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2008-03-30 (日)

お茶の間の邪馬台国論⑱

[弥生時代の航海

 弥生時代後期には、原始的な刳()舟や独木(どっこ)舟から、準構造船の時代になっていたものと思われます。

 これは、北部九州の装飾古墳の壁画や、各地から出土する舟形埴輪(はにわ)、それに事例は少ないのですが、弥生舟の出土例によっても確認されています。

 また準構造船の出現は、釘などの鉄金具の普及も意味しますが、このことはまた後で触れることにします。

 これにより、ある程度の外洋航海も可能にし、四方を海に囲まれた倭人の活動範囲を、飛躍的に広げたことは想像に難くありません。

 しかし現代のように、いつでもどこへでも行けるというものではありません。

 魏志倭人伝の航海記事が、非常にあっさりと、まるで飛び石伝いに行けるように書かれているため、単純に〔全体の距離÷一日の航海距離=所要日数〕と考察していることが多いのです。

 

 でも弥生時代の準構造船ですから,いくら外洋航海が可能になったからといって、耐えられる波高には自ずと制限があります。

 現在でも玄界灘の漁船と、瀬戸内海の漁船とでは構造的に違いがあります。

 前者は3m近い波浪でも出船しますが,後者は1.5mを超えると、船頭が沖に出るのを逡巡するのです。

 玄界灘では夏の一時期を除き、1.5m~3mの波高が常態的ですし、内海はこれに比べて、おおむね1m前後と波が静かだからにほかなりません。

 なるほど瀬戸内の船は、舷側(げんそく)から手を伸べると、海面に届くほどですが、玄海の船は波浪を被るのを防ぐため、ずっと高く造られています。

 弥生の船はもっと波に弱かったでしょう。

 また帆走か手漕ぎによったわけですから、場合によっては、実航海日数よりも「潮待ち」「風待ち」日数の方が、よけいにかかることもしばしばだったでしょう。

 もちろん羅針盤(らしんばん)や海図もなく、航路の誘導設備や陸上の照明もまったくない時代ですから、とくに潮流が早い海域や、瀬や島の多い海域では、夜間の航海はとても不可能で、たとえ昼間でも、難儀を極めたものであったに相違ありません。

 たぶん陸沿いに、早暁から夕方まで走ったら、夕方は早めに陸に上がり、船の点検・修理や翌日の薪水の調達に、忙しく奔走したことでしょう。

 

 1300年も後の豊臣秀吉の時代、朝鮮からの通信使の航海日誌によると、依然として帆走・手漕ぎとはいえ、段違いの大型の構造船になっているのにもかかわらず、対馬海流を乗り切る釜山~名護屋間に1ヶ月も要しています。

 実際に航海した日数は、釜山~対馬で1日、対馬の西浦~府中で1日、対馬~壱岐で1日、壱岐~名護屋で1日の計4日だけで、後の20数日は「日和待ち」だったのです。何と言っても、時速7km

近くで涛々と流れる黒潮を乗り切るには、とても手漕ぎでは無理で、強い北風の力で帆走しなければならなかったに相違ありません。

 波高が常に3m近くで、航海の難しい冬季は除いて、「天気晴朗で北風が終日強く吹く日」は、この海域では今も昔もそう度々はなかったことでしょう。

 内海に入ってからはさすがに、名護屋(なごや)~博多~藍の島(あいのしま)(関門)~下関~上関(かみのせき)(柳井)~蒲刈(かもがり)(広島)~鞆(とも)(福山)~水島(笠岡)~下津井(そもつい)(岡山)~牛窓(備前)~室津(むろのつ)(姫路)~神戸と順調に泊まりを重ねてそれでも18日を要しているのです。

 使命は講和条約の締結のためで、朝鮮海峡横断に日を費やしていましたから、この内海航路はかなりの強行軍を余儀なくされたようで、「深更(しんこう)に着く」といった記述が何度も出てきます。

 実に1日に役40kmを超えるスピードで進んだことになります。(以下次回に続く)

松戸:高見航毅

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