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2008-04-06 (日)

お茶の間の邪馬台国論⑲

 さて弥生の航海はどのくらいかかったのでしょう。
 邪馬台国の時代から約400年後の7世紀末、柿本人麻呂が宮廷歌人として活躍していた頃は、「難波から播磨まで舟で5日の泊まり」というのが一般の概念でした。
 現代の大阪市難波付近から出発して、兵庫県の室津あたりまで行くのに、5日を要したというのです。つまり当時の舟行速度は、難波~室津100km÷5=20kmと、一日に約20km位だったと思われます。
 遣唐使船や遣新羅船などの、3世紀の弥生舟に比べれば、かなり発達した構造船でした。それにこの5日には潮待ち日数が入っていないように思えます。何しろ畿内の目の前の、常に往来している、言わば庭のような海のうえに、出発のときには、数日間は日和の良いときを選んだと思うからです。
 また難波~室津間は、家島諸島付近のほかには瀬や島の多い海域はありません。急潮の難所も、明石海峡一ヶ所です。
 それに比べ、室津から上関に至る約400kmの瀬戸内海は、瀬や島が多く、現代でも難所に指定される有名な海峡がいくつもあり、最後は名にし負う関門海峡、それに続いて玄界灘と、航行困難な海域が連続しているのです。
 とても室津までの速度は維持できなかったでしょう。日和待ちのロスを勘案して、15km/日がやっとだったのではないでしょうか。
 そこで、博多(奴国)~鞆(投馬国に比定する説もある)に約500km÷15=33日かかり、鞆~難波(難波から陸行一月で邪馬台国という)に約250km÷15=17日かかる計算になります。さらにこのときから400年前の、邪馬台国の準構造船と誘導設備の不備などを考え合わせると、奴~鞆に35~40日、鞆~難波には20~25日位は要しただろうと思います。
 博多~出雲(投馬国に比定する説もある)の約400kmと、出雲~敦賀間の約350kmの外洋周りは、日和待ちの日数が増えて、もっとかかったであろうと考えられます。
 つまり倭人伝の行路記事では、畿内説も九州説も成り立たないことが判ります。
 最後にもう一つ疑問が湧いてきました。狗耶韓国から対馬~壱岐~呼子(唐津)~前原~博多と、途中の立ち寄ったクニごとに紹介がなされているのに、もし投馬国や邪馬台国が鞆や出雲、それに畿内であったのなら、なぜまだ何倍も残っている道中のクニグニの紹介が、大きく跳んでいるのでしょう。
 毎夜、津々浦々を泊まり継いで行く弥生の航海ですから、初めての中国人にとっては、湊々ごとに土産話に持って帰りたくなるような、珍奇な風俗や文物に出くわしたはずです。
 一説にあるように、郡使は伊都国から先へは行っていないのでしょうか。
 仮にも魏の天子の使臣が訪ねて来たのに、卑弥呼が女王ではなく、単なる巫女だったから直接引見することがなかったとしても、都から遠く離れたところ(もし都が畿内であったなら、後の「遠の朝廷、大宰府」のような辺りに)留めておくような応接をしたとはちょっと考えられないことです。
 やはり私は、投馬国や邪馬台国が、伊都国や奴国の南方に連接していたような感じがしてなりません。 (以下、次号に続く)

松戸:高見航毅

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