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お茶の間の邪馬台国論(25)
女王国のさらに先にも、国々があることを紹介していますが、どうも女王国には服属していないどころか、通交もないように思えます。
女王国の東は海で、その千余里先に倭種の国があり、さらにその南四千里のところに、身の丈1m前後の人が住むという小人(こびと)の国があります。
またその東南、舟で1年位かかるところに、裸国(らこく)・黒歯(こくし)国があるとのことです。
倭のあちらこちらを見聞して歩くのに、いずれも海中の島々に拠って、散り散りに住んでおり、倭国の周囲はおおよそ五千里ばかりと思われます。
ちなみに五千里は、魏晋朝里で約2000km余で、九州本島の周囲は約1000kmですが、周辺の主要な島々を包含すると、それに近いということができます。
景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わして郡に詣らしめ、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わして将て送りて京都に詣らしむ。
景初(けいしょ)二年は、三年の間違いという説が有力です。
二年は司馬懿が、それまで遼東に割拠(かっきょ)していた公孫(こうそん)氏をやっと滅ばして、帯方郡を置いた年です。翌三年遼東の安寧(あんねい)が確保されたところで、倭の朝献があったと考えるのが妥当でしょう。
帯方郡太守の劉夏(りゅうか)は、郡吏を道案内につけて、洛陽まで送り届けたのです。
倭国の優れた情報収集能力と、素早い対応が目につきます。
その年の十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方太守劉夏、使を遣わして汝が大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝が献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉じて、以て到らしむ。汝が在る所、踰かに遠きも、乃ち使を遣わして貢献す。是れ汝の忠孝、我、甚だ汝を哀しむ。今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮えん。装封して帯方太守に付して仮綬せしむ。汝其れ種人を綏撫し,勉めて孝順を為せ。汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路に勤労せり。今、難升米を以て率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮え、引見労賜して還らしめん。今、絳地の交龍錦五匹・絳地の十張・絳五十匹・紺青五十匹を以て、汝が献ぜし所の貢直に答えん。又た特に汝に紺地の句文錦三匹・細班華景五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い,皆装封して難升米・牛利に付し、還り到りて録受せしめん。悉く以て汝が国中の人に示し、国家の汝を哀しむを知らしむべく、故に鄭重に汝に好物を賜うなりと。
六月の倭国の朝貢に対しての、魏の天子からの詔書(しょうしょ)ならびに下賜品の目録です.
ここまで遅くなったのは、この年に明帝が崩御(ほうぎょ)して、魏王朝は多端(たたん)であったからにほかなりません。
ここで目立つのは、倭国からの献上品の粗末さに比べ、魏の天子からの下賜品の豪華さです。「まるで海老で鯛を釣るようだ」と松本清張氏を驚嘆させたように、倭国の献上品は男女の生口(せいこう)(奴隷)若干名と、班布二丈だけだというのに、卑弥呼を親魏(しんぎ)倭王に任じ、金印紫綬(しじゅ)
(王侯の印)を下賜したほか、難升(なしめ?)米と牛利(ぎゅうり?)にも位と銀印を賜うたうえ、目の醒(さ)めるような、様々な下賜品の目録が与えられたのです。(以下次号に続く)
松戸:高見航毅
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