に河内の国草香(くさか)村の青雲の白肩津(しろかたづ)に上陸された」とあります。
 おそらく宇佐で託宣を受けた後に、岡の水門付近で、糾合(きゅうごう)した九州の豪族軍と落ち合い、途中瀬戸内海西部沿岸の豪族を吸収し、また制圧しつつ、すでに協力の約束を取り付けていた大国、吉備王国に駐屯して、大和進駐の作戦会議、兵の調練、兵站(へいたん)の確保、さらには瀬戸内海東部沿岸地域の掃討(そうとう)を行い、万端整って、二月十一日に吉備を出発、一瀉千里(いっしゃせんり)
で河内に上陸して作戦を開始したのではないかと思います。
 こう考えますと、天皇軍のとった道筋に矛盾はありませんし、遠賀川河口~岡山までに4ヶ月を要したこと、前線基地の吉備に長期間駐屯し、岡山から河内まで一ヶ月で急行した(前述の〔弥生の航海〕で鞆~難波までの概略所要日数が20~25日と推定しましたが、大部隊では約一ヶ月かかると思われます)ことも納得がいくと思います。また瀬戸内海沿岸地域の掃討作戦の痕跡が、先に触れた「焼亡した高地性集落」ではないかと思います。
 畿内論者の言うように、もともと大和に発祥した天皇家が後に九州他の各地を併呑していったのならば、何の必要があって、自分の出自(しゅつじ)が被征服地の「九州」と正史に記録しなければならなかったのでしょう。
 記紀に書かれていることの真偽は別にして、また神武天皇が実在した、しないにかかわらず、わざわざこのようなストーリーにしたのは、天皇の出自が九州であったほかには考えられません。
 なにしろ記紀の編纂を命じたのは、他でもない天皇家(天武天皇)であり、皇室にとって記紀は、言わば「自家の史書」だったのですから。
 この一点をもってしても、「畿内説は絶対に成り立たない」と言うほかはありません。

松戸:高見航毅

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